風琴工房「hg」(上)

ワンダーランドは今年の4月から7月まで毎月2回のペースで「劇評を書くセミナー」(全8回)を初めて開きました。劇作家・演出家の話を聞く+劇評を書く+講師のコメントを聞きつつ討議する、という三位一体の講座でした。遊園地再生事業団「ニュータウン入口」、三条会「邯鄲」「綾の鼓」、それに風琴工房「hg」が課題公演に指定されました。この3回の公演評は無署名で書いてもらいました。書き手の属人的要素を捨象してテキスト自体に注目しようとの狙いがあったからです。毎回十数本の劇評が提出されましたが、もっとも評価が分かれたのが「hg」公演評でした。どこでどのように分岐したかは、これから2回にわたって紹介する劇評を読むと分かってもらえるはずです。以下、最初の4編を掲載します。セミナー講師の西村博子さん(アリスフェスティバル・プロデューサー)と岡野宏文さん(演劇専門誌「新劇」元編集長)の二人が選んだ劇評を基に構成しています(編集部)。
(注)10月に新しい劇評セミナーを開きます。>> 詳細ページへ

1.描きえないものと向きあう

詩森ろば率いる風琴工房は、一般的に“重い”とされる題材を扱い、女性作・演出家ならではの繊細な描写で作品化・上演する劇団として定評がある。しかし、評価はともかくその作品の傾向については、人によって好き嫌いが分かれるようだ。私は観劇するのは今回で、昨年の『砂漠の音階』再演に続き2作目だ。いつか観てみようと思いながら、なんとなく足が向かなかったところを、前作はたまたま知人に薦められたので観に行った。歴史に取り残された小さな出来事を丹念に掬い取った良作だったと思う。でも正直なところ、なぜそれほどまでに評価されるのかは腑に落ちなかった。派手さのない淡々とした演技で、ストーリーはウェルメイド。どの登場人物もとても繊細で、また明るくふるまい、労わりあっている雰囲気が少し苦手だった。しかし今回の作品を観て、風琴工房の創作にかかるスタンスと評価される理由を、私なりに納得できたように思う。

“hg”とは水銀の元素記号のことだという。高度成長期、チッソ水俣工場からの排水に含まれていた水銀は、水俣湾の魚介類の体内に取り込まれ食物連鎖を経て有機水銀へと変化し、それを食した人々の身体に治癒不可能な障害をもたらした。水銀は母体を通し胎児にも影響を与え、50年弱を経た現在もなお水俣病と闘っている患者がいる。『hg』という作品は、水俣という土地において、世代を超えて続いている水俣病の禍根をテーマとして、その原因が特定された1959年当時と2007年現在の二話構成で展開する。

第一話は『猫の庭』というタイトルがつけられている。チッソ水俣工場の会議室を舞台に、企業としての立場を守ろうとする工場長や、企業への愛着と社会的正義や倫理観の間で揺れる社員たちの葛藤が描かれる。そこに至るまでの一切の経緯を省き、1959年10月21日という運命の一日にドラマを凝縮させるのは『砂漠の音階』でも見られた作劇術だ。公演チラシに「断罪するために書くのではなく、そこにも人がいたということを書きたい。」とあるように、単純な善悪二極構造ではなく、淡々とどの登場人物も、ごく一般的な共感しうる人間像として描いている。

タイトルにある“猫”とはチッソ付属病院で飼われ排水の毒性の実験対象となった猫のことだ。恐らく史実に基づく存在なのだろう。しかし、猫に対する医師たちの複雑な思いは理解できたものの、タイトルにもってくるだけの象徴性は伝わらず、もう少しその扱いが練り込まれていれば良かった。

第二話は、現在の水俣市に実在する障害者たちのグループ・ホーム「ほっとはうす」をモデルにした“みかんのいえ”で繰り広げられるある一日の出来事。こちらのタイトルは『温もりの家』である。“ぬくもり”とはなにか? 心や身体に障害を負った人々がともに支えあい、生きていくことを指した形容詞なのだろうか? このネーミングは安易だと思う。でも、詩森が第二部で描こうと意図したのは、温もりの裏に秘められた人々の言葉に尽くせない思いだろう。明るさと穏やかさに満ちた“みかんのいえ”に小さな嵐をもたらすのは、水俣病をテーマに戯曲を書こうと取材にやってきた若い女性劇作家だ。劇作家の一方的な熱意に、“みかんのいえ”の理事長は終盤で感情を爆発させる。「水俣には優れたドキュメンタリーが数多くある。それなのに演劇にする必要があるのか。水俣病患者にとって一番辛いのは障害の真似をされることなのだ」と。理事長の台詞の一つ一つが、実際に詩森が取材先で言われた言葉なのだろうと容易に想像がつく。

