THE SHAMPOO HAT「その夜の侍」

◎現代の不幸に敏感な作家が描く不幸と成長
高木 登(脚本家)

「その夜の侍」公演チラシ初見は第十一回公演『蠅男』(2001年10月)である。チラシが素敵だったのと、遊園地再生事業団の制作者だった永井有子が同ユニット活動休止中に制作をしていると聞いた劇団だったので、これはまちがいなかろうとスズナリに足を運んだのだ。結果は当たりで、正気と紙一重の狂気、現実と紙一重の虚無をシニックな笑いで包んだ傑作だった。虚無の深淵を垣間見せることのできる才能は少ない。それはたとえば作家でいうと深沢七郎とか色川武大らのことであり、才能というよりはむしろその実存に拠るところが大きい。赤堀雅秋はその種のひとなのだった。

以来赤堀とこの劇団のファンになったが、『蠅男』を超える作品にはなかなか出会えなかった。それがついに果たされたのが昨年の『恋の片道切符』である。わたしはこのときの印象をかつて「成熟」と表現した。いままでの自作を相対化するまなざし、冷めた世界を冷めた目で見つめる「熱」を感じたからである。リアル指向の演劇が増え、近年の作り手も観客も、自身の現実感覚を過信し、「自分が知っている現実以外にも現実はある」という想像力が鈍麻しているように思える。そのなかにあって赤堀の表現は頭ひとつ抜きん出たように見えた。その後岸田賞候補となった『津田沼』、フジテレビとジャニーズ事務所による商業公演『殺人者』を経ての新作が本作『その夜の侍』である。驚かされた。この一連の流れのなかで予感はあった。しかし表現がここまで変化し、ここまでの深化を遂げるとは思っていなかった。

まずセットが変わった。福田暢秀による舞台美術は、それまではリアリズムが基調であったのに対し、具象を離れた抽象的なものになっている。舞台の中心には象徴的なグレーの十字。そのまわりをデスクやPCや長椅子やテーブルが囲んでおり、場面の転換ごとに舞台上はさまざまな場所に変貌を遂げる。それはつまり赤堀の戯曲のスタイルも変わったことを意味する。

次に、ほとんどの公演に於いて脇でコメディリリーフに徹してきた赤堀が、ここでは堂々と主演を張っている。さらにここではその赤堀自身が演じる男・中村の「成長」が描かれている。これはいままでになかったことだ。赤堀の作品では人々は決して成長せず、世界はまるで変わらない諦念に満ちたものだったのだから。

赤堀の演じる役のイメージは、作品のちがいを越えてしばしば連続する。たとえば制服警官の役が何作かつづいたりするわけである。今回も赤堀が登場するファーストシーンで、赤堀はトランクス一丁にブラジャーという異常な格好をしており、これは前作『津田沼』で、なぜかシャツの下にブラジャーを着けているマンション管理人の役と当然重なる。けれどその意味合いはまったく異なることにすぐに気づかされることになる。赤堀演じる中村は、ひき逃げ事件で三年前に妻を亡くしており、以来妻を忘れられず、その遺した服を着、彼女が最期に残した留守電を消せずに延々再生をくりかえしているという悲惨な生活を送っている男なのだ。これは笑えないし、赤堀は最後までみずからの役で観客を笑わそうとはしない。このただならぬ真剣さに、こちらも思わず衿を正させられることになる。

「その夜の侍」公演
【「その夜の侍」公演から。PHOTO:斉藤いづみ 提供:THE SHAMPOO HAT 禁無断転載】

もう一方の主人公は野中隆光演じる木島である。木島こそが中村の妻をひき逃げした犯人であり、それがために二年間服役した後、現在はタクシー運転手の講習中である。しかしその人格は変わらず、自分に関わった人間たちの尊厳を踏みにじり、横暴のかぎりを尽くして生きている。そんな木島に「×月×日 お前を殺して俺も死ぬ」という無記名の脅迫状が連日執拗に送られてくるようになる。×月×日は木島が中村の妻を轢いた日だ。それはもう数日後に迫っている。周囲の人間たちは脅迫状を送っているのが中村と察し、中村の凶行をとめようと必死に画策することになる。

