◎「私たち」を描く申し分ない同時代劇
西村博子
舞台の冒頭、憂いを含んだピアノ曲。そのリズムに乗って町の人々が列をなしてソ、ソ、ソ、そ、そ、そと、やや漫画チックに走りこんで来て舞台後方や両袖、それぞれ所定の位置につく。と、つづいて青格子のシャツ、スラリと背の高い、ちょっと憂いを含んで美しい青年(李憲在)が中央の小さな空き家、米屋という看板のある廃屋にすうっと立つ。これはイクゾ!と思った。そしてその予感はみごとに的中した。
ストーリーはごく簡単だった。その青年は売れない画家。なんとか自分のアトリエを手に入れたいと願い、殺人事件があったというその米屋を、構わない、そのほうがかえって自分の創造を刺激すると借り受ける。そして店の一隅で絵を描き始める。が、米を売ってくれ、次はキムチを日用雑貨をと次第にエスカレートしていく町の人々の要求と、自分も店を持って無農薬米を普及したいと願う娘(金エリ)がやって来たことからついつい。気づくと、自分のもののはずだった空間がまるでコンビニみたいに商品満杯になってしまっていたというもの。頼まれて米袋に絵を描いたことから個展も開け、世に出る機会も出来そうだったのに、いつの間にかその絵も描けなくなってしまっていたのだ。
次から次へと訪れてくる町の、昔の貧しさそのまま量り売りで米を買う人。絵を褒める人。商品増やせという人。色仕掛けやチョイと万引き。あいだに、町の隅々にまで目を光らせている警官や、殺人容疑でいったん捕縛されるが証拠不十分で放免された米屋の元の主人や、いろんな人がいろんな風に出てきて、それを楽しむ。と同時に、思おうと思えば米もろくに買えず口に入らなかった昔から使い捨て、飽食の現代まで、社会や歴史にも想いを馳せることが出来るという構成。
画家も、もう商品は売らないと決心したとき商取引違反ということで拘留される。が、これは、実際そういう法律が韓国にあるというより、売買と消費花盛りになってしまった今の社会、その誇大であろう。そう、これはこの20年? のっしのっしと歩いてきた巨大な消費社会、その足跡と、それに踏み潰された一人の芸術家の劇だった。
終始、舞台の基調をなす、あの哀愁を帯びた美しい音楽は?とあとで聞いたら、タデウシュ・カントール「死の教室」から、いろいろ編曲してと演出の金洸甫。なるほど、このままでは行く手にあるのは死でしかない。
日本で言えば新劇、セリフを中心としたいわゆるリアリズム劇の伝統根強い韓国で、金洸甫もその一人。戯曲は常に他に求め自分は演出するという方法だが、しかしその作業はただ戯曲を立体化するというには終わっていない。たとえば町の人々の体、その登退場の列(れつ)にリズムを持たせたり、緩急リズムを変える音楽に合わせて家を自在に移動させたり、一瞬くるりくるりと空き家の壁が商品棚に変わっていったり、様々な手法で、在来のリアリズムから抽象のリアリティへ、飛翔を試みている。まことに韓国近代劇史、第二?世代のチャンピオンと言うにふさわしい。
作の高蓮玉も同様。一見ただのリアリズム劇。ある町の一挿話を〝静かな劇〟ふうに日常生活をセリフで書いたよという顔しながら、あるいは画家、あるいは物書き、芝居作りが、はっと気づくといつの間にか世の中に歩調を合わせてしまっていた自分に気づく-苦悩がそっと託されていたようだった。最初のほう、画家が、町の不動産仲介人と話すなかで、生前1枚しか絵が売れなかったというゴッホの、ピストル自殺のことに触れていたからだ。彼女もまた、しばしば引き金を引いたゴッホに想いを馳せた人だったにちがいない。
ひとつ私の不満を言うと、画家が元の米屋の主人に刺し殺された翌朝。つまり、まるでそれが夢ででもあったかのように、画家が再び米屋を借りに現れる終幕である。
