◎日本「近代」新演劇、新劇に非ずや
村井華代(西洋演劇理論研究)
流山児★事務所を特に追いかけているわけではない。が、批評を求められても何も出てこない再生産性ゼロの舞台も少なくない中、流山児★事務所の作品は企画自体が興味深く、こういう次第の作品を流山児がやる、と聞くと「見たい」と思うことが多い。「流山児★ザ新劇」と銘打たれた今回の作品もそんな調子で見に行った。
「芝居」と言われれば「新劇」を指すのが当たり前、と何となく思っていたが、雑誌『新劇』が『しんげき』になった挙句に廃刊してもう15年。いつの間にやら時代は移り、そんな雑誌のことは勿論、「新劇」という言葉すら聞いたことがない世代がかなり増えていた。今更新劇でもないという人もあろうが、娯楽だけなら手のひらサイズの機器で間に合う現在、古典芸能でもないスペクタクルでもないシバイに金と時間を費やす文化基盤が生きているのは存外すごいと言わねばならない状態になってきたのは事実なのだ。この先どうしたいのかと考えるためにも、日本の演劇が何をやってきたのか大真面目に考える必要はある。そういう意味で、流山児による新劇再考上演は面白い。
今回上演したのは、福田善之の1963年の作『オッペケペ』。
別役実の1984年初刊のエッセイに曰く、「今はもうだれも知らないと思うので言うのだが、それまでの「新劇」というのはおおむね、うんざりするほど真面目で、気が滅入ってくるほど重厚で、しかも、こちらの身の置きどころもないほど倫理的であるのが常であった。」(『台詞の風景』白水社) 別役が「それまでの」というのは、1960年代、福田善之の『真田風雲録』が登場して、「わッわッわッ ずんぱぱッ」という無茶な劇中歌で「圧倒的な解放感を」新劇にもたらす頃までの、ということだ。要するに福田は60年代(傾きかかった)新劇のニューウェーブとして位置づけられているわけだが、その彼が伝統演劇のニュータイプ観世榮夫の演出により劇団新人会で初演したのが、テレビドラマ版(1960)を経て『真田』の翌年に書かれた戯曲版『オッペケペ』。日本の近代演劇草創への批判でもあるし、演劇人が永遠に歩み続ける迷宮を描いたものでもあるし、安保闘争の反映でもあるし、男女を結ぶものについての考察でもあるし、実に様々な視点からの読みを誘発する。現在から見れば、アングラ勃興によって危機にさらされた新劇が、自分で自分の足下の見直しを迫っているようにも見える。
初演の演出家観世榮夫が流山児と共にリニューアル上演を企画し、福田自身による戯曲の大幅改訂を経て今回の公演に至ったわけだが、図らずも観世榮夫追悼公演になってしまった。残念この上ない。が、残された者は、舞台を作る側も見る側も、観世榮夫が“今”この作品を流山児★事務所の若い俳優たちと共に上演しようとした意図を考えなければならない。いわば新劇の「真面目」で「重厚」で「倫理的」な部分は決してダテではなかったのであって、それにうんざりさせられている間は、まだ演劇全体の思想に力があったのである。
オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポッポ
『オッペケペ』は、オッペケペ節で一世を風靡した川上音二郎(1864-1911)をモデルに、俳優・城山剣竜(河原崎國太郎)が自由民権を唄う壮士劇のスターから戦争のアジテーターへと変わってゆく姿を、様々な人々の交錯の中に描いた作品である。権力層との接近、人気芸者・奴(伊藤弘子)という華やかな愛人の登場、演劇界での地位向上。城山の自由思想に共鳴して結婚し、彼を支えてきた糟糠の妻・お芳(町田マリー)は、変わってゆく夫についてゆけない。一方、オッペケペで世相の腐敗を討つ城山に惚れこみ、一座の役者に加わった青年・愛甲辰也(里美和彦)もまた城山に失望を隠せない。似たもの同士となった愛甲とお芳は不義の関係に陥り、愛欲に溺れかかる。
そんな折、日清開戦の報が届き、城山一座はすかさず「壮絶快絶日清戦争」の稽古に入った。清国の残虐さを強調してウケを狙おうとする城山と一座の仲間を糾弾した愛甲は孤立してしまう。
