サンプル「家族の肖像」(クロスレビュー)

サンプル「家族の肖像」公演チラシサンプルは松井周(主宰)の作・演出でさまざまな家族・人間関係を「いま」に結びつけ、実験的な手法で舞台化してきました。今回のクロスレビューは、サンプル第3回公演「家族の肖像」です。会場はアトリエヘリコプター。旧工場2階四方に客席を高く設営しての上演でした。
いつものように名前と肩書きの後、5段階の評価と400字コメント(ミニレビュー)を加えます。(掲載は到着順)

▽柳沢望(白鳥のめがね

ゴミにあふれた舞台は、そのままリビングにもなり、商品があふれる小売店舗の店頭にもなる。ニート、リストカット、感情労働、萌え、などなど、近頃の社会的イシューを体現した人物が提示される短い場面をつなぎあわせたある種の群像劇。だが、個々の人物を説明的に提示することに時間を費やすばかりで、展開はほとんど抜きに帰結が示されて終わる、といった感じ。微細な動機が行為に熟す持続は描かれない。社会問題の通俗的なイメージを皮相な仕方でなぞっているに過ぎない。スーパーや学校などのサービスと家族関係を通じて全ての人物がつながりあっているという叙述上の仕掛けは、求められる社会性を仮構して託すにしては陳腐な仕掛けで、逆に社会を貧しくイメージさせるだけだろう。観客にゆるい笑いをゆるしている。そういう客層との暗黙の結託は、批評性の欠如の指標ではないか? 結局、80年代的演劇の想像力の範囲を出ていない。

▽片山幹生(早稲田大学非常勤講師)
★★★★
天井裏から舞台を覗き込むような客席配置のアイディアが面白い。観客がそこから見る世界には、覗き見に伴うやましさと邪な好奇心を刺激する倒錯的で滑稽な性のありさまが描きだされている。乱雑に散らかった舞台空間と脈絡なく提示される断片的なエピソードという演劇空間と劇行為のカオス的状況はそのまま作品全体の内容の暗喩としてみごとに機能している。コミュニケーションの齟齬を悪意でもって増幅させることで生み出される黒いユーモアのセンスは秀逸だと思った。
さまざまな演劇的仕掛けの周到さと皮肉の効いた黒い笑いの切れのよさを堪能したが、表現内容自体はある意味定型的であり、マンネリズムも感じた。作品世界が閉じたものであるように感じられるのも気になるところ。

▽菊池太陽(大学職員)
★★★★★
近代とは「普通」というものが中心的な場所に仮構された時代であり、本作ではその「普通」によって周縁へと隠蔽されたものが再帰する。登場人物は「普通」の基準に照らすと過剰や欠損を抱えていることになるのだが、それを「なかったこと」にさせる近代では各人の「私」なるものは単一ではありえない。ひきこもり息子のホーミーに登場人物が夢遊病のように引き寄せられるのは、単一の自我で生きる彼への無意識の憧憬だろうか。
近代は崩壊する。教え子の恋愛関係に元教師(=大きな物語)は解答を出せない。「ここから私達の新しい歴史を作る」という台詞の直後のいざこざにポスト近代における不確かさが表れている。
多文化主義のポスト近代ではあらゆる家族構成や価値観や動物化(東浩紀)に寛容であり、本作は大団円のうちに終わることもできたにもかかわらず、実に両義的でわかりにくいこのラストは「いわゆるポストモダン」に着地しない点で何とも野心的だ。

▽桜井圭介(音楽家・ダンスキュレーター)
★★★
「絵に描いたような“リアル”」のオンパレードだが、諸々のアイテムをデータベースから呼び出してきましたな感じとか、直近の社会文化批評的キーワード(「バトル・ロワイヤル」とか「現実への逃避」とか?)もしっかり押さえてありますな感じが、なんだかなー、と。なるほどそれらは「前提」「デフォルト」には違いないが、その先、「でんぐり返った」後、この舞台のラストシーンからようやく始まる、その行方のほうこそが見たいのだ。「新しい家族(状の何か)」という「実験」は、もう既に現実に様々な場所で色んなかたちで進行していると思うのだが、まだ実験中なので、当然データベースには存在しない。だが 「演劇」は未知の(思考)実験のラボにもなりうるはずだ。せっかく方法に腐心し「ベタ」な語りを回避したとしても、現実の確認(よくて整 理)で終ってしまうのではちょっと勿体ない。方法の更新に見合ったリアルの更新=書き換えを望む。

