shelf「構成・イプセン-Composition / Ibsen」

◎<母>と<子>が戯れるほかないポスト・ヒストリカルなユートピア/ディストピア
大岡淳(演出家・演劇批評家)

「構成・イプセン-Composition/Ibsen」公演から
写真提供=shelf &copy

矢野靖人の演出作品をきちんと鑑賞するのは、これが初めてである。ただ以前、演劇千年計画のワークショップ成果発表会で彼の演出に触れ、その静謐な美学には並々ならぬものを感じ、注目していた。短時間の発表会から感じられたのは、どうやら彼の演出には、身体・空間・光・音といった諸要素をどう結合させ調和させるかという課題に関して、明確なビジョンが存在しているということであった。言ってみれば、演劇というよりもパフォーマンスとしての完成度の高さを感じ、ではここに物語という時間軸を導入したらどうなるのか、という点に興味を持った。その矢野が、名古屋の七ツ寺共同スタジオでイプセンを上演すると聞き、さっそく名古屋に赴いて鑑賞に及んだ。


結論から言えば、矢野は、空間のみならず時間についても、やはり美的な均整による構成を達成しており、まごうかたなき芝居の演出家として、現時点で彼がなしうる最高の到達点を見せてくれたと感じ入った次第である。思えば、この芝居のタイトルには「構成」の一語が含まれており、それはおそらくイプセンの複数のテキストからこの芝居が「構成」されていることを示唆するものであろうが、のみならず、空間と時間をともども美的な「構成」によってデザインするという、この演出家の特質を語っているかのようでもあった。

客入れの段階から、既に5人の俳優たちは板付きで、舞台上に佇んでいる。この、ぼんやりと、うつろに佇む風情は、しかし芝居が始まってからも、印象として変わることがない。登場人物間のコミュニケーションは微妙にすれ違い、葛藤というほどの葛藤が生じる前に視線はあらぬ方向に外され、濃密な意味を欠いた遊戯的なふるまいをひととき交わした後、人物たちは、再びうつろな表情で、孤独な佇まいに戻っていく。あらかじめ言っておくと、その人物たちの様はあたかも、演ずるに値するドラマはもう演じられ尽くしてしまった、と言いたいかのようである。

ただし、決して物語が存在しないというわけではない。5人の俳優によって演じられる物語はイプセンの戯曲『幽霊』であるが、演出家によれば、どうやら『幽霊』以外にも、様々なイプセンのテキストが断片的に挿入されているらしい。ただし、どれが『幽霊』でどれが別のテキストかという区分けは、観客には判然とはしない。ともあれ、『幽霊』のあらすじは以下のようなものだ。

名士として知られた陸軍大尉である夫を亡くしたアルヴィング夫人(三橋麻子)が、その夫の名を冠した孤児院を開設することとなり、開院式の前日、旧知の仲であるマンデルス牧師(木母千尋)を呼びつけて準備にいそしんでいる。そこに、絵描きを目指してパリで暮らしていた息子オスヴァル(凪景介)が帰ってくる。放蕩の果てに健康を害したというオスヴァルの虚無的な態度に触れ、呆れ返るマンデルス。そこで夫人はマンデルスに、亡夫と自分は世間では模範的な夫婦と思われていたが、実のところ夫は死ぬまでふしだらなおこないを改めず、あろうことかこの家で小間使いを相手にことに及び、自分は矢も盾もたまらずオスヴァルを国外に出したのだと告げる。そう語った折も折、オスヴァルが召使レギーネ(佐直由佳子)に手を出したことに気づき、驚愕した夫人は「幽霊が現れた」と口にする。

「構成・イプセン-Composition/Ibsen」公演から
【写真提供=shelf &copy】

夫人は、夫の悪行をひた隠しにして、パリにいた息子には、さも父親が立派な人物であるかのように手紙を書き送っていたとマンデルスに打ち明ける。オスヴァルは、自分は重い病を患っており、パリの医師には「親の罪は子が償いをさせられる」と宣告されたが、母からの手紙を読み上げて反論したと、夫人に告げる。さらに彼は、自分と共にパリに行くことを夢見ていたレギーネと結婚したいと申し出る。そのとき、孤児院が突然の火事に見舞われる。火事の後、夫人はオスヴァルとレギーネに対し、亡夫が実は不道徳な人物であったことを打ち明け、また、レギーネは亡夫と小間使いの間に生まれた不義の子であり、オスヴァルとは異母兄妹に当たると告げ、2人に結婚を断念させる。レギーネはただちに家を出てしまい、オスヴァルは、レギーネを必要とした本当の理由を母に語る。彼は不治の病である遺伝性の脳軟化症を患っており、再び発作が起きれば赤ん坊のようになってしまうことを恐れていた。だが非情なレギーネなら、発作が起きたときに薬を飲ませ、自殺の手助けをしてくれただろうというのだ。何もかも思い過ごしだと息子を慰め、母子だけのひとときに幸福を感ずる夫人。しかしそのとき、オスヴァルを発作が襲う。「太陽がほしい」とうわごとを口にする息子を前に、夫人は、息子の頼み通りに薬を飲ませるか否か、絶望的な選択を強いられる。