第一話の登場人物たちのその後を、劇作家が調査報告として観客に解説しながら、第二部へと移行していく場面転換の手法は巧みだった。第一話でいわば加害者側であるチッソの社員を演じていた俳優が第二部では水俣病患者を演じることについては、あまりに皮肉で心が痛んだが、それもまた加害者にも被害者にもなりうる人間像を表現するための、一つの答えなのだろう。またなにより、一目で詩森を思わせる登場人物として劇作家を配置したことは、詩森自身が水俣病をテーマとする上での真摯な選択だったと思う。詩森が目にした「ほっとはうす」の日常、それは部外者である詩森にとって“温もりの家”としか呼べないものだったのだろう。

「重いテーマって何ですか? 私にとっては全然重くない」。後日、詩森の話を聞く機会があった際、彼女はそう言っていた。でもそう言えるのは、そのテーマにおける葛藤を彼女自身がすでに一巡していたからだろう。テーマの“重さ”とは、個人それぞれの人生経験を前提としてそのことを請け負えるかどうかだ。当事者ではない多くの人々にとって、水俣病が重いテーマであることは当然だ。それでも自分が請け負えると信じ、創作の元にしようという姿勢は果敢であるとしか言いようがない。劇作家の人物像と実際の自分は正反対だと詩森は言っていたが、なにか“演劇にできること”があるはずだと信じる純粋さは詩森そのものだ。そしてこのことは、公演に付随する「「つたえて」プロジェクト」や、観客のために劇中に出てくる用語を解説した配布物など、制作面の姿勢にもつながっている。風琴工房の創作のスタンスとは、こうした「演劇」という表現ジャンルへの揺るぎない信頼に基づく、愚直なまでの一貫した献身的スタイルにあるのだと思う。その、部外者にとってはとうてい描きえないものにも向き合おうとする果敢さと素朴さが心を打つのではないだろうか。

でも、詩森の言葉通りに、一般的に“重い”とされる題材さえも“重くない”と思えることが望ましいのであれば、もう少し「演劇」そのものの力についても達観する必要があるかもしれない。演劇は所詮虚構。現実の重みにはとうていかなわない。演劇が提示できるのは、ある“視点”だけでしかないということを。でも、それをふまえた上でも、これからの風琴工房の果敢な創作活動がどのように進んでいくのか見続けてみたい。(2007年5月11日(土)観劇)

2.加害/被害…二元論の先へ

障害がある人たちが過ごす施設の現在を描いた二場冒頭、およそ50年前のチッソ水俣工場内を舞台とした一場で工場長や付属病院長を演じた俳優が、水俣病患者として登場したという仕掛けは、少なからぬ観客を当惑させたに違いない。
その仕掛けが意図していたのが転生、つまり彼らに業を負わせるためのものであったとすれば、障害者が因果応報によって生まれるというえらく古い曲解に基づくこととなり、はたまたそれが罪に対する罰を表していたとしたら、障害そのものが悪であるということになってしまうのだから。

しかし、詩森はそんなことを表現したかったのではなかろう。彼女が「加害」と「被害」という問題を強く意識していたのは確かではあるが。

一場では、すでに中枢神経を患う者が現れていた水俣で、自社の工場からの廃水がその原因だと察知し始めたチッソ内部の研究者や医者たちと、それでも会社を護ろうとする幹部たちの、それぞれの想いが描かれる。また父親の身体に異変が生じてきた現地採用の女子社員と本社から赴任してきている青年の恋愛も見え隠れする。

上手寄りに柱と梁を部分的に表した大きな十字架のような構造物が配置され、正面奥には中央部を横長に四角く切り抜かれた壁が天井まで伸びている。ほぼそれだけのシンプルな舞台装置に長テーブルが三脚と椅子がいくつか用いられる。照明は薄暗く音楽は使われないために、白熱する議論とそこに漂うやり場のない怒り、徐々に緊迫感は高まっていき、ついには廃水を与え続けた実験用の猫に決定的な症状が出て、通産省からも通達が来る。1959年の晩秋のおよそ一時間を切り取った。

慌しく人々が退場していってしまった後の凪のような舞台で強く希望を語る女子社員の言葉は、その後の水俣の受苦を知る観客たちに、彼女の父親の病状や青年との恋が彼女の望まざる方へと向かってしまう「未来」を予感させ、静かに澱のような悲しみを堆積させていく。

