◎囚われぬ身体の美しさ
今井克佳(東洋学園大学准教授)
2007年3月、チュニジアのファミリア・プロダクションが、「東京国際芸術祭」に再登場した。演出家ファーデル・ジャイビと、脚本家で女優のジャリラ・バッカールを核とする、この演劇集団は、メンバーを固定した劇団ではないようだが、前回、2005年に「ジュヌン-狂気」で公演したときと同じ出演者を今回も認めることができた。
「ジュヌン―狂気」は衝撃的だった。統合失調症のため、家族から、そして医師からも見放されかけた主人公の青年が、最終部に「生への希望」を叫ぶシーンは深い感動をもたらした。また、家族の不和をあらわす皿投げがいつのまにかコミカルともいえる曲芸的なシーンに変化したりと、フィジカルな要素も強く、印象に残った。ぜひ、また機会があればと思っていた彼らの作品を今回ふたたび見ることができた。
今回の作品「囚われの身体たち」は50を意味する「ハムスーン」がアラビア語の原題だそうだ。独立50年を迎えたチュニジアで、民主化をすすめてきた親の世代と、反動的イスラムに走る子の世代の葛藤を中心に、社会の現状を描いている作品といえよう。
言語の壁を超えた魅力を、今回の作品「囚われの身体たち」も持ち合わせていた。冒頭の約15分間はセリフのない情景だ。暗く、まっさらな舞台に正方形の絨毯がしかれている。次々と袖のパイプ椅子に無言の役者が座るが、次第に水の流れる音とともに俳優たちは舞台に進み出て、イスラムの祈りの儀式を模した動作を続ける。(イスラムの祈りの前には水で手足を清めることさえ、私は知らなかった。)水の音と、足を浸す動作。照明が作り出す微妙な光と影。まずはこのシーンの美しさに圧倒された。この作品は、振付家としてナウェル・スカンドラーニを起用しており、こうした美しい振り付けのシーンが他にもいくつか見られた。
続いて語られる物語はこうだ。リベラルな左翼活動家の両親を持つ娘、アマルはイスラエルのシャロン首相がエルサレムを訪問した事件をきっかけに、イスラム原理主義に接近する。その後、パリに留学するが、イスラムの活動家たちと交流し、自分もまた、厳格なイスラム教徒となり、ヒジャブ(頭髪を隠すスカーフ)をかぶった姿で帰国する。ピンク色の派手なスーツケースと、イスラム教徒のいでたちのアンバランスが、そのまま若者の精神のアンバランスを示しているかのようだ。咽頭がんで声の出ない父親はそんな娘を許さず、アマルは同じ考えの友人たちと暮らすようになるが、そのルームメイトの一人である高校教師が不可解な自爆事件を勤務先で起こして死ぬ。その結果、アマルともう一人のルームメイトは警察に拘束され、拷問を受けることになる。
一方、アマルの母、マリアムは、夫が左翼活動のため何度も投獄、拷問された記憶を、娘の逮捕によりよみがえらせる。すでに夫は入院しており明日をも知れない。マリアムは酒場で、昔、警察で夫を拷問した男を見つける。彼は老いさらばえて落ちぶれていた。彼を執拗に追い回し、夫への拷問の理由を問いただすマリアム。やがて二人は友人のように心を開き、男は夫への見舞いにさえ来るようになる。
こうした親の世代は、力を失い、疲れ果て、行き先を見失った人々のように描かれる。弾圧した側とされた側であるのに、そこには負けたもの同士の連帯感に似た感情さえ読み取る。アマルの父の死が最後に語られることによって、マルクス主義の敗北があらわに示されているのだ。
それに対して、子供らの世代はどうか。アマルの所属するイスラムのグループは、決してテロを起こすような過激な集団ではなかった。もともとチュニジアの国民の大部分はイスラム教に属しながらも、西洋風の生活をしている。そこに厳格なイスラムの倫理を取り戻そうというのだ。しかし、アマルのパリ時代の元婚約者がテロリスト集団に入ったことなどから、警察はルームメイトの自爆事件をテロと疑い徹底的に取り調べる。しかし実は、自爆した高校教師の教え子がテロを計画したのだった。最終部にそうした真相が明かされるのだが、私の力不足か、そこをはっきりと読み取ることができなかった。教え子のテロを最初はたしなめていた教師が、なぜその爆薬を使って死んだのか。
アマルを演じた女優は小柄で、まっすぐにものを突き詰めてみるような目の表情が印象的だった。そこには、理想を追い求めて、信じた道を頑なに守り続ける、若者の典型的なあり方が見えた。野田秀樹の新作「ロープ」のなかで「青年の純情」と語られた、純粋であるがゆえに、狂気をはらんだ、そしてエネルギーにあふれた頑なな心は、いつの時代の若者にも見られるものではないだろうか。アマルもまた、そうした「純情」にとりつかれて、自らをイスラムの衣装でがんじがらめにしているかのようだ。
最終日のポストパフォーマンストークを聞いたが、そこではじめて、脚本家や演出家ら、作り手の立場を明確に知った。それは劇中の同世代であり、忘れ去られつつある左翼活動家、民主活動家を評価する立場であり、若者のイスラム化は一度獲得した民主的な自由(男女同権、離婚の自由など、イスラム教徒が大部分を占める国家としては、チュニジアは異例の民主国家なのである)を放棄するものとして、なんとか食い止めたいと考えているということだった。60年代のパリで演出を学び、抵抗の演劇を作り続けてきたファーデルのことを考えれば当然のことだろう。
しかし、私はこれを聞くまで、そのようにはとらえていなかった。すでに指摘したように、親の世代は疲れ果て、消えゆくように描かれている。むしろ美しいのは、イスラムの祈りの所作を元にした冒頭の振り付けであり、イスラムの衣装を着た女性たちの所作であった。その方向はともかくとして、そこに向かう若者の中の何か純粋なもの、あるいはイスラムの内包する、宗教的な気高さのようなものに心惹かれてしまったからである。