▽杵渕里果(保険営業)
★★★☆(3.5)
『家族の肖像』といえばヴィスコンティ。十八世紀に流行った家族肖像画を収集する老人と、彼の二階を借りる若い世代との葛藤の映画だった。本公演も二階建てで、一階の家族を二階の客席から覗き見る構造・・・でもこの芝居、「家族」って単語で読み解いていいの?。ゴミ屋敷的室内で飲食惰眠・自慰姦通する、「ポスト家族」の文化なき昆虫人間一族、といった按配なのに。『家族の肖像』の銘が、この舞台を<ありうべき家族とその実態>みたいな方角へ、解釈を制約する。『にっぽん昆虫記』『東京物語』・・ヴィスコンティより広がる表題をつい考えた。また、唯一の中年俳優・羽場睦子の役どころに難あり。献身的母・図々しい中年女・団塊世代の正義漢。中高年ステレオタイプてんこもりで、彼女だけヘタクソ肖像画。若い役柄の造形はもっと繊細なのに、惜しい。古館寛治のホーメイが心地よい。

▽伊藤亜紗(Review House編集長)
★★★
舞台装置はおもしろく、常温のまったりした演技やサンプリングの手つきには好感をもったが、戯曲レベルでめざされているゴールは非常に王道、古典的ですらあると思った。古典的=ギリシャ悲劇的。つまり、知らなかった事実が明らかになるどんでん返し「急転(ペリペテイア)と、人の見方の変更「人物再認(アナグノーリシス)」の組み合わせである。とはいえ、ギリシャ悲劇の場合明らかになるのが「運命」なのに対し、サンプルの場合は、たとえばマッチョだった店長が突然M的本性を発揮する等、徹底して「性癖」である。となると、いきつくところは演劇のキャラクター・カタログ化(性格図鑑化)なのではないか。マニエリスムに陥るまえにもっともっと実験してほしい。

▽大泉尚子(ライター)
★★★
舞台上一面に物が散乱しているが、まだゴミ屋敷には至っていないさまは、危ういところでかろうじて均衡を保っている精神状態を感じさせる。
序盤、いくつかの異なるシチュエーションで、スーパーの弁当を食べるシーンがあり面白かった。「このお弁当を使ってあなたのお話を作りなさい」というゲームみたいで。だが、それがこの芝居のかなめというわけではなかった。
スーパーの店長と店員の、家族やその周辺をめぐるお話。バラバラの物語がつながっていく展開には興味をもたされるし、無理に収斂させようとしていないところもいい。だが、(人間関係が)とっ散らかってます、というだけでは物足りない。
引きこもりの息子がうなっていたのは、モンゴルのホーミーか? それも、羊を呼ぶのではなく亡者(貞子?)を呼ぶホーミー。そうだとしたら、これなどさらに絡ませたら…と思えたのだが。

▽武田浩介(ライター)
★★
舞台を四隅から囲う、高い位置に設えられた客席。観劇中、座っているトコがグラグラして怖かった。寝かさねえぞ、ていう強い意思、身体を張って受け取ったぜ。
スーパーで働く人々。そして彼らを取り巻く人間たちによるジグゾーパズル。ニートに三角関係、EDによるセックスレス、そしてドMな男の煩悶…などなど。ドM男のキレっぷりはマジで最高。それぞれの関係から生まれるドラマも面白い。皆、適度に壊れているし。でも何だろう、彼ら彼女らのイキザマからは、飢餓感が感じられない。求めるものが違う?これがクール?うん、それもかっけーかもしんない。
だけど登場人物たちの交錯を「家族」と括ってしまうことには、そしてシメがニートの独白ってのには、どうしようもなく疑問が残ってしまいました。セックスできなかったり引きこもったり、辛いよね。でも、その辛さを「肖像」として額縁に入れて眺めるのは、もういいんじゃねえの?