二場に登場する若い女性の演劇人国東を演ずる俳優が一場で描かれた人たちの「その後」を語る中、場面転換がなされる。
そこが前述の「役変わり」の場面となるのであるが、おそらく多くの観客に動揺に似た違和感を生じさせながら二場が幕開けとなったはずである。

二場では水俣病患者やその他の障害がある者たちが通う施設「みかんの家」のとある一日の様子が淡々と描き出される。全く同じ舞台に強く明るい照明が当たり、色とりどりの小物が持ち込まれ、一場で窓に見立てられた奥の壁の四角い穴はオープンキッチンのカウンターとなり、雰囲気は一変している。施設の利用者たちは職員や実習生の手を借りてポプリを作ったり、カフェやランチの用意をしたり、テーブルを囲み他愛もないおしゃべりをしながら、ゆるやかに時間が過ぎていく。そこには隠しようもなく悲しみが言葉の端々や振る舞いの後ろに浮かんでくるのだが、それを包み込むに足る笑いに満ちている。

ただ、若い女性の演劇人という役は、動きをもたらすために「外部」の存在として作られたのであろうが、水俣病患者たちや自閉症の青年を「演じる」ということの是非を登場人物たちが論ずるという、私には余計にしか見えなかった場面を導くこととなる。論文を書くために訪れた学生でも取材の新聞記者でも良かったはずなのに、敢えて彼女を登場させたのは、詩森がそれだけ「蛇足」を描かざるを得ないと感じたのだとは思うが、そんなことを言い訳がましく直接書き込むべきではなかった。そこは敢えて語らずに、たとえどのような批判に晒されようともそれを受けるという覚悟は、この題材を取り上げることを決めたときからせねばならなかったはずなのだ。

そこまでしても詩森が表現したかったものが存分に表せていなかった、二場ではそのために彼女がさらに踏み込んで語らねばならないことが自己弁護などでなく他にもっとあったのだと私は思っている。

詩森は観客を動揺させてまで、「加害」と「被害」について踏み込もうとしていた。だが、「誰もが加害者にも被害者にもなりうる」ということを意味していたのではない。誰かが加害者で誰かが被害者であるという二元論を揺さぶろうとしていたのだ。そしておそらくそれは、父親を水俣病で亡くし自らも発病しつつ未認定患者の闘争の精神的支柱であった男の思想に導かれている。

「チッソは私であった」。後に認定申請そのものを取り下げることとなる女島(めしま)の漁師・緒方正人の言葉である。彼は『証言 水俣病』(岩波新書)の中で、チッソという企業や行政と闘ううち次第にその相手がわからなくなり、便利さや物質的豊かさを欲してしまう自分の中に、経済成長のためならば他者を人間とも思わないという時代の構造的な病態と相似形のものを見出し、その構造を解体するどころか温存を図るような政府の用意する「和解」の道筋から離れていった経緯を語っている。

チッソ職員一人ひとりの中にもある構造的な暴力に晒された個人の被害性と水俣病患者さえ逃れることのできない人間の根源的な加害性。そのどちらもが私たちの中にも連綿と存在している。ややもするとその気づきは、私たちを鬱屈させるかもしれないし、二場冒頭の当惑はその胸騒ぎであったのかもしれない。詩森が誰かが加害者で誰かが被害者であるというわかりやすい二元論を揺さぶるのみならず、越えて行けたのであれば、いたずらに人々を塞がせたり惑わせたりするにとどまらなかったはずであった。

認定申請を取り下げた上で緒方は、水俣病患者としてではなく、人としてチッソ擁護に加担した人たちをも含めて救済されることを求め続けている。存在を賭した思想の前では、長期の取材に基づいたという今作も浅薄といわざるを得ないが、それでも詩森は自らに生じた衝動を信じて進むしかなかった。

会社の威信を護るためや国家の繁栄を築くために一部の人間たちを見殺しにしていくことに苦悩し葛藤し諦念する帝大出身のエリートたちよりも、その尺度の中では下層というか階層にすら入れられることのない人々が、人として実に生き生きとしている姿を示し、私たちが囚われている古く狭い価値観を組み直せたのかもしれなかったが、予感の域を越えることはなかった。詩森が二場で、一見すると無価値なものをかけがえのない輝きに、圧倒的非力を頑ななたくましさに、異形をこの上なく美しいものとして、立ち上がらせられたとしたら、一場と二場を結ぶあの仕掛けによって恨みや暴力の連鎖を断ち切る可能性までもを提示できたのではなかったか。チッソ職員たちの、水俣病患者の、そして私たちの中にある加害性と被害性を赦し/救うための途が見えたのではなかろうか。

