期間限定劇団「おおむね、」公演「ユダの食卓」

◎題名の背景から解放される-裏切らなかったユダの話  因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)  題名を聞いた瞬間、必要以上に内容を想像してしまう作品がある。『ユダの食卓』は、まさにそうであろう。「ユダ」「食卓」とくれば、新約聖 … “期間限定劇団「おおむね、」公演「ユダの食卓」” の続きを読む

◎題名の背景から解放される-裏切らなかったユダの話
 因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)

 題名を聞いた瞬間、必要以上に内容を想像してしまう作品がある。『ユダの食卓』は、まさにそうであろう。「ユダ」「食卓」とくれば、新約聖書のキリストの十二使徒のひとりであるユダと、キリストを囲んだ最後の晩餐がモチーフになっていることはすぐに察しがつく。

 十二使徒のうち、最も「知名度」の高い人物がユダではないだろうか。キリストを裏切って密告し、背教の果てに自ら命を絶つ。聖書の記述が淡々としているだけに、その心情はさまざまに想像できる。裏切り者には主役よりも屈折が感じられるし、裏切りとは相手を信じていたという前提があって、それが信じられない、愛せなくなった末の行動だ。そこに行き着くまでに相当の葛藤があったはずである。

 一人の人間の心を狂わさんばかりに激しく渦巻く情念は、太宰治の『駆込み訴え』をはじめ、物語の作り手にとっては創作意欲を掻き立てる人物だと思われる。みる側にとっては、いったいどんな俳優がユダを(あるいはユダを象徴するものを)、どのように演じるのか、想像しただけでぞくぞくする。その想像がイメージの限定にならないよう自らを諌めつつも、『ユダの食卓』の舞台に向かう心は逸るばかり。

 板橋アトリエセンティオは、池袋から電車でわずか一駅の静かな住宅街にある。壁も床も白く、舞台には小さな足台のようなもの以外何もない。舞台をコの字型に近い形で挟む客席は、席数が30から40だろうか。かつての渋谷のジャンジャンがもう少し小さくなった感じのスペースである。
 男が静かに歩み出て床に座る。ユダ(渡邉真二)である。
 足台に女(湯舟すぴか)が座ってノートを読み始める。ユダの日記のようだ。彼は学校を退学したばかりらしい。女(五十野睦子)がもうひとりやってくる。ユダは少し年上に見える彼女を「マリエ」と呼ぶ。会話の内容は夫婦のようだが、このあいだまで学校に通っていたユダの年齢を考えると不自然だ。
 やがて二人は些細な諍いののちに激しい情交を始め、その最中のユダの独白によって、マリエがユダの母であることがわかる。

 『ユダの食卓』、そう来たか。キリストを裏切った男と同じ名前の少年が、その母親と近親相姦の間柄にあるという設定は予想がつかなかった。彼は何を裏切ることになるのだろうか?

 女は日記を読むのをやめ、ユダの学校の同級生シズルとして彼に近づく。彼女がユダに関わろうとすることによって、いびつながらも保たれていたユダとマリエの関係に小さな亀裂が生じる。

 登場人物はわずか三人だが、三人で会話する場面がまったくない。舞台上に三人が存在していても、そのうち二人が話しているとき、あとの一人はいないもの、別の空間にいるかのように造形されている。一対一の閉じられた濃密な関係や閉塞感が伝わってくる。ユダは自分の名前に戸惑っている。顔も知らない父親が、なぜ自分に裏切り者の名をつけたのか。自分は何を、なぜ裏切ろうとしているのか?客席で自分が抱いた疑問が、そのまま当事者であるユダの独白によって語られる。自分はやがて何かを裏切るに違いないという暗い予感に怯え、母マリエがすべてであるかのように周囲を拒絶する。

 たとえば、マリエは金魚を飼いたいと言う。ユダと自分だけの暮らしに、第三の存在を置こうとするのである。それをユダは激しく拒否する。たとえ相手が金魚であっても、マリエには関心を払ってほしくないのだ。
 ユダはなぜキリストを裏切ったの?
 シズルの問いに、憎しみが欲しかったのだとユダは答える。

