◎立体的な広がりの到達点と更なる可能性
柳沢望
3月末、『関わりを解剖する二つの作品』と題して、手塚夏子の振付作品が2本上演された。手塚夏子は近年『私的解剖実験』と題したシリーズによってダンスの方法論を模索する試みを続けてきたが、今回の二作品では、今まで探求されてきた方法論が組み合わされ、立体的な広がりを見せ始め、手塚の方法論のひとつの到達点を示すと共に、更なる可能性を予感させるものになった。
『サンプル』と題した一本目の作品は、山縣太一ひとりが主に出演するもの。チェルフィッチュの主要な作品に出演している山縣は、日常的な身振りを誇張するようなチェルフィッチュ独特の手法をもっとも体現していると目される俳優だ。
冒頭、無音で沈黙のなか会話中の身振りのような仕草がゆっくりとくりかえされる。山縣は終始椅子に座ったままだ。鼻をさわったり、足を組み替えたり、両手をそろえて右から左に「おいといて」と言うように動かしたり。山縣の上手側の向いには、スピーカーを頭に擬した人形が対話相手のように椅子に座っている。人形の背後の壁には、人体の各部を図式化したようなラフなタッチの線描がある。やがて、その身体図式が作品の動きに関わるものであることが理解されてゆく。
しばらくすると、身振りのループに音楽がかぶさる。音響系とでもいうか、サンプリング音なども用いたもののようでコンピューターでライブ演奏されているらしい。山縣は向いの人形と会話を始める。その場で思いついたことを話しているようだ。つまり、普通の会話である。客席の脇に操作卓を据えて腰掛けている音楽家(スズキクリ)がマイクで話しかけている声がスピーカーから流れているらしいことが理解される。
いつしかループしていた仕草は途切れ、座ったままの山縣は即興的に身じろぎする、というか、しゃべりながら体が自ずと動くに任せているように見える。おしゃべりが続いていたかと思うと、舞台袖から手塚自身が登場し、山縣に対して様々な指示を与えて行く。その指示は、直接身体を動かすように命じるものではなく、身体の意識の仕方、身体のイメージの仕方を指示するものだ。「肩にピンク色が広がる」などの幾分詩的な表現もあり、身体の内部感覚を意識しながらそれを変容させるようにするようなものだった。
そうした、身体に対する意識のフォーカスを変えアングルを変えフィルターを変えていくような作業によって予期せぬ動きを身体の奥から生み出してゆくとでもいえる手法は、手塚自身が『私的解剖実験-2』『私的解剖実験-3』などの作品を通じて模索してきたものだった。これらの試みで手塚が自らに行っていた指示が、ここでは手塚から山縣への指示という形に転換されている。山縣は、意識の表面ではミュージシャンとの会話を進めながら意識の底では手塚による指示に従って身体感覚を変容させる作業に集中することになる。話者と身体との関係がずらされながら重ねあわされている。そこに、「関わりの解剖」とその組み合わせによる実験があるのだろう。
さて、会話を続けながら、身体意識を変容させつつ、自ずと動くに任されていると見える場面がしばらく続いていたのだが、いつしか不意に、冒頭に繰り返された型の決まった動きが戻ってきた。そのときの驚きが脳裏に強く焼きついている。いかにも、そうであって当然という風に、即興的で繰り返しのない動きのなかに決まった型のある動きが紛れ込んできたからだ。
身体意識の変容によって身体が動きはじめる、その自発的な動きの発露に作為が感じられないのは当然なことだ。しかし、繰り返される型となった決められた動きに作為が感じられないというのは、少し驚くべきことだ。その状態は、振付けられたダンスが単なる行為の遂行にとどまらない瑞々しい質を帯びたものであるために欠かせない条件の一つとも言えるだろう。
単なる反射でもなく、習慣的動作でもないような発意のあり方。型との再会が動きとの出会いとしてなされること。一瞬驚いた私は、そこで、動きが新鮮であるための条件を開く可能性が試されていたかのように思った。
『私的解剖実験-4』では、会話の様子をビデオに撮影し、録画された動きをトレースするという手法による振付が試みられていたが、『サンプル』で繰り返されていた決まった身振りは、同じ手法によるもののようだ。2作品目の『プライベートトレース』は、この手法を徹底したものらしい。
『プライベートトレース』は手塚自身ひとりが出演するものだが、前半は床に座る位置で誰もいない椅子に向かう姿勢で、後半は椅子に座った位置で誰も居ない床に向かう姿勢で、上演が進む。最後には、団地の居間で家族がくつろぎながら談笑する様子が若干スローモーションのビデオ画像で上映され、手塚が映される談笑の場面の動きをトレースする作業を行っていたことが明示されることになる。手塚が座る椅子は、画面に映る部屋にあるのと同じものだ。
