◎異質なコンテクストから浮かび上がる ギミックに満ちた独創的公演
片山幹生(早稲田大学非常勤講師)
千葉を活動拠点とする三条会は、今、首都圏の小演劇ジャンキーの間で最も注目されている団体の一つではないだろうか。三条会の極めて個性的で癖のある表現スタイルには、中毒になるという言い方がぴったりはまるような強烈な吸引力がある。
11月に三条会は『いやむしろ忘れて草』と『若草物語』の〈四姉妹〉が登場する二作品を、千葉のアトリエ(稽古場)で上演した。『いやむしろわすれて草』は11月10日(土)の19:30開演の回、『若草物語』は11月27日(火)19:30の回を見た。今回のアトリエ公演で上演された二作品は私がこれまで観た三条会の舞台と比べると、番外編とも言えるほどど娯楽性に富んだ舞台だった。観客を戸惑わせ、混乱に導くような不可解なギミックが大量にとりこまれているものの、それらは難解さよりもむしろ破壊的な不条理・ナンセンスギャグとして機能していた。
『いやむしろわすれて草』はこの三月に五反田団による「ホンモノ」を私は見ている。病弱な三女を中心に、四姉妹が子供だった時代と彼女たちが成人した現在の二つの時間を交錯させることで、四姉妹と父親(母親はいない)の関係を繊細に描き出した傑作だった。
三条会というとまず思い浮かぶのは、スキンヘッドの異形・強面三人組(榊原毅、橋口久男、中村岳人)と大川潤子という迫力満点の役者たちだ。他にも女優はいるけれど、この面子を外しての三条会は想像できない。となると彼らが四姉妹となるのかと想像していたら、大川潤子はこの作品には出演しておらず、男三人に東京デスロックを主宰する多田淳之介が長女役で出演していた。男四人による四人姉妹である。この配役だけで面白そうな仕掛けを期待せずにはいられない。
次女と三女が恋心を抱く家庭教師の役(男性)は女優(立崎真紀子)が演じる。 男女役をオリジナルとすべて入れ替えるのかなと思えば、入院中の三女と交流のあった伊藤夕子役は女優(舟川晶子)が演じ、その夫、伊藤大介役は演出家の関美能留が演じた。伊藤大介は劇中で二回しか登場機会がないのだが、一回目は映像を通して台詞を話す。映像の中ではなぜか彼はストッキングをかぶっている。映像が流れる中、舞台上では伊藤役の関美能留は観客に背中を向けたまま座っているのだ。二度目の登場シーンでは、関美能留は台本を手にして、それをたどたどしく読み上げる。関美能留が演じる伊藤大介は、物語の中に唐突に現れる異物となり、展開に躓きをもたらす存在だ。
オリジナルと最も異なるのは父親の扱いである。三月に五反田団版で見たときは志賀廣太郎がやもめの父親役を好演していた。今回の三条会版では、父親は四姉妹を演じていた四人の男優が共同で父親を演じるのだ。父親の台詞は、四人の男優が立ち上がって突然ベッドを持ち上げ(この動作によって下の階から声が聞えているということを示しているようだ)、がなり立てるようなやり方で一斉に発せられる。
三条会版での上演時間は一時間五分だった。五反田団版でも一時間二〇分の比較的短い作品だったが、それがさらに圧縮されている。五反田団による上演に私が感じたチェーホフ劇を連想させるような繊細な雰囲気は、三条会版では強烈な存在感を発揮する異形の男優たちによって徹底的に破壊される。幼い頃の回想場面への転換ではレッドツェッペリンの『移民の歌』ががんがんながれ、役者たちは絶叫するような調子で台詞を激しく投げ合う。姉妹役を演じる四人の男優たちは女装しているわけではない。むしろその異形をそのままさらすしたまま、その隠しようのない強烈な個性を維持したまま、強引に「姉妹」を演じる。そして時に姉妹がベッド の上でよりそってポーズを作るなどして、グロテスクな可愛らしさを表現する。 翻案ではない。むしろオリジナルの脚本はかなり忠実に踏襲されていたように思う。しかし三条会の表現のデフォルメの強力さは、ダダイストの壮大な悪ふざけを連想させるようなやり方で、作品にオリジナルとは全く異なるコンテクストと味わいを付け加える。
これまで三条会の公演を見る際は原作のテキストないし作品を事前に参照していたのだが、『若草物語』については私は原作についてほとんど予備知識を持たずに三条会の舞台を見た。三条会版『若草物語』は2005年に初演されたそうだが、今回の上演では演出に大きな改訂が加えられているとのことだ。予備知識なしに三条会の舞台がどれほど楽しめるのか若干の不安もあったのだが、それは全くの杞憂であった。荒唐無稽な異色のミュージカルとも言えるような奇妙な明るさに満ちた舞台だった。舞台美術は『いやむしろわすれて草』と大きな変更はない。舞台中央に開いた穴は「釣り堀」(?)となっていて、ストッキングをかぶった関美能留が釣り竿を持ったまま佇んでいる。彼は戦役から戻ってくる四姉妹の父親役を後に演じることになる。しかしその父親役を演じる際も、彼は天井に投影された手紙の文章を訥々とぎごちなく読み上げるだけである。『いやむしろわすれて草』同様、『若草物語』でも関美能留が演じる役は物語の展開上に躓きをもたらす障害物の役割を果たしている。どちらの舞台でも彼が白いストッキングをかぶった状態で現れるのは示唆的だ。あの異物感には、原作に対する彼の演出家、解釈者としての位置づけ、姿勢が示されているようにも思われる。