▽小林重幸(放送エンジニア)
★★★
日常の「タガ」が外れてしまった後の終盤が圧倒的に面白い。その特異な様態の面白さだけではない。発散してしまうとどうしようもなくなるような妄想や欲望や感情を何か社会共通の枠で押さえつけておかないと人との関係すら成り立たないということが逆説的だが明快に示される。常識とはその枠のことだと「キレた」様子からふと思い出してしまう、観客の「自分発見」を強いるような一瞬が面白いのだ。
この芝居では、そこに至るまでの「常識」も、我々のそれとは何かが違う。残念ながら、その別の常識の世界に身を委ね共有するには至れなかった。眼前に示される、我々が普段はめられているのとは別の「タガ」に共感も憧れもできなかったのだ。無意識な制約としての常識を強く意識する瞬間がこの芝居の面白さである。それゆえ、そこに至るまでに提示される常識にも、何か必然性を帯びた説得力があっても良かったのではないかと思う。

▽田中綾乃(東京女子大学非常勤講師)
★★★
一体、松井周の眼には、世界はどう映っているのだろう? 下面で繰り広げられる自分の作品を瞬きせずにじっとみつめる演出家を横目に、淡々と綴られる「家族の肖像」を覗き見した。覗き見的感覚、散らかった部屋(舞台)、のっぺりとした人々の日常。これらのスタイルは、現在の小劇場では、いわば定番のスタイルであり、何ら目新しいものではない。だが、松井作品はとりわけ破綻度が強い。不条理でありつつも舞台の描出は穏やかであるがゆえに、作品の中に散りばめられた松井の破綻さが観終わった後になればなるほどボディ・ブローのように効いてくる。その意味で後味の悪い作品である。
消費されてしまった家族。ゴミやモノが散乱する中で、時空かまわず展開する家族や親しい人たちの不毛ともいうべき戯れ(関係)を上からぼんやり眺めていると、役者よりも周囲のゴミやモノの存在感が圧倒的に迫ってきてぞっとした。ゴミの中に埋もれ、溶解する家族の関係性。決して片付けられることはない残されたゴミたちは、行き場を失った私たちそのもののようであった。

▽北嶋孝(ワンダーランド編集長)
★★★
松井周が作・演出する舞台は、ぼくの偏向評価(笑)で乱高下を繰り返してきた。「通過」は星一つ。「シフト」は四つ星。次の「カロリーの消費」は取り付くシマがない、といった具合だ。毎回モチーフとなる家族の散乱イメージが影響しているのだろうか。
今回は引きこもり男や万引き娘、マゾ店長、フリーターらが陳列される。登場人物の組み合わせはなぜか収まりがよい。そのせいか貧相な家族の万華鏡のようにみえ、思わず笑いが漏れてしまった。
四方の客席が2,3mほどの高さに設営され、フロアのうごめきを「俯瞰」するようになっていた。この仕掛けがくせ者ではないか。フロアの登場人物たちに距離感が生じ、すべてがよそごとの戯れのように見えてくる。新国立劇場や世田谷パブリックシアターの最上階で「俯瞰」体験を積み重ねているからそう感じてしまうのかもしれないけれど。

【上演記録】
サンプル03「家族の肖像」
五反田・アトリエヘリコプター(2008年8月22日-31日)

作・演出:松井周
出演: 辻 美奈子(サンプル・青年団)、古舘 寛治(サンプル・青年団)、 古屋 隆太(サンプル・青年団)、羽場 睦子、木引優子(青年団)、江原大介、岡部たかし、中川鳶、成田亜佑美、西田麻耶(五反田団・マヤ印)、 野津あおい、村上聡一(中野成樹+フランケンズ)

チケット:料金 前売り 2,500円 当日 2,800円 全席整理番号付自由席

スタッフ
舞台美術:杉山至+鴉屋
照明:西本彩
衣装:小松陽佳留(une chrysantheme)
舞台監督:小林智
ドラマターグ・演出助手:野村政之
宣伝美術:京
宣伝写真:momoko japan
記録写真:青木司
記録映像:深田晃司
制作補佐:有田真代(背番号零)
制作:三好佐智子
企画・製作:サンプル・(有)quinada(キナダ)


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