当日配布された公演チラシには、部屋でくつろぐ家族のシルエットを淡く背景にして、延々と仕草の細かな動きの「観察記録」のようなものが秒単位で記されていて、冒頭には「大澤寅雄のパート」、中ほどには「手塚夏子のパート」と記されている。つまり、手塚自身が、自身の家族での談笑の様子をビデオ撮影した記録から、自身と対話相手の身体所作を「トレース」したものが作品のベースとなっている、ということが理解される。
映像が流されると、動きが、若干遅めに流されたビデオとほぼ同期していることが提示される。トレースは厳密に身体感覚において把握され自律的に再現されるものとなっている。映像を目に入れないで動いているものが、結果として、映像の動きと重なりあうわけだから。
そのようなトレースがベースにあるらしいことが後で明かされるわけだが、それまでのうごきは日常の動きを単にトレースしただけとは思えないものだった。こまかな所作や、断片的な「つらい」とか「だいじょうぶだよ」といった言葉が切れ切れに繰り返されていた。おそらく、対話の中のことばと身振りが、それぞれの位置に切り離され、ひとりの演者の身振りのなかに微細な破片として繰り返され重ね合わされ増幅されるような仕方で上演が組み立てられていったのではないか。
細かな震えは、やがて、まるで痙攣のようなひきつった動きにまで至る。痙攣のように見えるのは、あまりに細かな分節が身体の中で行われているからなのだろうか。そして、全くでたらめな震えであるようには見えないが、単なる意志的な動き、予定された行為の遂行にはなっていない。身体がそう動かざるを得ない状況が作られている。手塚夏子自身が、必然性のある動きを模索してきたという趣旨のことを語っているがその徹底のひとつの成果がここに見出される(注)。
まるで痙攣しているかのような手塚の動きは、緊張がはりつめ高まった場面では、寝転んでいた姿勢から両足を抱え込んで身体を折りたたみ臀部だけでバランスをとって立つような姿勢へと変化するまでに至る。そうした無理なはずの体勢が、まるで不自然には見えない。あたかも不随意なままにそうなってしまっているようにさえ見える。
痙攣しているかのように動きの振幅が激しくなりまるで励起している場面で私は、脳性麻痺の人が麻痺した体を努力に努力を重ねて動かしている様子を思わず連想しながら見ていた。そういう連想をすること自体が想像力の貧困というものかもしれないが、意のままに動かせるような恣意的な動きには無い説得力が、あたかも身体を不随意に近い所まで緻密に追い詰めるような手法の中から生まれてきていたと言う事もできるのかもしれない。
公演チラシに薄く印刷された「観察記録」にちりばめるように公演をめぐって手塚夏子が記した言葉がとても印象深い。以下に引用させていただく。
体の外にも様々な壁を作る。
人それぞれに壁の作り方は違って、
その違いがきっとその人らしさなのだ。
人それぞれの壁のありようが、
とても切実な叫びと軋みを生み出していて魅力的なので、
観察することはとても素敵だ。
(中略)
押しつぶされ、遠くに追いやられても、壁に触れ、
壁の向こうにあるものの気配に耳をすますなら、
世界にはまだ可能性がある。
それを信じたいので、お互いに遠ざけ、遠ざけられた者どうし、
共感への果てしない旅をしてみたい。
これらの言葉を見ると、手塚夏子は、身体の微細な表情の襞に分け入るように探求を進めることを通じて、単なる実験に終わることなく、単に感覚の緻密化に淫するだけで終わることもなく、普遍的な射程をもったモチーフを捉えはじめているらしい。
『私的解剖実験』というシリーズ名から、「実験」の二文字か消え、『関わりを解剖する二つの作品』という公演名に作品の二文字が現れたことは、大きな一歩が踏み越えられた証ではないだろうか。
(初出:週刊「マガジン・ワンダーランド」第41号、2007年5月9日発行。購読は登録ページから)
そこでは「深層と表層」というイメージを核にして、『私的解剖実験』シリーズを通しての身体感覚と動きをめぐる模索について語られている。
【筆者紹介】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年、長野県生まれ。法政大学大学院でベルクソンを中心にフランス哲学を研究。主要な論文として「『笑い』における苦々しいもの -『ゴドーを待ちながら』の悲喜劇性について-」(2004年、法政大学大学院紀要第53号)がある。現在会社員。
・wonderland掲載劇評一覧
【上演記録】
手塚夏子・振付「関わりを解剖する二つの作品(「サンプル」「プライベートトレース」)
門仲天井ホール (東京建設自労会館8F)(2007年3月30日-31日)
「サンプル」
出演・山縣太一 音楽・スズキクリ
「プライベートトレース」
出演・手塚夏子 音楽・スズキクリ