冒頭とこの終幕はそっくり同じセリフ、同じ立ち居振る舞いで画家が不動産仲介人と契約を結ぶシーンだったのだから、これからまた同じ日常、同じ歴史が繰り返されていくだろうの絶望か、それとも今度こそ自分の空間を手に入れるぞ、描き続けるぞの芸術家の決意か。おのずと見るものに伝わって来る-はずだった。
なのに、それはただ冒頭と同じ。いちばん最後、遠くを眺める李憲在の目がやっぱり美しかったから、残念だが、ま、イッカ、であった。
もちろんここにわざとらしい決意表明などあったとしたらこの現代社会、嘘になる。が、ナントカしなければ、戯曲にそう書いてあるからそう演ったの、よくある〝リアリズム劇〟に終わってしまう。
これはきっと、この終幕にではなく、その前、キャンバスにむかっている画家が元の米屋の主人にナイフで刺し殺されるシーンに問題があったのではないか-と私は思った。惨劇が、今どの町にもありそうな無動機殺人あるいは衝動殺人みたいにしか見えなかったから、である。
もし私ならどうする?と思った。私なら、米屋の元主人のまず衣装。いまの背広は警官でないみたいな顔しながら町をすみずみまで探索、監視している私服にでも譲って、青年とそっくり同じの格子縞、色だけ対照にするのでは?と思った。真夜中に突如現れるのも出来ればキャンバスからか絵具箱からにしたい。そしてナイフで襲いかかる元主人は、まるで自分自身に銃口向けたゴッホでなければならない、と。耳に白い包帯巻いた、よく知られているあのゴッホの自画像。あの絵にも、自分のこめかみ撃ってしまったゴッホとその自分をじっと見つめ、描き続けたゴッホと、ひとりの二人がいたからである。
だから元主人の登場仕方も、町の人々と同じテンポリズムは止めにしたかも? それとも?-などと考えたついでに話を替えて、町の人々のソ、ソ、ソ、そ、そ、そに触れておきたい。あんまり愉快で、劇終わるとすぐ、見に来てくれていた坂手洋二さんも青年劇場、演出者協会の人たちも笑いながらソ、ソ、ソ、そ、そ、そと冗談混じりに真似ていた。もちろん私もソ、ソ、ソ、そ、そ、そだったからだ。
やや小腰をかがめながら、ちょっと子どもの汽車ぽっぽみたいな感じ。足を揃えて小走りするのがなぜあんなに、体から体へ伝染するほど面白かったのだろう? かなり長いこと分からなかった。
が、その後、AICTの劇評セミナーにふらりと寄ったとき、分かった!と思った。偉い批評家や有名劇作家。その視線の妨げにならぬよう小腰かがめ、マイク持って机の間を急いであちこち駆け回る人。その動きがまさにそれだった。世に楯突くなんてとんでもない。それが金洸甫の知っている今の町の人々だったのだ。それが見ている私たちだったのだ。
日常を描いた〝リアリズム劇〟はこうして、申し分ない同時代劇であった。(2008.8.15)
【筆者略歴】
西村博子(にしむら・ひろこ)
NPO ARC(同時代演劇の研究と創造を結ぶアクティビティ)理事長。小劇場タイニイアリス代表取締役兼アリスフェスティバル・プロデューサー。日本近代演劇史研究会(日本演劇学会分科)代表。早稲田大学文学博士。著書は『実存への旅立ち-三好十郎のドラマトゥルギー』、『蚕娘の繊絲-日本近代劇のドラマトゥルギー』I, II など-とは、実は世を忍ぶ仮の姿。その実体は自称「美少年探検隊長」。
・wonderland掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/na/nishimura-hiroko/
【上演記録】
劇団青羽「足跡のなかで」(fromソウル Alice Festival2008参加作品)
新宿・タイニイアイス(2008年8月13日-15日)
作/コ・ヨノク(高蓮玉)
演出/キム・カンボ(金洸甫)
出演/チョン・ギュス、キム・エリほか
☆料金
前売3,000円 当日3,500円 学生2,000円
☆2007年ソウル演劇祭の大賞・戯曲賞・演出賞受賞
☆上演台本は「シアターアーツ」2008秋(第36号)に掲載。