「(演劇に)やれることが、あるんじゃないかと」「吉倉さんのポプリをすくう手がすごく綺麗で・・・。そういうことに、もう少し強い光をあてて、照らすみたいなことが」とラスト近くで国東は語る。

そんなことを登場人物にわざわざ語らせるのではなく、まさに詩森自身がやってのければよかったのである。生産性からみると無為とさえいえる吉倉の作業の手の所作が、奇跡のように美しいことを全身全霊傾けて表し、知らしめることからその先の可能性が開けていくはずであろうから。

3.証言「hg」

田口ランディのブログより、『hg』の感想。
「上演は二話構成になっていて、二時間。しょっぱなから緊張感のある舞台。しかもそれがラストまで続いた。一気にのめり込んで観た。まわりの観客も身を乗りだして観ている。正直、水俣病をこう切るか……と、やられたと思った。加害者にフォーカシングしている。新鮮だった。」

うど。うっそお。てか、ちょーつまんなかったよ。しょっぱなから二時間どうしようかと思ったもん。いや、いやいや。田口には水俣関係の著作があり、『hg』では作・演出の詩森ろばと対談し、ウチワですよこの人。ウチワ。しかし。ところが。グーグルをたどると、そこには芋づる式に絶賛系な観劇ブログが…。
スズナリという密室で、かの芝居がいかなるものであったか、を証言するのが劇評なんだろうな。あーしんど。

「証人、前へ。」
「はい。あらいざらい告白いたします。それが…うっうっ(涙)。二時間、席にいるのがつらかったのです。
舞台では事務服の女性二人が、机を動かして会議室を設営していました。会議に来た男性社員、「院長」と呼ばれる中年男性まで机移動を手伝って、和気藹々とした小さな会社のようでした。キャスト表を見ると、中年男性は「チッソ付属病院院長」、社員3人は「チッソ水俣工場総務部員」。有機水銀説公認前夜の、1959年の、チッソ水俣工場での医者や工場長たちの会議室だったのです。
中年の工場長が会議に来ると、女子社員は、わっちも会議に参加させてくだしゃいと直訴します。彼女の祖母に問題な症状が出ており、そげな大事な会議で会社も悪いことしちょらんと思ちょるんなら参加させてほしい、と頼む。工場長が深く同情しつも断りあぐねていると、机運びの院長が、患者さんの家庭の事情などプライバシーに関わる言及もあろうからと諭します。ここで彼女が、おなじ町の仲間じゃなかけ、そんなことゆうちょる場合じゃなか、と反撃しないのが不思議でした。そもそも工場長にお茶くみが、かなり大胆です。彼女こそ、演劇ならではのありえない勇気を示す架空のヒロインかと思いきや、個人情報保護法の研修をうけた21世紀のOLのように、あっさり袖にはけてしまいました。工場長や院長の人柄の良さばかり印象に残る、なにか、ヤラセによるチッソ、の感じがしてきたのです。
やがて、会議が始まると、正義に燃える新米技術部員が、黒板の真ん中に「hg」とチョークで書きます。この字が、なんというか…下手なのです。私は、小学校一年から毎日板書を見ながら成長したので、目が肥えています。これは、書きなれたかのように書こうして下手になった字でした。教師でなく会社員の役なのだから、上手に走り書きする必要はない。役者として青いと思いました。それに、工場長や病院院長を相手に、有機水銀と無機水銀の差を説明する技術部員は、もっとややこしい式を書くと思うのです。そして、この新米社員の会社への疑義は、工場長自らが、そういう意見をいえるから若い君を呼んだのだ、と即座にフォローされる。異質な意見に寛容で年功序列もない、リベラルなチッソ。舞台にいるのは話のわかるいい人ばかりで、くさいのです。」

「…くさい、とは?」
「うそくさい、会社組織の描写が甘すぎる、ということです。」

「続けますか?」
「はい。後半は、福祉施設でした。2008年、中年になった胎児性水俣病患者らの住まう施設に、東京の小劇場の女性が訪れます。これがぴーこらぴーこらうるさい。施設の女性が、彼らの症状を真似たら、彼らが傷つきます、でも伝えたいんです。次第に、その熱意は買うわ、上演しますっ、とか終わってきます。」

「でも、あなたが目撃した時点ですでに「真似」がはじまっていた、と。」
「はい。でも許可出てるもん、みたいな。それに、この設定では、小劇場の人は、患者当事者との関係を築く前に、施設管理者に上演許可をとりつけていて、それも気になりました。」