悪徳の積み重ねによって形骸化し腐臭を放つ家名を、因習を重んじ義務を果たさねばならぬという一念で、欺瞞と知りつつも守り通してきた女性が、ようやくその因習から解放されたかと思いきや、「幽霊」のごとき悪徳の報いによって悲劇に陥る物語、ととりあえずは解釈できる。さて、この『幽霊』という戯曲を素材として、矢野はどのような演出を施したか。いくつか特筆すべき点を挙げてみよう。

まず空間についてだが、アクティング・エリアがスクエアに区切られ、その中にはアルヴィング夫人が座る簡素な椅子があるばかりで、極めてシンプルな構成となっていた。これに、蛍光灯を用いるなどしてシンプルな空間を多角的に照らし出し、クリアカットな印象を喚起する照明(木藤歩)が加わり、また独特の淡い色彩を放つ衣裳(竹内陽子)も調和して、いつ・どことも知れぬ、抽象化された美的な空間を作り上げていた。

この空間の、舞台と客席の境界線には女/ノーラと名指された匿名的な女性(川渕優子)がうずくまっており、彼女は芝居の進行に寄り添い、過度に物語に介入することもなく、また過度に意味づけを喚起することもなく、時に言葉を呟き、時に他の登場人物と視線を交錯させ、上演の空間と時間を自在に浮遊する。終幕、オスヴァルから真実を告げられたアルヴィング夫人が、まるで自分自身の表情を鏡で見つめているかのように、女/ノーラを呆然と凝視するところなど、とりわけ印象深かった。ちなみにこの終幕ではさらに、母子の悲劇をスクエアなエリアの外側から、演ずることをやめたオスヴァルとレギーネが無表情に観察するというしかけが施されており、先述したような「演ずべきことなどもう何も残っていない」という印象を助長する、ちょっとした異化効果をもたらしていた。この女/ノーラという、狂言回しのごとき登場人物が発揮した演出上の効果は見事なもので、全体に幻想的なムードがたちこめることとなった。彼女は、あるいは天使なのかもしれぬ。とすればここは黄泉の国で、登場人物たちはとうに死んでしまった者たちなのかもしれぬ。そして、自分が死んでしまったことを納得し切れていない彼らが、今一度自分たちの生涯を、このいずことも知れぬ空間で演じ直しているのかもしれぬ。だが記憶は既に失われつつあり、死者は生者になりかわることはできず、彼らの様子はどこかうつろで、魂が抜けてしまったかのようにギクシャクとしてしまうのかもしれぬ-。

さらにもう一点、矢野演出の重要な特徴を指摘しておきたい。この物語の登場人物たちは、夫であり父であったアルヴィング陸軍大尉の死によって宙吊りにされてしまっているわけだが、このことに対応してか、この舞台には〈男〉が不在である。戯曲を読む限りアルヴィング夫人に横恋慕していたと思われるマンデルス牧師は、この舞台ではなんと女優が演じており、中性的な存在へと転じている(木母はこれを面白く演じていたが、男とも女とも取れないジョーカーのごとき不気味さには今一歩至っていない点が惜しかった)。また息子オスヴァルは、レギーネを襲おうにも果たせず、去勢された青年というイメージで描かれている(苛立ちに衝き動かされ奇怪なアクションを迸らせる、凪の熱演が光った)。そして全体としては、〈家〉に踏みとどまった母=アルヴィング夫人を中心に配置し、〈家〉から脱した女=ノーラ(母に対する娘のようにも見えるし、また、母の少女時代のようにも見える)がその周縁を辿り、さらに両者が終幕で邂逅を遂げることで、物語の空間と時間は、まさしく女性的な円環を描くこととなった。そして〈家〉を支配していたはずの父は、まるでゴドーのように最後まで姿を現さない。ここが黄泉の国なのだとすれば、神は不在である。うつろに佇む俳優たちを操り人形に見立てるなら、ここには人形使いが不在である。