『若草物語』では四姉妹は四人の女優によって演じられる。長女のメグを演じるのは劇団の看板女優である大川潤子、次女のジョーは舟川晶子、三女のベスが立崎真紀子、四女のエーミーが山下真樹である。舞台中央には郵便ポストが設置され、そこに届く手紙を通して数々のエピソードが再現される。
長女のメグは舞台の左側に位置し、三女と四女はポストを挟んで右側に位置することが多い。二女のジョーは劇の進行中絶えず舞台を左手から右手に向かってぐるぐると回り続ける。原作にあったであろう健康的、健全な雰囲気はみじんもない。ある種の脳天気な明るさのある舞台ではあるが、その明るさは狂騒的といえるものであり、登場人物のコミュニケーション不全がもたらした狂気によって支えられているように見える。
台詞はメトロノームにあわせた斉唱で棒読みされたり、けたたましい笑い声とともに発話されたりして、その古風で典雅な言葉遣いとは全く相容れないやり方で提示される。最初のうちはゆっくりと順番にエピソードが再現されていくが、徐々にスピードは加速していき、中盤からは原作にはあるらしいエピソードの多くが省略される。加速しすぎてばらばらに崩壊しかけた話の流れは、唐突に繰り返される《森のくまさん》の歌によって再び一時的な秩序を取り戻す。
二作品とも三条会らしいギミックに満ちた独創的な公演だった。これまでに私が見た三条会の作品の中では最も喜劇的な雰囲気が強調された娯楽性の高い舞台だったが、この団体独特の濃厚な密度は維持されていた。暴力的ともいえる諧謔とブラックユーモアを感じさせる演出、あくの強い役者たちによる強烈なデフォルメが加えられれることによって、原作のコンテクストに徹底した変更が加えられているにもかかわらず、見終わったあとでオリジナルのテクストのエッセンスはしっかり伝えているように感じられるのが三条会の公演の不思議なところだ。ブレヒト的異化効果を極端なかたちで取り入れているのが三条会のやり方であるとも言える。
様々な演劇的な仕掛けを使って圧力を加えることで、オリジナルを元のコンテクストから一度強引に引きはがした上で、個性的な役者たちの身体の中で徹底的に咀嚼し、変形した上で提示する。その変容の意外性と表現のインパクトの強さゆえに、観客は直接登場人物に感情移入することができなくなってしまう。物語は役者の身体性というフィルターを通し間接的なかたちで観客と結びつくのだ。このフィルターの存在は逆説的にオリジナルのテクストを客観的に映し出す役割を果たしているのかもしれない。物語への感情移入を促進する演出では見失いがちなテクストの本質的部分が、三条会の公演では異質なコンテクストの中で浮かび上がる。三条会が提示する解釈は、その見かけの凶暴さにもかかわらず、その後に何も残さない殺伐とした破壊行為ではなく、現在の我々の生理的感覚に基づいて徹底的に原テクストを咀嚼した上で作品の本質を浮かび上がらせる創造的破壊行為なのだ。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第74号、2007年12月26日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
【上演記録】
三条会アトリエ公演〈四姉妹〉「いやむしろわすれて草」/「若草物語」
三条会アトリエ(千葉市)
▽『いやむしろわすれて草』
日時:2007年11月9日(金)~13日(火)
料金:全席自由 1,500円
■出演
多田淳之介(東京デスロック)、榊原毅、橋口久男、中村岳人、立崎真紀子、舟川晶子、関美能留
■スタッフ
作/前田司郎
演出/関美能留
照明/佐野一敏
制作/久我晴子
▽『若草物語』
日時:2007年11月23日(金)~27日(火)
料金:全席自由 1,500円
■出演
橋口久男、中村岳人、大川潤子、舟川晶子、立崎真紀子、山下真樹、関美能留
■スタッフ
演出/関美能留
照明/佐野一敏
制作/久我晴子
【三条会webアドレス】http://www.sanjokai.com/