イプセン原作「野鴨」(タニノクロウ演出)

◎消長する森が作品世界を映し出す 明晰なテクストから背後の深い闇へ
片山幹生(早稲田大学非常勤講師)

「野鴨」公演チラシ細部まできっちりと作り込まれた美術と、日常生活を精密にトレースしたかのような動きとことばによって超写実的な舞台空間を創造し、その中でマメ山田という小人俳優を媒介にグロテスクで不気味な人間のありようを描き出す「暗黒」演出家、というのが私の抱いていた演出家タニノクロウのイメージである。
メジャーリーグの主催公演でタニノクロウが外部演出家としてイプセンの戯曲を上演すると知ったときの私の期待は、精巧な細密工芸品をも連想させるイプセンの世界をタニノクロウがどのように消化し、庭劇団ペニノ風に悪趣味なものへと変形させるかにあった。

この期待は、よい意味で、見事に裏切られた。彼はイプセンの世界に真正面から挑み、そのテクストの一語一語が放つメッセージに丁寧に答え、それに一つの理想的な姿を与えたのだ。しかもその舞台表現には、おそらくこれまでの『野鴨』上演において誰も思いつかなかったであろう独創的なアイディアが用いられていた。開演前の薄暗い舞台にはうっそうとした森が再現されていたのだ。

タイトルとなっている「野鴨」をはじめ、イプセンのテクストには様々な暗喩が物語の伏線として散りばめられている。そうした数多くの暗喩的表現を包括し、作品全体のすぐれた象徴となっていく森を舞台の上に再現するというアイディアに、観客は一気に舞台の世界に引きずり込まれてしまう。公演会場となったシアター1010ミニシアターは、最上階にある700席の本劇場の下にある、本来なら稽古場となっているスペースである。ほぼ正方形にみえたその空間の七割がたが木々で覆われた舞台となっている。客席はその二辺の壁際に、くの字型二列分のみ配置されているに過ぎない。その観客席ぎりぎりまで森は迫っている。暗い森からは湿り気を帯びたひんやりとした空気が流れ込んでくるように感じられる。観客は森の木立ごしにひっそりと息を潜めて事件の成り行きに立ち会うことになる。

最初のシーンには豪商ヴェルレがただ一人登場する。せりふはない。猟銃を持ち森の中を歩く。狩猟の成果はどうだったのか。照明はごくほのかなもので、森の大木に遮られ、しばしばヴェルレの姿が見えなくなってしまう。この無言劇の場面は原作にも、笹部版台本にもない。ほんのわずか照明が明るくなる。原作での最初の場が始まる。

土地の大富豪ヴェルレ家でのパーティの場面。十七年ぶりに「山」から戻ってきたヴェルレ家の息子グレーゲルスと彼の旧友のヤルマール、そしてグレーゲルスとその父ヴェルレ氏との対話を通してこれから起こる事件の背景が観客に伝えられる。ヴェルレ氏とエクダル老人はかつて何かの事業を共同で行っていた。その際に犯していた不正が発覚し、エクダル老人はその罪をすべて一人でかぶる形で投獄され、精神に異常をきたし、一族は没落していしまう。一方罪を逃れたヴェルレ氏はその後も事業を成功させ、ますます権勢を拡大させていった。

ヴェルレ氏にはもう一つエクダル家についてやましい過去があった。エクダル老人の息子ヤルマールの妻であり、一人娘ヘドヴィックの母であるギーナは、かつてヴェルレ家の使用人であり、ヴェルレ氏と愛人関係にあったのだ。ヤルマールはそのことを知らされずに、ヴェルレ氏にギーナを紹介され結婚したのだ。ヴェルレ氏はやがて失明する運命にある。そしてヤルマールとギーナの子であるヘドヴィックも生まれつき目が弱く、失明の可能性を医者に告げられていた。エクダル家に負い目を感じるヴェルレ氏は、エクダル老人に雑用の仕事を与える、ヤルマールに仕事の便宜を供するなどして、今も間接的な形でエクダル家を援助している。ヴェルレ氏の息子、グレーゲルスは過去の悪行のあからさまな糊塗としか思えない父親の偽善的行為や、それを知ってか知らずか平然とすごすエクダル一家の欺瞞的生活を許すことができない。正義の炎に燃えるグレーゲルスは、エクダルの住居の一室を間借りする。彼は隠された秘密を一度すべてヤルマールに明らかにした上で、公明正大で理想的な新しい家族関係を作り直す手助けをしようと決意したのだ。彼はそうすることこそがエクダル一家にとって最良の道であると信じ、そうすることでしか父親の犯したかつての悪事を清算することはできないと考えたのだ。