 愛ではなく、憎しみを求める。これが本作のキーワードであろう。いや、愛ゆえに憎しみを求めるといったほうがよいだろうか。聖書のユダはキリストに嫉妬し、自分を充分に認めてくれないことに苛立っていた。それはキリストへの愛の裏返しであり、愛を求めて叶えられずに師を裏切り、背信と憎しみを象徴する存在になった。舞台のユダは自分の顔も知らない父親に男として嫉妬し、その妻の肉体を思いのままにする歪んだ快楽と罪悪感に苛まれる。第三の存在として現れたシズルに対してふと好奇心を抱き、愛するところまではいかないものの、優しい気持ちを抱きはじめたら、彼は次第に母への愛、母の自分に対する愛に耐えられなくなったのだ。相手が自分を憎んで捨ててくれれば裏切らずに済む。ユダはマリエに刃を向け、「僕を憎んで」と半ば哀願する。しかし愛するしかできないマリエをユダは殺せない。

 詩森ろばが作・演出する風琴工房公演では、舞台美術が毎回の楽しみのひとつである。象徴的なものと具体的なものが解け合っている様子、登場人物の衣装や小道具の色合い、特に今年春上演された『紅の舞う丘』で、デスクの一輪の花を登場人物が他の人物に手渡すことによって季節の移ろいを示すなど、細やかな手法が印象深く心に残る。

 それが今回はほぼ裸舞台である。観客にも逃げ場はなく、俳優を見つめるしかない。相手に対する言葉と、その人物の心の中の声が混在する研ぎすまされた台詞のやりとりは、よそ見や考えごと、眠気を許さず、自分の日常を忘れて没入することができればまだ楽かもしれないが、話の内容が内容だけにそれも難しい。俳優の息づかいが伝わり、重なりあう肉体の生々しさがひたひたと迫ってくる。上演時間は一時間足らずであるが、作り手とみる側双方に緊張と忍耐が要求される、厳しい舞台である。

 裏切り者のユダと近親相姦が絡むことに、果たしてどのような演劇的意図があったのか、題名の背景の重さを舞台そのものが充分に受け止めて、新しい地平を作り出していたか、正直なところ今でも判断ができない。しかしこれはまず、題名の背景に対する自分の過剰な思い込みからいささか解放された証左であると肯定的に捉えたい。舞台のユダは裏切らなかった。だからいっそう悲しく痛々しい。

 本公演は、詩森ろばによる半年間に及ぶワークショップの成果である。登場人物が自らを追いつめていくのと同じように、いやそれ以上に演じる俳優も指導する側も厳しい闘いがあったと想像する。当日リーフレットに綴られた詩森の挨拶文に、この舞台を作るまでに過ごした時間を慈しむ、細やかで溢れるような愛情を感じたことも収穫であった。暗く重たい内容であるにも関わらず、終演後の気分は思いのほか明るく、嬉しいほどだったのは、ここに理由があるだろう。

 2003年に本作がオリジナルバージョンと密室バージョンで交互上演された公演を見逃したことは非常に残念であるが、一人一人に劇作家、劇団、舞台と出会う「とき」というものがある。それを信じて、2007年の晩秋に初めて『ユダの食卓』に出会えたことを大切にしたい。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第72号、2007年12月12日発行。購読は登録ページから)

【著者略歴】因幡屋きよ子(いなばや・きよこ)
 1964年生まれ、山口県出身。明治大学文学部演劇学専攻卒。1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊、2005年初夏「因幡屋ぶろぐ」を開設する。

【公演記録】
詩森ろばによる長期ワーショップ受講生たちの期間限定劇団「おおむね、」公演「ユダの食卓」
板橋・アトリエセンティオ(2007年11月24-25日)
作・指導・証明・音響 詩森ろば
照明オペ 宮嶋美子

●ユダ その1
ユダ(山ノ井史/風琴工房)マリエ(上野理子)シズル(小山待子)
●ユダ その2
ユダ(渡邉真二)マリエ(五十野睦子)シズル(湯舟すぴか)
●ユダ その3
ユダ(北川義彦/風琴工房)マリエ(松岡洋子/風琴工房)シズル(津田湘子/風琴工房)
 他に『子供の領分』、『精露路』の上演あり

料金 1000円
企画制作 ウィンディハープオフィス

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