◎心の奥底から掘り出される言葉 劇作家の思いを越えて
因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)
開幕前、舞台は白い布で覆われている。女性とスーツを着た男性がいて、どちらも客席案内のスタッフだと思っていたら、男性の様子が少し変である。不自然にからだを傾け、ゆらゆらと動く。これは登場人物の一人で、既にお芝居が始まっているらしい。
誰かの葬儀のあと。白い布はそのままである。登場した2人の男性の会話から、やりての実業家だった故人をめぐる複雑な事情が早々に感じられる。金髪の青年安明雄は故人の生き別れの息子で、もう一人の男性崔英学は明雄の上司であり、故人に大層傾倒している様子だ。彼らと入れ替わりに故人の現在の家族である娘の高山真帆と彼女に片思いしている金井成人、真帆の元カレ木村忠男も出て来て、「これからどうする?」などという会話が始まる。異母きょうだいが鉢合わせかと思ったがそうはならず。やがて娘の母親高山澄江が登場する。亡くなった夫とは年齢がふた回りも若く、評判の悪妻だったらしい。ふたつの家族は互いを知らないが、どうやらこれから同じ場所に向かおうとしているようだ。いったいどんな話が始まるのか?
舞台が暗転し、再び明かりがつくと白い布は取り払われて、そこは瀟酒なマンションの一室である。故人が仕事用に持っていた部屋で、荷物整理をしている故人の部下木下哲彦と、故人の知り合いらしい女性金玲明がいる。彼女は中国人で日本語がわからず英語を話すのだが、木下には理解できない。おもしろいのはどちらも台詞は日本語で話していながら、互いの言葉が通じない作りにしているところである。そこに前述の人々が入れ替わり立ち替わりやってきたり、なぜか澄江がカウンターの下に隠れていたり、話はどんどんもつれていく。故人は朝鮮人であり、そのことが事業を進めるにあたって障害になったため、家族を捨てて日本人女性と結婚し日本に帰化したというのである。その一方で故人は民族の誇りを忘れず、「本名を呼び名乗る会」という同胞活動を熱心に行っていたらしい。
多少複雑な家族の話かと思ったら、予想外の展開にだんだん背筋が伸びてくる。政治的なことが苦手で、民族や国家レベルの話になると尚更だ。「や、在日の話だったのか」と身構えたが、ある一人の男性の死によって呼び寄せられた人々のやりとりは、舞台にありがちな大仰な演技ではなく、ごく日常会話的に語られる。複雑で繊細な問題に真正面から取り組みつつも、劇作家が主張するというよりも、登場人物に物語を委ねているかのような素直な筆致が感じられた。ならば自分も引いたり構えたりしないで、このふたつの家族と周囲の人々の話を最後まで見守ろう。
真帆は父親が朝鮮人であることも、過去にもうひとつの家族があることも知らなかった。婚約までしていた木村が突然去ったのは、それが原因だったのである。真帆は言う。「わたしハーフなんだね」。あまりに幼く舌足らずだが、自分のアイデンティティが激しく揺さぶられた娘が混乱の中にあって、かろうじて口にした言葉である。また年若い妻澄江は、一目で「ああ、あの悪妻」と思わせる様相で、話し方や態度もすこぶる感じが悪いのだが、「娘のあんたにはお父さんの血が半分入っているけれど、わたしはそうではない」とあたりまえのようで、実に深いことを言い出すあたりから、この女性が結婚生活においてただならぬ孤独を抱えていたことが感じられる。終幕、マンションに澄江と真帆だけが残されて、澄江がつぶやいた最後のひと言に心が痛んだ。その言葉をここに記すことは憚られる。「ネタばれ」というより、彼女の心を傷つけてしまうような気がするからである。
『チカクニイテトオク』に描かれる世界はささやかである。国家とは、民族の誇りとは何かと声高に訴えるものではない。在日の問題は題材として安易に扱えるものではないだろう。今回作者がなぜこの問題を取り上げたのかはわからないが、単なる設定としてではもちろんなく、演劇的仕掛けに走ることもない点を好ましく思った。いっしょに何年も暮らしていながら、近くにいながら相手のことをほんとうには知らなかった。どんなに近くに歩みよろうとしても、乗り越えることが困難な壁がある。底知れぬ闇がある。カタカナの「チカクニイテトオク」は、その悲しみがふとこぼれでた言葉ではないかと思う。
