バカバカしい。なんともバカバカしい。観劇しながら常に思ったことである。それは、今年で三年目を迎える若い劇団にありがちで、挑発的でポップなチラシに充満するふざけ具合の通りの印象なのだが、その徹底的なバカバカしさが最高でしかも意外にしたたかな手つきをしていることにちょっと驚かされたのだ。それがこの劇団のいつものスタイルで且つ実力によるものなのかは初見であるが故に判然としない。舞台をから感得したこととは、キャラ作りは達者でも演技のアンサンブルという面ではお世辞にも決して上手いとは言えない俳優、我々若い世代の虚構のノスタルジックを喚起させて止まない布施明や尾崎紀世彦といった昭和歌謡の劇中使用、演劇的約束事を平気で異化せんがためのパロディと映像を用いたギャグ(『となりのトトロ』の、雨の日にカンタがサツキに傘を貸すシーン映像にアテレコすることで生じるズレた笑い等)である。こういったくだらなさが全編とおして速射砲のように繰り広げられるダイナミズムさに私はとにかく底知れぬパワーを皮膚感覚で体験したのだ。俳優達と共に汗を流すほどに熱さが充満した要因は確かに気候だけによるものではなかった。
あらすじのようなものを素描することにさしたる意味はないし、また、その時の情景を記述することに不毛さを感じるほどにバカバカしいものである。舞台奥の壁上方にショーウインドーが如く空いた二つの空間。そこから女子高生とおっさんが飛び降りた着地点にはベッドがある。歌謡曲が流れ、二つの空間の間には互いの会話と地の文が映像で投影されるのに併せて二人は激しいセックスを行う。そして絶頂を迎えた瞬間、腹上死してしまうおっさんに対して周囲に集まっていた他の登場人物が
絶叫。なんら観客に「悲」の感情を与えることことのないこの画が示すさながら漫画のような冒頭場面にこそ、まずはこの作品のテイストが集約されていると言えよう。言ってしまえば内容ゼロのくだらないことをこれでもかというほどに徹底することでの求心性獲得への信念を遊戯性の内で達成させる。瀟洒な電飾や歌謡曲、汗だくになって狭い空間をハイテンションで動き回る俳優達の懸命さはその一点に根ざされているのだ。
確かにこういう手合いのものはありふれている。照明をピンスポットだけにし、その中で台詞が語られたならば他者には聞こえていない体で回想を示すということ、たとえ嘘だと誰もが分かっていても役者はきちんとドアを開けてハケるといった演劇的約束事を逆手に取る代表的手法としてメタシアターの時代を通過した現在では、最も安易に笑いを取りやすいものという認知で今や当たり前の如く我々は受容している。ただ、この劇団が一味違うのは、笑いの落とし所が物語=メロドラマへ収斂していく、あの最大振幅を演出するための単なるフリに過ぎないという事態を周到に避けようとしているからである。未成熟で素人臭さが明らかに感じられる舞台は多い。そして笑いとほんの少しの涙を提供する文学に寄りかかったエンターテイメントもいかに多いことか。そんなもの私はとんと興味がないのだ。
その回避は最後のシーンで裏付けられる。「『イク直前ニ歌エル女(幽霊みたいな顔で)』の供養」という映像が投影される中、登場人物達は舞台上に車座になって誰が最も不幸かを言い合う。おっさんと妻、息子、女子高生、ストーカー男、刑事。誰もが己の境遇を盾にしてささいな悪事に及んだ正当性を主張するが、誰かが誰かに微妙に影響を与え合っているが為に一人の主張は他者にはとても納得のいくものにはならない。自分以外の人間で誰が不幸かを聞いていっても結局自分が不幸であると言ってしまうくらいなのだ。その後に訪れた沈黙に、答えの出ない答えに汲々と煮詰まって問題を先送りたいだけ、こんな人間がいなくなれば地球環境はもっとよくなるはずなのに、そうもいかないか、という趣旨の文字映像が投影される。このドライな感覚は注目していい。なぜなら、このシーンが示すものは個々の人物だけでなく、これまでのバカバカしい展開の全てに対する掛詞であり、ひいては創作する彼ら劇団の活動自体が相対化し無化されることと同義なのである。それは、夢の中の渦中に居れば視野狭窄のように他を見る必要がなかったのに、やがてそれが一時の狂騒だったことにはたと気付く瞬間が訪れた時に突きつけられる虚無感の表れである。そういう意味では劇中のおっさんが腹上死ではなく、興奮しきった女子高生による絞殺で、その女子高校生が語る「自分だけイクなんて!」という台詞が際だったものとして捉えられる。イクという絶頂を迎えて快楽死(往く)したおっさんこそが生(き)る真実を知った人物かもしれないということを。だがそんなこと、虚構の日常を必死で埋めることしかできない我々が知りえるはずのないことだが。
この劇団に注目していいと思わせるのは、作品世界に漂う熱の支柱が、ドライな視線による自己を含めた演劇制度をも否定しているようなねじれた遊戯性の内に表現されているからであり、しかも最後の最後までそれが諦念やシニシズムを上意下達に伝え、感じさせることないのは、創り手と観客双方に向けられた周到な演出力によって、凡庸なものに陥らないよう配されているからである。劇場から烏丸線松ヶ崎駅へむかう長い直線を歩きながら思った。こんなバカバシしい芝居を観るために片道二時間以上かけてる私もバカバカしいな、と。非生産的な演劇の否定はそれに関わる全ての者をして志向する根拠を問うことで抑圧されていた位相を暴露し、鬱にさせる。底知れぬパワーは実に底意地の悪い坂口安吾のような世界を垣間見せた。
(3月29日 アトリエ劇研 マチネ)
(藤原央登 現在形の批評)
・Wonderland掲載の劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/
【上演記録】
悪い芝居 『イク直前ニ歌エル女(幽霊みたいな顔で)』(3月28日~4月1日)
【作・演出・出演】山崎半分(山崎彬)
【出演】
大川原原人(大川原瑞穂)
藤代熊髭(藤代敬弘)
らいすすぱげってぃ(三國ゲナン)
四宮仕立て(四宮章吾)
太田不足(太田中太)
【スタッフ】
舞台監督:小島聡太
美術:東野勢子
美術補佐:吉川へなの
照明:芝刈麒麟
音響効果:松本赤顔
音響操作:中野マリ
劇中歌作曲:伊藤俊
衣装:西岡粉美
衣装補佐:中野ユリ
舞台小道具;太田不足
演出助手・映像:らいすすぱげってぃ
映像SV:@雪
映像操作:津田方面
宣伝美術:星野女学園
WEB:岳山温泉
広報:井上かわず
制作:富永ゆうこ
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