◎晩冬に咲く桜
今井克佳(東洋学園大助教授)
なんと贅沢な芝居だろうか。開幕と終幕の場面だけ登場する80人の群集のシーン。知名度も実力も高い俳優陣。有名俳優をおしげもなく出番の少ない傍役に配置する。見た目は決して派手ではないが、現在の蜷川幸雄だからこそ、これだけの芝居がシアターコクーンで打てるのだ。まずは蜷川が上り詰めたその地位に驚嘆せざるをえない。
客席の椅子の赤と映画館の壁の黒。水尾(常盤貴子)の白一色の洋装。多くの出入り口から常に吹き込んでくる風の演出。微妙な光の効果によるリリシズム。パッヘルベルの「カノン」が哀愁の調べとして繰り返される。語り手として物語の枠を受け持つにふさわしい安定感のある秋山菜津子。骨太な、そしてユーモラスな段田安則。静かで残酷な狂気を演じる堤真一。舞台経験が浅いながらも、その凛々しさに花のある常盤貴子。その二人の踊るタンゴ。そして清水邦夫の戯曲の持つ言葉のみずみずしさ。蜷川の美意識に酔いしれる3時間弱であった。
中心人物が狂気に陥るという発想は同じ清水作・蜷川演出、堤真一主演、コクーンで2005年に上演(再演)された「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」によく似ている。「将門」が70年代、櫻社の解散前後に書かれたのに対して、「タンゴ」は80年代に書かれた。「将門」が美しき若き時代の断末魔を描いたとすれば、「タンゴ」はその後の時代であり、美しき時代への回想の情感が主題となっているといえよう。
それゆえ、狂気の言葉は氾濫するものの、それらは回想というオブラートに常につつまれている。回想という枠が与えられたことによって、ストーリーは見えやすく60~70年代の清水戯曲よりはわかりやすくなり、政治的語彙も消えている。へたをするとメロドラマに陥る寸前とも思える危ういストーリーを、演劇として支えているものはなんであろうか。
前の週に、シアタートラムで上演されていた「現代能楽集・鵺」(宮沢章夫作・演出)をみていたせいか、どうしても演劇史的な読み込みをしてみたくなる。「鵺」では、清水戯曲が劇中劇やセリフとして引用され、どう考えても蜷川としか思えない主人公が公演帰りのヨーロッパの空港でアングラ劇の亡霊のような男に出会う。出演俳優らの出自や劇中の設定が、さまざまな演劇分野やメディアを髣髴とさせるように配置されていた。
たとえば、狂った盛(堤)はシェイクスピア劇をやっていたのだからむしろ新劇俳優だったのだろうけれど、これはやはり清水・蜷川に引きつければ「アングラ演劇」。盛との恋から覚めて俗っぽい連(段田)と結婚した水尾(常盤)は「小劇場」。盛の弟で映画館をほそぼそと守る重夫(高橋洋)はそのまんまだが「映画」。そうであればやっぱりこの映画館は新宿アートシアターなのだ、などと60~80年代の映画・演劇事情をあてはめてみるのは、ほんのお遊びかもしれないが面白い。
もうひとつは北陸とされる北国の風土が背景に置かれているという点だ。水死した盛の姉の回想シーン(姉は常盤が演じる)、漁師や警官などが語る地元の伝説や噂話。それらは抜きがたい土着性を舞台全体に付与している。暗く、しかし母のように暖かくもあるその風土は盛の狂気を静かに受け止めている。
最終部、盛(堤)が狂気のなかで追いかけ続けていた「孔雀」が一瞬だが実態(もちろん装置だが)として舞台に登場する。ああ、やってしまったか、と思う。これが蜷川の最近の特徴なのだ。見せなくてもこなせるものをあえて見せてしまう。そしてさらにその後、外には雪が降り始めている、というセリフがありながら、映画館の背面を崩して蜷川が見せるのは、満開の桜の花なのである。
戯曲の設定をも崩し、蜷川は、まだ終わらない、と主張している。美しい回想のなかに若さは眠るのかもしれない。しかし、また春はめぐり桜は咲くのだと。この不自然さ、現状をよしとせず老成しない、ぎらぎらした暑苦しさこそ、現在の蜷川その人であり、彼が演劇界に王として君臨しつづける所以であるのだ。
【筆者紹介】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学助教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰
【公演記録】
「タンゴ・冬の時代」
Bunkamuraシアターコクーン(11月4日-29日)
作 清水邦夫
演出 蜷川幸雄
出演
堤真一
常盤貴子
秋山菜津子
毬谷友子
高橋洋
月川悠貴
岡田正
塚本幸男
新橋耐子
沢竜二
品川徹
段田安則
【関連情報】
・今井克佳さん執筆のレビュー一覧 (wonderland)
・稽古場レポート
http://210.150.126.198/shokai/cocoon/lineup/06_tango/keikoreport.html