登場人物の幾人かは、話しながら少し奇妙な動きをする。両手を組み合わせてねじったり、からだを揺らしたり。非常に重いことを伝えたいとき、どんな手法を取るかは作り手にとって大きな問題だろうが、この手法が効果をあげていたかについては疑問が残る。一見してチェルフィッチュを思い起こさせるが、チェルフィッチュの手法に対する批評であるのか、そこを乗り越えて独自の演劇的効果を目指したものなのかが曖昧であると、「パクリ」という表現に代表されるあまり品のない、そのものズバリの批判を免れないであろう。
物語の主軸としてふたつの家族の話があり、中国人女性玲明と彼女の雇い主である韓国クラブ経営者島田大作の存在が、縦軸に対する横軸というほどには強く絡んでいない。そこをどう感じるかは、みる人によって違うだろう。話す言葉が違うために会話が成立しない決定的な現実があって、しかしその現実を通して、同じ言葉を話していながら理解しあえないことが、自分にはいよいよ痛く伝わってきた。
共に生活する年月が長くても、どれほど身近にいても、相手の心のすべてを理解することは難しい。しかし難しいとわかっていてもなお、人は誰かと関わっていなければ生きられない。人と関わることによって混乱や断絶も起こるが、同時に優しく温かな交わりも生まれ得るのではないか。『チカクニイテトオク』に登場した人々、特に澄江と真帆は、これからどのように生きていくのだろう。お芝居の出来事と流してしまえず、観劇以来、自分の心配事のように重たく残っている。
上演前に俳優が不安定な板付きであることや、不自然にからだを動かすことよりも、真帆の「わたしハーフなんだね」や、澄江の最後のひと言のほうが余程心に響く。戯曲の登場人物は劇作家によって生まれ、彼らの話す言葉も劇作家が作り出すものである。しかし、いささか神憑った言い方になるが、「登場人物みずからが語り始める」こともあるのではないか。登場人物の性格や背景もすべて把握して、物語をきっちりと構築する劇作家もいるだろう。だが前述のふたつの台詞には、劇作家に作られた言葉を俳優が言っているというよりも、ほんとうに生きて存在している人の口から、不意にこぼれでた言葉のように感じられた。劇作家のテクニックや計算を越えて心の奥底から掘り出された言葉は、みるものの心に重たく残る。この手応えが、まさに今回の観劇で自分の心から「掘り出されたもの」であった。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第88号、2008年4月2日発行。購読は登録ページから)
【著者略歴】
因幡屋きよ子(いなばや・きよこ)
1964年山口県生まれ。明治大学文学部演劇学専攻卒。1998年晩秋、劇評かわら版「因幡屋通信」を創刊。2005年初夏「因幡屋ぶろぐ」を開設。芝居もみたいがお花見もしたい。部屋が散らかっているがブログ記事を書きたい。からだはひとつ、心もひとつ。時間には限りがあり、悩ましくも幸せな春である。
【上演記録】
劇団掘出者第4回公演「チカクニイテトオク」
作・演出 田川啓介
出演
高山澄江:大澤夏美(THE東京エンターテイメント)
高山真帆:斉藤淳子
金井成人:赤星武(きゃべ。)
木村忠男:村松健
安明雄:長澤英知(THE東京エンターテイメント)
木下哲彦:澤田慎司
崔英学:板橋駿谷
金玲明:北川麗
島田大作:工藤洋崇
舞台監督 鳥養友美(THE東京エンターテイメント)
舞台美術 鈴木絢子
美術協力 今井康世 立原あけみ 角田知穂 中村美沙子
照明プランナー 安永瞬(スタジオ・アジャパ)
照明オペレーター 小西川佳菜
音響 池田野歩(THE東京エンターテイメント)
宣伝美術 斉藤さやか
フォトグラファー 田口徹
制作 高縁貴彦 山口恵利花 吉川朋美
2008年3月6日-10日 新宿サンモールスタジオ
前売1800円 当日2000円