わたしの見たかぎりの公演に於いて、作品や役名はちがえど、野中隆光は一貫して同一人格を演じつづけている。それは常に作品の悪意の中心である。そうした悪意はアプリオリに作中に存在しており、おそらくは赤堀の胸中に空いた虚無の深淵から発するものである。作中人物たちはそれを当然のように受け流すか、甘んじて受け入れるしかなく、野中演じる悪意の塊は誰に断罪されるわけでもなく、ただ存在しつづける。だが今回は、卑屈になる者、適応しようとする者、抵抗する者、対決しようとする者など、さまざまな立場の人間から悪意が立体化され、木島の存在が客観視される。「ただ存在しているだけ」だった者が批評されるのだ。それはクライマックスの中村と木島の対決で頂点を迎える。

中村は用意した包丁を投げ捨て、木島とひとしきり殴り合った後、一冊の手帳を取り出し、それを読み上げる。そこにはここ一ヶ月間、木島が食べた食事のリストが延々と書かれている。連日くりかえされるおなじメニューのコンビニ弁当とファストフード。中村は「これが君のすべてだ」「君は生きてるよ、ただなんとなく生きてるよ!」と木島を断罪する。木島のぞっとするほどの孤独と精神の荒廃が具体的にあきらかになる瞬間である。そして中村は「君ははじめからこの物語に関係なかった!」と叫ぶのだ。

たしかに、死んだ妻を忘れられず自分から妻を奪った人間に復讐を誓う男、というキャラクターはいままで赤堀の作品には登場しなかった。そうしたキャラクターがはじめて登場し、それをほかならぬ赤堀自身が演じ、自身が執拗に描いてきた悪意の象徴に向かって放つこのメタフィクショナルなセリフは、虚構を越えてわれわれの胸に突き刺さる。中村のような男は現実に存在し、木島のような男も現実に存在する。誰が悪いわけでもなく、それぞれの人生が交錯してしまったことが不幸であっただけなのだ。ラスト、中村は木島を殺さず、自殺も思いとどまり、三年間消せずにいた亡き妻の最後の留守電を消去する。それは殺人もせず、自殺もせず、世界はなにも変わらないがそれでも生きていくという決意のあらわれであり、そうした人生を受け入れた中村の成長の証である。

価値観も思想もバラバラな「他者」だらけの成熟社会を生きるわれわれにとって、ここに描かれている不幸はわれわれにとっての不幸であり、成長はわれわれにとっての成長である。赤堀は自身の連綿とした創作活動のなかから、ついに現実と同等の体験をわれわれに提示してみせた。『その夜の侍』は現代の不幸に敏感な作家が結実してみせた、現代の不幸を描いた傑作である。(文中敬称略)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第64号、2007年10月17日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
高木 登(たかぎ・のぼる)
1968年7月、東京生まれ。放送大学卒。脚本家。テレビアニメ「TEXHNOLYZE」「恋風」「地獄少女」「バッカーノ!」などを手掛ける。劇団「机上風景」座付き作家として「複雑な愛の記録」「グランデリニア」などを発表、「幻戯(げんぎ)」を作・演出。2007年6月退団。
・wonderland掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takagi-noboru/

【上演記録】
THE SHAMPOO HAT第21回公演「その夜の侍」
下北沢 ザ・スズナリ(2007年9月29日-10月8日)
作・演出=赤堀雅秋

出演:
野中隆光
日比大介
児玉貴志
多門勝
黒田大輔
滝沢恵
吉牟田眞奈
梨木智香
赤堀雅秋

作・演出:赤堀雅秋
舞台監督:高橋大輔+至福団
照明:杉本公亮
音響:田上篤志(atSound)
舞台美術:福田暢秀
舞台製作:F.A.T STUDIO
照明操作:高円敦美
宣伝美術:斉藤いづみ
舞台写真:有賀傑
web制作:野澤智久
演出助手:武田有史
制作助手:岩堀美紀 谷慎 河野美有紀
制作:HOT LIPS  武田亜樹
制作協力:西田圭吾
統括:野中隆光
企画製作:HOT LIPS

【入場料】
指定席:前売¥3500 当日¥3700
自由席:前売¥3200 当日¥3400
平日マチネ(10/4 15時の回)指定席 前売¥3200 当日¥3400 自由席 前売¥3000 当日¥3200

【関連情報】
・[評]「報復」の意味を問う(2007年10月3日 読売新聞)
・演劇◎定点カメラ THE SHAMPOO HAT

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