結果は彼の思うとおりにはならなかった。ヤルマールは、この残酷な真実に耐えることができなかったのだ。挫折続きの彼の人生はまさに今のささやかな幸福の上にかろうじて成立していたのだ。彼は娘と妻を拒絶し、家を出て行くことを決意する。グレーゲルスの企みは、真実の家族の絆を生み出すどころか、家族崩壊のきっかけとなったのだ。ギーナは母親らしい力強さでこの残忍な暴露をじっと受け止める。まだ十三歳のヘドヴィックは優しかった父親の急変をどう受け止めてよいのかわからない。グレーゲルスは彼女にアドバイスを与える。「君が一番可愛がっていた野鴨を殺すんだ。自分が一番愛していたものを犠牲にしたことを見せれば、父親はきっとまた君を愛してくれるはずだ」、と。

「野鴨」公演1

「野鴨」公演2
【写真は「野鴨」公演から。撮影=田中亜紀 提供=庭劇団ペニノ 禁無断転載】

最初は暗い照明で、役者たちの姿は、しばしば生い茂る木々に隠され見えなくなる。劇のパセティックな進行と反比例して、徐々に木が切り落とされ、照明が明るくなり、舞台の見通しがよくなっていく。森の木々はか弱いエクダル一家を包み込み、ひっそりと守っていたものの象徴となっている。互いに見えないところを持っていたからこそ、彼らは多少不自由であっても、安全に、幸せに暮らしていくことができていたのだ。森の枝葉が切り落とされ、太陽が照りつけ、隠されていたものが徐々に露わになるにしたがって、納屋の奥にある「森」に保護されていた羽の傷ついた野鴨さながら、エクダル一族は危険に身をさらすことになるのである。

タニノクロウの演出はこの物語の救いのないラストを惨酷な対照によってさらに強調する。強硬に家を出て行こうとするヤルマールをギーナは無理に止めようとはしない。この男の性質を知り尽くしたこの女性は、母親のようなあしらいでヤルマールに応対する。グレーゲルスは予想外の展開におろおろするばかりである。しかし家出用の荷造りの大変さというごく日常的な事柄の面倒さが、ヤルマールの家出の意志を鈍らせてしまうのだ。行き届いたギーナの心遣いにヤルマールの勢いが衰える。彼の生来の弱さのおかげで結局は一家はもとのさやに戻るのか、という弛緩した空気が流れたその瞬間に、納屋から銃声が聞こえるのである。野鴨を撃ちに納屋に入ったはずのヘドヴィックがなぜか自分の心臓をピストルで打ち抜いていたのだった。グレーゲルスの正義の犠牲となったのは、皮肉にも関係するメンバーの中で最も無垢で善良な存在だった。再生へと反転していくようにみえた和らいだ空気は一瞬にして冷たく硬直し、悲痛な悲しみの場面が訪れる。

舞台はいったん暗転し、再びおぼろげな明かりが中央をぼんやりと照らす。そこには執事ペテルセンに顔をうずめて悲しむヴェルレ氏の姿が見えた。吹雪の中で震えているような二人の姿が何秒間か映し出される。

「野鴨」公演
【写真は野鴨」公演から。撮影=田中亜紀 禁無断転載】

タニノクロウの精巧な演出プランに見事に応えた役者たちの素晴らしさもたたえなくてはなるまい。とりわけ母の力強さを、決して多くはないせりふを通してしっかりと伝えた石田えり、ヤルマールの人物像に人間が普遍的に持つ弱さを集約させ、説得力のある表現を与えた手塚とおる、そして純真無垢の象徴である白い生成の素朴なドレスを身につけ一人娘のヘドヴィックを可憐に演じた鎌田沙由美が印象に残る。鎌田沙由美の木製のフルートを連想させるような声質はヘドヴィックのイメージにぴったり沿うものだった。

そしてタニノクロウ、庭劇団ペニノのマスコットとも言えるマメ山田。彼は『野鴨』では最初と最後のごく数シーンにしか登場しない。しかし森という舞台美術とともに、この俳優の存在は、タニノ版『野鴨』に決定的な色合いを与えていたように私は思う。