戯曲は、人々が過去によって復讐されてしまう様を描いているわけだが、矢野演出は、過去に復讐される物語すら既に過去のものと化している、と言いたいかのようだ。演じられるドラマは、半透明のフィルターに隔てられ、記憶の彼方に揺曳している。女/ノーラが象徴する「末期の眼」によって顧みられている、と言ってもいいかもしれない。

つまり、古典的なジェンダーを道具立てとしてドラマを構成するイプセンの戯曲を括弧にくくり、その戯曲と現在との距離感をあえて可視化することで、矢野演出は、「神の死」を迎えた時代としての近代の果てで、〈父=夫=男〉という超越的存在を欠いたまま〈母〉と〈子〉が延々と戯れるほかない、〈死〉に近接した時空間――ポスト・ヒストリカルなユートピア/ディストピアを描き出したと言えるのではないか。同時代に対する鋭敏な認識と、空間・時間に対する美的感覚と、俳優の静かな佇まいの中からエネルギーを発散させる演技方法とを結合させ、矢野は鮮やかなビジョンを造形し、見応えのあるポスト・ドラマ(ハンス=ティース・レーマン)を創造した。

一点難を言えば、西洋的な所作と東洋的な所作をどう統合するか、あるいは統合せずにどう混在させるか、という点に、一貫性が見えないことが勿体なかった。所作をどう作るか、さらに理念的かつ方法的に磨きをかけてほしい。
だがそのような難点がありながらも、じゅうぶんに魅力的な芝居であった。舞台中央の椅子に腰掛け、肘掛けに置いているかのように中空で腕を静止させたまま、淡々とした調子で台詞を語り続け、矢野の世界観を体現したアルヴィング夫人役の三橋麻子は、ベテランの妙技を示して見事であった。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第27号、2007年1月31日発行。購読は登録ページから)

【筆者紹介】
大岡淳(おおおか・じゅん)
1970年5月兵庫県西宮市生まれ。演出家・演劇批評家・パフォーマー。普通劇場メンバー(http://ordinary21.web.fc2.com/)。(財)静岡県舞台芸術センター(SPAC)芸術局企画運営委員。桐朋学園芸術短期大学、静岡文化芸術大学、河合塾COSMO東京校非常勤講師。2月23日から25日まで「横濱・リーディング・コレクション#2」にエントリーする。

shelf「構成・イプセン-Composition / Ibsen」公演チラシ
公演チラシ 提供=shelf &copy

【上演記録】
shelf「構成・イプセン-Composition/Ibsen」(「幽霊」より)
名古屋・七ツ寺共同スタジオ(2006年11月30日-12月03日)

[原作] ヘンリク・イプセン『幽霊』より Written by Henrik Johan Ibsen
[構成・演出]矢野靖人 Composed and directed by Yasuhito Yano
[出演] cast:
川渕優子 Yuko Kawabuchi (shelf)
木母千尋 Chihiro Kibo (第七劇場)
佐直由佳子 Yukako Sajiki (第七劇場)
凪 景介 Keisuke Nagi (Ort-d.d)
三橋麻子 Mako Mitsuhashi (Ort-d.d)

[音響] 和田匡史(第七劇場)sound designer: Masashi Wada
[照明] 木藤歩 (balance,inc.)lighting designer: Ayumi Kito
[衣裳] 竹内陽子 (TAKEUCHI)costume designer: Yoko Takeuchi
[写真] 原田真理 photographer: Mari Harada
[宣伝美術] 西村竜也 Graphic designer: Tatsuya Nishimura
[舞台監督] 宮田公一 stage manager: Koichi Miyata
[制作協力]東海シアタープロジェクト Production cooperation: Tokai Thetre Project
[提携]七ツ寺共同スタジオ Tie-up: Nanatsudera Kyodo Studio
[製作]shelf / 矢野靖人 producer: shelf / Yano Yasuhito

料金:当日 ¥3,000 前売 ¥2,800 (日時指定・全席自由席)
連絡先:TEL. 090-6139-9578 / e-mail. info@theatre-shelf.org

【関連情報】
イプセン作品一覧(「幽霊」などamazon.co.jpより)
イプセン・イヤー2006(Ibsen in Japan)
横濱リーディングコレクション#0 福田恆存を読む!(wonderland から)

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