大橋可也&ダンサーズ「CLOSURES」

◎コントロールを遊ぶむき出しの時間  木村覚(ダンス批評)  大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上 … “大橋可也&ダンサーズ「CLOSURES」” の続きを読む

◎コントロールを遊ぶむき出しの時間
 木村覚(ダンス批評)

 大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上の人物による自己告白もなく、経過する時間。受け身の観客に満足を与えるイリュージョンのヴェールはあっさりはぎ取られ、むき出しでからっぽな、裸の時間が、劇場の閉じた空間に放り出される。

 ぼくはそこで、うぬぼれた観客として安穏とすることは最早許されず、出来事の目撃者ないし証人として立ち合うなんて余裕も与えられなくて、ただただ時間が生まれる空間を共有する一種の共犯者のような気持ちでひやひやさせられている、巻き込まれた自分に気づく。観客の見る(体験・体感する)のは、自分も加担してしまっている更新中の時間それ自体なのだ。しかも、そこまで引きつけられて「してやられた!」と痛快な思いとともに臍を噛む他なくなるのは、これが大橋可也という(単にコレオグラファーと言うよりも)ひとりの男によるコントロールの下で遂行されたひとつのフィクションだったのだと我に返らされる瞬間が待っているからだ。

 新作『CLOSURES』は、観客を揺さぶるこうした大橋的術策を、これまでのどの作品にもなかったストレートな展開をもって堪能させる快作だった。

 アゴラ劇場の黒い舞台に、冒頭、大橋が関かおりと登場する。しばらくこちらに向かって並ぶと、関を残して大橋がひとり舞台脇の階段を登り2階のバルコニーに座る。そこではビデオカメラも舞台を覗き込んでいる。下で関の足が、微細にヒステリックな痙攣をはじめた。続いて男2人と女2人も加わる。5人はそれぞれ、表題のごとき自閉状態、淡々と自分の身体と行為に没入する一方、他の4人と関わることはない。「こと」らしきことは何も起きない。小柄な中年男は客席近くまで迫るが、犬の鳴き真似をするとあっさり奥へ戻ってしまう。中央の女が横を向いたまま小さく歌い出す。「いち、にい、さんまのしっぽ、、、なっぱ、はっぱ、くさったとうふ」。このフレーズが延々と繰り返される。それは闇のなかの道標のように無為の時間をわずかながら形あるものにする。極めて退屈な時間、といえば確かにそうだ。ジェットコースターのごとき起伏あるレールが観客を誘うことはない。けれども、どうだろう。個々人の感情や言葉へと整理出来る分かりやすい運動が最小限カットされている分、いちいちの些細な仕草や表情、振る舞いの一挙手一投足はそれ自体として際だって見えてくる。その、限りなくゼロ度の地平で動く身体それ自体が、いまここで起きる見過ごせない事件となる。

 それにしても、どれもが極めてうすい、からっぽで強度を欠いた身体だ。閉じて外を欠いている、かに見える。けれども、例えば、不意に「ごりごりごり」と床のコンクリートをひっかくスプーンの嫌な音とか、不意に暴れ舞台を乱暴に横切る若い男の「ぴーぽーぴーぽー」と叫ぶ意味不明の大声とかは、観客を逆なでし、それによって、ここに自分もいることを、観客につねに意識させる。こういったデリケートで効果的な仕掛けを、大橋は丁寧に仕込んでいる。30分ほど、この無為の時間が経過した後、突然、中年の男がホイッスルを吹き、耳をつんざく。逃げ出したい痛みが走る。

 そこに、上から大橋が降りてくる。時間がドラマとしての輪郭をあらわしはじめる。明らかに「支配者」の役柄を纏う、強圧的な眼と無表情で観客の真正面に腰を下ろす大橋。彼は誰の支配者? もちろんダンサーの、いや、それだけではどうもない。例えば、こちらに真っ直ぐに眼を向ける大橋が、極々わずかに何度か顔を傾ける、そのときミニマル(最少)なその所作が何を意味するのかは分からないが、微妙な変化が謎として見る者を引きつける。こちらに腕を振り上げ差し出す。向けられたその腕の行方に眼が誘導される。何ら「ダンサブル」ではない大橋の所作は、催眠術師のように観客をコントロールする。その効果が目を見張らせる。

 こうして、どんどんダンサーも観客も引きずり回していく「支配者」が、次に衣服を脱ぎはじめると、急に立場が反転する。大橋は衆目にさらされる男となり、その裸はなにやら滑稽な空気を生んでしまう。痩せた「ダヴィデ像」のように後ろ向きで腕を振り回すと、観客はコントロールどころか失笑を禁じ得ない。床に撒かれた白い砂の上で泳ぐ真似をしている内に、ダンサーたちは、パートタイマーのように律儀に「帰宅」してしまう。最後に残った関も、ワンピースを脱いで下着姿になっても、泳ぎに加わるのでもなく、清々したとばかりに静かに大橋をひとりきりにする。裸の王様の孤独な遊戯が、これまで過ぎた時間だったのだ。そう理解するのはあまりにわかりやすいオチではあるが、渦のように逆巻く、演出家(振付家)-ダンサー-観客の間で交差する コントロールの力線こそ、物語が一掃された後のゼロ度の空間になおも 残るドラマであることを、大橋は見事に開いて見せた。ドラマをかき消 した後にむき出しにされた、ドラマが通常は隠しているもの、つまり舞台構造に潜む権力的関係こそ「CLOSURES」が垣間見せた(メタ) ドラマだったのである。

【筆者紹介】
 木村覚(きむら・さとる)
 1971年5月千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻(美学藝術学専門分野)博士課程修了。文学博士。現在は国士舘大学文学部等の非常勤講師。美学研究者、ダンスを中心とした批評。2月の各週末に集中講座「超詳解20世紀ダンス入門」を予定している。
・wonderland寄稿の劇評一覧

【上演記録】
大橋可也&ダンサーズ「CLOSURES
こまばアゴラ劇場(1月8日-14日)

出演:大橋可也、関かおり、皆木正純、宝栄美希、藤井園子、(ロマンス小林)
振付:大橋可也
音楽:舩橋陽
照明:遠藤清敏(ライトシップ)
舞台監督:原口佳子(office モリブデン)
音響協力:牛川紀政
写真:GO(www.go-photograph.com)
宣伝美術:佐藤寛之
映像記録:岡崎文生(NEO VISION)
制作:三五さやか
協力:大橋めぐみ、川上大二郎、潮上聡史、垣内友香里、古館奈津子、神村恵、吉開菜央、ビーグル・インク
企画制作:大橋可也&ダンサーズ/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成:平成18年度文化庁芸術拠点形成事業

【当日パンフレット(PDFファイル)】
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関連イベント
★大橋可也&ダンサーズの作品世界について
1月8日(月・祝)17:00より、大橋可也&ダンサーズ作品のビデオ上映と作品の解説。
ゲスト:西田留美可(ジャーナリスト・舞踊批評)
WEBサイト http://dancehardcore.com/

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