「壮絶快絶」も、「板垣」も「経国」も、川上一座が実際に上演した劇の題である。史実とピントを合わせながら、川上=城山は応える。
この戦争劇だよ。これは当るよ。……ながらく誰もが敵を求めていたんだ。
事実、舞台は大当たりし、客席は熱気に包まれ、一座は役者冥利の美味に酔う。稽古中は戦争礼賛劇への苦言を述べた古参の雛丸(沖田乱)すら機嫌を直し、「役者なんてもんは、馬鹿なもんだよ」と喜色満面である。一人、愛甲だけが殺気を漲らせ、転向者城山を舞台の上で刺そうとしていた。が、暗殺は失敗、城山は舞台裏で愛甲とお芳を一つに縛り上げて腹の内を明かす。
どうやら……この道では、いや、このしかたではだめだのだな……ひとつひとつちがったはずの、おん百姓、おん商人、おん書生の心と結ばれて、そこにあたたかくもなくやさしくもないがしかし一筋のかたい鋼の線のような眼にみえない絆をつくることは……(笑って)つまりおれはむなしさを積み上げつづけているというわけだ。オッペケペの昔から、おれはそうだったとはいえないかね。
二人に見張りをつけて舞台へ戻る城山。しかしその戦争劇の幕切れに、突如、愛甲がオッペケペの衣装をつけて登場、即興の詞で歌い出す。
万歳歓呼に送られて、出征するのはよいけれど、あとにのこれる妻や子が、三度の飯さえ血の涙、……
最初は観客の歓呼に迎えられた愛甲だったが、次第に劇場は「国賊!」との罵声と怒号に包まれてゆく。取り押さえようとする座員たちともみ合う間に、愛甲の手にした真剣が自身の胸を貫き……初演版とは異なる劇的なラストとなる。
俳優が未熟で、ホンの面白さが出てこないという劇評がいくつか流山児★事務所のHPに再掲されていた(事務所が宣伝に都合のよい批評だけ引用しているのでないことを評価したい)。確かに、城山を演じた前進座の河原崎國太郎は、品はあるのだが声が高めで線も細く(女形なのだから仕方ないが)、男女問わずモテまくる人物としては弱かったし、城山に従う大勢の座員たちは台詞を強く発するばかりで単調になりがちだった。伊藤博文をモデルとした鎌田剛道(加地竜也)が丹波哲郎のマネ(?)で通すのも苦しい。ただ、こうしたことの責任を演出や俳優にかぶせて批評が終わるのは余りにも勿体ない。繰り返すが、観世榮夫がこの若い俳優たちでこの作品を今、再演しようとした意図を考えなければならないのである。例えば、鎌田が城山に明治演劇改良会の話をする場面。
この言葉は、城山=川上の歴史的役割を簡潔に規定している。史実としては、伊藤の娘婿であった末松の国家的プロジェクト演劇改良会は、御前歌舞伎開催を唯一の功績として消えてしまう。皮肉なことに、立派な新劇場を建築し、劇作家の地位を向上させて、演劇を「西洋並み」にするという改良会の計画は、現在では国家ではなく商業によって進められているわけだが、いずれにせよ近代的「文化創造」を成功させるのは、自由な表現を欲する心よりも経済的・政治的運動の力である。そして城山は、今その正体のわからぬ運動の中で這いずり回っている自分の、正体のわからぬ成功を、愛甲にこう描写する。
「新演劇」とは何だろう。上演パンフレットは新派の一呼称として説明するにすぎない。が、『オッペケペ』の視点は、これを(今では演劇の一分野となった新派ではなく)日本の「近代」演劇として位置づけているように思える。ここに、この戯曲が現代に持つ批判性がある。なぜなら、普通、日本の「近代」演劇とは「新劇運動」とイコールであって、その開祖は坪内逍遥や小山内薫、土方与志ら知識人であり、そこでは史実の川上は、いわば新劇誕生前夜の破天荒な挿話の人物であるにすぎない。ところが『オッペケペ』は、日本「近代」演劇の開祖に城山=川上を据え、「新劇」の源流を上昇志向の裏切り者にすりかえる。実際、自由民権運動時代の城山は、明らかに「新劇」発祥の思想の一部を代弁している。が、彼はやがて自らの思想を曲げ、純粋な思想のうちに滅びるのではなく、転向して活路をひらくことを選択するのである。
