日中共同プロジェクト公演 『下周村』

もうひとつのグローバル化への幕開け   山関英人(演劇ジャーナリスト)  日中共同プロジェクト公演の『下周村』(新国立劇場制作)は、舞台の受容の仕方に一石、を投じた。それは、国境を越える作品のあり方-普遍性の獲得-の理想 … “日中共同プロジェクト公演 『下周村』” の続きを読む

もうひとつのグローバル化への幕開け
  山関英人(演劇ジャーナリスト)

 日中共同プロジェクト公演の『下周村』(新国立劇場制作)は、舞台の受容の仕方に一石、を投じた。それは、国境を越える作品のあり方-普遍性の獲得-の理想像を示した、とも云えるだろう。そして、『下周村』はそれを自己言及的に(作品でもって)語ってみせた。


 物語は、中国四川省の、ある村を舞台に、歴史の教科書を書き換えるほどの遺跡が発掘された、というのが、その発端となる。これまで、この村では、偽物の骨董品や出土品の売買で生計を成り立たせてきた。

 「正真正銘の、偽物」がある、という話題に触れた場面、が記憶に残る。偽物はニセモノでも300年前の偽物なので、値打ちがある、ということらしい。

 つまり、ここでは、遺跡の価値をどう判定するのか、という根源的な疑問-それは日本でも7年前に「旧石器捏造事件」という形で問われた-と、遺跡の価値そのものの相対化、が浮き彫りにされた。

 また、グローバリズムが経済だけではなく、家庭生活、さらに歴史にまで仮託され、幅広く表現された。それは、日本企業の「進出」による工場建設から生じた”共同体への影響”であり、父親の再婚をめぐる”娘の葛藤”-前の母親との家庭生活と、新しい母親の出現との折り合い-に現れる。さらに、工場の建設中に発見された新しい遺跡によって、それまでの考古学の積み重ねが、全部、”塗り替えられる状況”にまで投影された。

 と・い・う・よ・う・に、私は、ここまでを解釈した。

 ところが、これまでを「前半」とするなら、舞台美術が一変して現れた「後半」は、私の「解釈」を徹底して拒んだ。

 ここからは連射されるかのような中国語に合わせて、字幕の変化が早くなる。しかも、その内容を理解するには時間がかかってしまう。そのうち、字幕をずっと睨んでいることに、思わず、気づかされる。結局、字幕を見るのか、舞台を観るのか、その選択を迫られる羽目になる。

 そういう具合に、どっちつかずな心境でいるうちに、聴覚の刺激が感覚に訴えてくるような心持ちになる。耳にする機会の少ない中国語の音の連弾、日本語の台詞による「輪唱」、そして、それらを含めた二言語の交わり。まるで、人間が「楽器」となって、音を紡いでいるかのようだった。

 ことばにならない、音だけの台詞や、動物の鳴き真似も混じって、音域の広さ-音のバリエーション-も体感できた。

 音を楽しむ、と書いて音楽という。演劇の台詞には大きく分けて、音声と意味があり、日本では後者を理解するほうが重視される傾向にある。台詞を、音として楽しむという発想はない、と言ってもよい。また、音楽には国境を超える「言語」として機能する側面もある。

 それらの意味を合わせると、『下周村』は、国際的な共同プロジェクトとして、ひとつのあり方を世に問うた、と云えるだろう。

 物語の”解釈”をめぐって、意味を重視する姿勢への根源的な問い。さらに、その姿勢に変わる、”音声を通して舞台を受容するあり方”への提示。自己言及的に語る『下周村』の、もうひとつのグローバル化への幕開けに接する好機に遭遇した。

【筆者紹介】
 山関英人(やまぜき・ひでと)
 演劇ジャーナリスト。演劇と社会について、根底から考え続けている。今現在、外国人アーティストへの取材と、国際共同制作に関心を寄せる。また、舞台作品そのものの理解を深めるために、伝統芸能の能に接する。今後の予定として、サシャ・ヴァルツ氏(さいたま芸術劇場で来月公演)と、永井愛さん(6月末に上演のピースリーディング)の取材がある。

【上演記録】
日中共同プロジェクト公演 「下周村(かしゅうそん) -花に嵐のたとえもあるさ-」
新国立劇場 (2007年5月15日-20日)

作:平田オリザ 李六乙
演出:李六乙 平田オリザ

美術・衣裳 嚴龍
照明 岩城 保
作曲 郭文景
音響 嚴貴和

芸術監督 栗山民也
主催 新国立劇場
共同制作 新国立劇場、中国国家話劇院、香港アーツフェスティバル

キャスト
篠塚祥司、佐藤 誓、内田淳子、粟田 麗、能島瑞穂
果静林、陳□、韓青、于洋、林熙越、薛山、劉丹、王瑾

チケット料金
席種 A席 B席 Z席
料金 4,200円 3,150円 1,500円

「日中共同プロジェクト公演 『下周村』」への1件のフィードバック

  1. 中国語の意味がとれないなら、いっそそのせりふを音楽として楽しむ手もある。それが「国境を越える作品のあり方-普遍性の獲得-の理想像」である。ということでしょうか?そういう側面もあるあるかもしれないが、「理想像」とまで言うのは言い過ぎでしょう。
    また「演劇の台詞には大きく分けて、音声と意味があり、日本では後者を理解するほうが重視される傾向にある。台詞を、音として楽しむという発想はない」とありますが、能や歌舞伎、浪曲などの伝統芸能はむしろ音楽に(あるいは独特の抑揚で)言葉をのせて楽しませようとしています。
    中国の伝統劇にもこの傾向があるので、耳からはいってくる時に音楽的に聞こえることはあると思います。李六乙はその専門家だから随所にその要素をいれているという気がしていました。
    しかしそんなことはともかくこの芝居は、翻訳されたものを読んでもいっていることがよく分からない。
    前半と後半が明らかに別人の手になることがわかる。一つのまとまりを欠いた作品としては、国際的な合同プロジェクトなどという偉そうなことを言う前に、劇として評価に値するかどうか疑問のあるところだとぼくは思っています。理想的な国際交流ということをお考えのようですが、その「理想」とは何かをいつか教えていただきたいと思います。

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