アマルが、部屋に帰り、ヒジャブを脱ぎ、長い黒髪を垂らしながら、くるくると回転していく夢幻的なシーンがある。そこでは、イスラムの外見に囚われていたアマルの心の奥底にある、自由な、そして女性性が解放された本来の若者の純粋さの姿があらわれ出たのだろうと私は感じた。それこそが、滅び行く左翼勢力でもなく、過激で不自由なイスラム原理主義でもない、若者の本来向かうべきもう一つの道を指し示しているのではないかと、思えたのだが……。それは作者たちの思うところではなかったようだ。しかし、日本人という、ニュートラルな(あるいは無知な)立場から、この作品を見たときに、そうした印象もあらわれてくるだろう必然性をこの作品は抱えていると思う。そして、いずれにしても、変わらないのは、国家権力の横暴さだけというのは皮肉であり、恐ろしい。
パイプ椅子と、ボクシングのサンドバック以外は何も使われない舞台で、複雑な心理と物語を紡ぎ出すこの舞台は、絶望を投げ出したような終わり方をしているものの、やはり強い印象を残す作品であり、イスラム圏や西欧のみならず、全世界を覆う世代間の問題を投げかけていると思わされた。
最後に上演に関して、ひとつだけ苦言を呈しておきたい。初日に観劇したのだが、様々な面で準備が整わなかったのか、俳優の出のタイミングや、所作の失敗が目に付いた。そしてさらに大きかったのは字幕のタイミングがよくなかったこと。アラビア語上演(部分的にフランス語も使用される)なので、どうしても字幕に頼らざるを得ない私としては、内容の理解が大きく阻害されてしまった。おそらくスケジュールなどの関係で、リハーサルがほとんどできていなかったのではないか。結果、どうしても消化不良で、最終日にもう一度観劇することにしたが、今度は字幕のタイミングもよくなっており、理解を深めることができた。芸術祭側もギリギリの努力を重ねて、様々な困難を乗り越えて上演していることを伝え聞いてはいるので、厳しいことは言いたくないが、初日は、多くの演劇関係者も客席に見かけたこともあり、この点だけはたいへん残念であった。
4年間にわたって「東京国際芸術祭」が取り組んできた、「中東シリーズ」は、今回でいったん終了するという。上記のような不備もあったが、様々な悪条件をクリアして、パレスチナ、イスラエル、レバノン、クウェート、チュニジア、ウズベキスタンといった、普段はまず触れることができない国々の舞台芸術を招聘するのみならず、共同制作で世界初演作を数作品生み出していることなど、中東世界の演劇状況に、日本の観客の目を開かせてくれた功績は大きいと思う。このシリーズ全体が文化事業として高く評価されるべきものであると考える。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第41号、2007年5月9日発行。購読は登録ページから)
【筆者紹介】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身、東京都在住。東洋学園大学准教授。専攻は日本近代文学。演劇レビューブログ「Something So Right」主宰。
・wonderland 掲載劇評一覧
【上演記録】
ファミリア・プロダクション『囚われの身体たち』(Corps Otages)
http://tif.anj.or.jp/program/familia.html
にしすがも創造舎 特設劇場(3月15日-18日)
■ 上演言語: アラビア語・日本語字幕付
■ 上演時間: 2 時間30 分)
■ 原作・脚本・ドラマトゥルク: Jalila BACCAR ジャリラ・バッカール
■ 演出・脚本・ドラマトゥルク・照明: Fadhel JAIBI ファーデル・ジャイビ
■ 舞台美術・衣装: Kais ROSTOM カイス・ロストン
■ 照明: Yvan LABASSE イワン・ラバース
■ 振付・音楽: Nawel SKANDRANI ナウェル・スカンドラーニ
■ 出演:
Jalila BACCAR ジャリラ・バッカール
Fatma BEN SAIDANE ファトゥマ・ベンサイデン
Jamel MADANI ジャメル・マダニ
Moez M’RABET モエッズ・マラベット
Besma ELEUCH バスマ・エラシ
Lobna M’LIKA ロブナ・ムリカ
Wafa TABBOUBI ワファ・タブビ
Riadh HAMDI リアド・ハムディ
Hajer GARSALLAOUI ハジェール・ガルサラウィ
Khaled BOUZID カレド・ブジド
Hosni AKRIMI ホスニ・アクラミ
演出助手: Sami NASRI サミ・ナスリ
照明操作: Mehdi BEKIR メディ・ベキール
音響操作: Salah CHARGUI サラ・シェルギィ
衣装管理: Jalila Madani ジャリラ・マダニ
舞台監督: Sabri ATROUS サブリ・アトルース
制作: Habib BEL HEDI ハビブ・ベルヘディ
日本側スタッフ
舞台監督: 小林裕二
照明: 小笠原純(ファクター)
音響: 相川晶(サウンド・ウィーズ)
翻訳: 藤井慎太郎(早稲田大学助教授)
制作: 相馬千秋(NPO 法人アートネットワーク・ジャパン)
■ 料金: 一般4,000 円/学生2,000 円(当日要学生証提示)豊島区民割引 3,000 円
中東シリーズ共催: 国際交流基金(ジャパンファウンデーション)
東京国際芸術祭(TIF)参加
助成:フランス語圏国際機構
平成18年度文化庁国際芸術交流支援事業