イプセンの『野鴨』は私には完璧さを感じさせるテクストだ。提示された様々な伏線が豊かなことばによって構築されたテクストによって鮮やかに回収されていく。しかしそのことばは過剰に周到だ。エクダル一家が飼っている野鴨が何を象徴しているか、グレーゲルスがどういう意図で真実をヤルマールにつきつけるのか、エクダル老人が家の納屋の「森で猟をしている」ことの意味など、作品のキーとなるエピソードがことごとく登場人物によって説明されてしまうのだ。この余白のなさがもたらすテクストの明晰さゆえに、その登場人物は主題を描くための実体感の乏しい、人工的構築物という印象を私に与える。『野鴨』ではヘドヴィックの死のみにサスペンスが集約されていると言っていい。これはもちろん作者イプセンの計算のはずだ。

マメ山田をこの作品へ導入することの意義は、この「明朗」すぎる作品に新たに闇、不可解さを投入することにあるように私は思った。暗い夜の場面で始まったこの芝居はヘドヴィックの死の場面で昼光の明るい舞台で結末を迎える。その最も悲劇的な状況を明るい光のもとで照らし出すという逆説はそれだけで素晴らしい劇的効果を生み出している。しかしタニノクロウはそれだけでは満足しない。彼は原作にはない(そして笹部博史版の台本にもない)エピローグをその後につけくわえた。舞台照明は再び落とされる。マメ山田の演じる執事ペテルセンとヴェルレ氏の姿が闇の中にぼおっと何秒間か浮かび上がる。暗転して終幕。このごく短いエピローグによって観客は不気味で不可解な何かを最後の最後に抱え込むことになる。マメ山田は、明晰に思われたイプセンのテクストの後ろにある深い闇への入口へと観客を誘うのである。

A6版の小型上演パンフレットも異色で、その内容は言及するに値する充実ぶりだった。クリーム色の表紙にモノクロで縮小されたチラシ画像があるだけで、他はすべて文字だけの簡素な小冊子である。スタッフ・キャストの一覧はもとより、イプセンの伝記と作品の紹介、『野鴨』の登場人物の解説とそれを演じる役者のことばが90ページ以上にわたって記されている。役を演じるのではなく、役を「生きる」ことをこの芝居で求められた役者たちの不器用ではあるが真摯で誠実なことばが非常に興味深い。この饒舌な上演パンフレットの中で演出家のタニノクロウは寡黙である。この小冊子の中で彼のテクストはわずか2ページに過ぎない。

「私自身が微力ながら尽くしたことは、このイプセンの戯曲を丁寧に仕上げていく事でした」

極めて独創的な舞台を創造してきた演出家のこの謙虚な言葉が、空虚な社交辞令でないことを、シニカルな逆説でないことを、あの舞台を見た観客なら実感できたはずだ。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第71号、2007年12月5日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
ヘンリック・イプセン原作「野鴨」
北千住・シアター1010ミニシアター(2007年11月1日-30日)

■スタッフ
演出・上演台本/タニノクロウ
企画・上演台本/笹部博司
作/ヘンリック・イプセン
製作/メジャーリーグ 庭劇団ペニノ
提携/シアター1010

■台本
笹部博司による台本が以下で購入可能.実際の上演台本は,笹部バージョンを基によりタニノクロウがより原作に近い形で修正・改定したもので,その場合の言葉はほとんど原千代海の翻訳によっている(上演パンフレットにある注意書きより).
http://www.majorleague.co.jp/shop/

■原作
ヘンリック・イプセン/原千代海訳『野鴨“』(岩波文庫,1996年)

■出演
石田えり
髙汐巴
手塚とおる
保村大和
石橋正次
藤井びん
マメ山田
鎌田沙由美
津嘉山正種

■料金:全席指定 前売4,600円 当日5,000円
■文化庁芸術祭参加公演

【関連情報】
庭劇団ペニノ
メジャーリーグ
企画書
・タニノクロウ・インタビュー(Back Stage
・精神科医の劇作家・タニノクロウ イプセンの名作に挑む(産経新聞
・無意識なる異端 演出家タニノクロウ(Tokyo Headline

「イプセン原作「野鴨」(タニノクロウ演出)」への1件のフィードバック

  1. [【注目公演】]ちっちゃなエイヨルフ@あうるすぽっと 演出:タニノクロウ

    来年2/4からの注目の公演です。 庭劇団ペニノとはまた違う一面を期待してしまいます。 演劇blog速報!TOP10  「ちっちゃなエイヨルフ」  作:ヘンリック・イプセン  演出:タニノクロウ  出演:勝村政信・とよた真帆・馬渕英俚可・野間口徹・マメ山田・     星野

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