城山の若き鏡像である愛甲は言う。「ぼくは、自分で一番いやだとおもう人間にどんどんなってゆく。それがよくわかるのさ。前はどうしてもそれが自分で許せなかった。でも、いまは馴れてしまった。これからまだまだ落ちてゆくんだ、ぼくは、きっと。」
これは愛甲の自己批判であると同時に、城山に対する批判でもあり、1960年代の新劇に対する批判でもあり、そして今では、経済的ポリティクスとの依存関係を深める演劇界全体への批判でもあるだろう。昔はそうではなかったのに、今ではこんなふうに自分を責める誠実さえ忘れてしまった多くの人々の声が、この台詞を語ったように聞こえた。
ヨーロッパの近代劇は、根本から批判されることで反近代劇の精神的土壌となったが、それで用無しになったわけではない。ヨーロッパの現代劇はまるごと西洋近代と近代劇への挑戦であり続けている。だから、その近代と近代劇と反近代劇が一緒にポンとやってきた日本の特殊な「近代」演劇への批判と行末は、ヨーロッパ以上にややこしいことになる。しかし、ややこしいながらも批判を繰り返しながら先に進まないことには何もならない。「始めたら途中でやめるわけにはいかん。道にゃそれぞれの行先がある」ということだ。
結局のところ、城山剣竜は川上音二郎ではないし、この作品も作中の歴史もあくまでフィクション、虚構である。が、行徳(保村大和、モデルは幸徳秋水)の台詞にあるように、「虚なればこそ実に対して意味がある」。今回の上演を通じて、再考すべき現実の問題は多いのではないか。
未熟と言われた俳優についても、筆者は特に悲観しない。声優のような美形声の里美は、体当たりの演技がとても素直で好感がもてる。毛皮族のセックスシンボル町田は、セクシャルでないところで良さが輝き出してきた(昨年の『脳みそぐちゃぐちゃ人間』でも、性的要素ゼロの彼女が豊かなことに感服)。そして字数の関係上触れられなかったが、劇のもう一本の柱である奥中欽二(モデルは中江兆民)の塩野谷正幸は、いつもながらの渋い職人技で、役の人物像を見事に作り上げている。奥中が愛甲に襲いかかる場は、初演戯曲では指定されていない演出だが、社会思想による組織の中に常に潜在するホモセクシュアルの構造をさりげなくあぶりだしている。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第64号、2007年10月17日発行。購読は登録ページから)
※戯曲は『オッペケペ/袴垂れはどこだ 福田善之第二作品集』(三一書房、1967)に拠った。
【筆者紹介】
村井華代(むらい・はなよ)
1969年生まれ。西洋演劇理論研究。国別によらず「演劇とは何か」の思想を縦横無尽に扱う。現在、日本女子大学、共立女子大学非常勤講師。『(『現代ドイツのパフォーミングアーツ―舞台芸術のキーパースン20人の証言』(共著、三元社、2006)など。
・wonderland 寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ma/murai-hanayo/
【上演記録】
観世榮夫「新劇」セレクション
『オッペケペ~心に自由の種をまけ~』
ベニサン・ピット(2007年9月4日-17日)
【企画】観世榮夫
【作】福田善之(作者自身による2007年改訂版)
【演出】流山児祥
【音楽】本田実
【美術】水谷雄司
【照明】沖野隆一
【音響】島猛
【映像監督】浜嶋将裕
【振付】北村真実
【殺陣】岡本隆
【宣伝美術】アマノテンガイ
【制作協力】ネルケプランニング
【制作】岡島哲也・米山恭子
【主催】流山児★事務所
【入場料】全席指定 前売り:4,800円 当日:5,000円 *学生割引:3,500円 *プレビュー割引:4,000円
★平成19年度文化庁芸術創造活動重点支援事業
【出演】
河原崎國太郎(劇団前進座)
町田マリー(毛皮族)
塩野谷正幸
さとうこうじ
保村大和
奈佐健臣(快飛行家スミス)
沖田乱
加地竜也
伊藤弘子
栗原茂
上田和弘
里美和彦
冨澤力
柏倉太郎
木暮拓矢
阪本篤
坂井香奈美
武田智弘
石井澄
諏訪創
熊谷清正
阿萬由美
寺島威志
杉野俊太郎
日下範子