「田口さんの見解によると、加害者にフォーカスした点が新鮮な芝居。しか
し一面、被害者へのフォーカスが不足していた、ということですか。」
「はい。そうなると思います。今回は、前半でのチッソ側の工場長や病院長といった俳優が、後半で、胎児性水俣病患者を兼ねていました。作者の詩森さんは、映画芸術のインタビューで、「チッソの人は加害者で極悪人という決まりきったイメージではなくチッソの中ですりつぶされていった人を描き、そこに現在を生きる患者さんの物語を並べることで、どちら側にも立ちうる私達」を描きたいと、このキャスティングを説明します。たしかに、私たちは被害者にも加害者にもなりうる。でも、生まれながらの患者は、ああした企業の要職になりえない。胎児性の患者と企業幹部を同じ役者でやるのは、加害者のイノセンスの過剰な強調です。」

「詩森さんの仰る演出意図と、異なる解釈を、あなたはあえて選ぶのですか。」
「はい。演出の意図や志しと、観客への効果はべつものです。たとえば、仮にチッソに『hg』で見たような温厚な役員がいたとして、彼らが真実、地元の経済的発展を願って排水への疑いを隠蔽したにせよ、だからといってその結果を、評価できるはずはありませんから。」

4.これは舞台であるからして全てフィクションなのです

風琴工房「hg」の公演以来、自分の思いを整理するために人と話し、また他の人の書いた劇評や一言感想を読んだ。語りたいのはやはり第二幕である。

水俣病発生当時の工場関係者の再現ドラマを舞台上で行った第一幕に対し、実際の水俣病患者の施設を舞台にした第二幕には、「東京から来た劇作家の女の子」が登場する。上演に反対する施設長に対し、彼女が「ここの施設の話を書きたいんです」「私のこの目で見たことを書きたいんです、たとえばあの患者さんの(実際は役名)ラミネートをする手つきが、すごく綺麗だったこととか」と言い、患者にラミネート加工をして見せてもらうのが「hg」の結末だ。
綺麗、か。
水俣病患者がラミネート加工をして見せる直前、施設長と劇作家は施設内で声を張り上げて口論していた。突然怒鳴り合った二人に対して患者はノーリアクション。もし登場人物が身体的障害のない集団だったらこんな場面を書いただろうか。

社会問題の被害者だから特に障害者は「綺麗」と言われがちだが、俳優が障害者を善良に演じた様を「綺麗」と言った時点で舞台上にあるのは様式美であり、写実性からは離れる。

私ら無知な観客を、神妙な気持ちにさせて満足か。舞台上の障害者に心持ちうつむいて頭を下げる状態は、敬虔な祈りに似ている。そこでは批判は抑圧される。被差別者を描くときの危険は正にここ、差別する側としての観客を敬虔な気持ちにさせ反省した気にさせてしまうところにあるのだ。うつむいている状況は居眠りできる状況でもある。常日頃の生活で遭遇する、知的・身体的な障害者に対しての感覚をも埋もれさせる。

施設の関係者らを招いて行ったアフタートークに対しての評価が多かったことも、嫌だ。だったらちゃんと関係者の講演として立ち上げて、講演と併せて劇を上演しなさい。書きたい、と言いながら日によって語っちゃいけんだろ。語りによって演劇を補うのは古典的な反則である。なぜなら語るほうが手間がかからない上に「事実」だから、である。語られた事実の前に写実的な芝居なんて、どんなに優秀な俳優であってもできることは知れている。

だいたいねえ、上演に反対する施設長さんの言い草が
「あの人達(水俣病の患者)はいつも言っていました。『一番嫌だったのは
真似されること』」
っつうのはどういうこった。演劇は現実のまねっこじゃねえ。
これは明らかに、役者をはじめ演劇関係者への偏見である。と同時にこの台詞に一つの鍵がある。演劇人だって、偏見で語られうるということだ。

実際に風琴工房主宰の詩森ろばさんが施設長から言われたという上記の台詞に、劇中で詩森さんの分身としての劇作家が怒れなかったことこそ、「hg」の一番の敗因だったと思う。こりゃ現実に負ける。施設長の明らかな偏見に対して怒るなら、劇作家は語り手の役割からぬけられるし、観客は「偏見を食らう側」になったのだ。自分の偏った考えで無下に発言しちゃうことなんて、それこそ水俣病患者のための施設を運営している人にだってあることだ。差別感情と切り離せない社会問題を描くのなら、自分に対して降りかかってくる差別感情にもぜひとも敏感になってほしかった。自ら加害者側に徹することもまた差別的なのである。

誰もが突然に、被害者にも加害者にもなるという側面を暴いてこそ、「私達とあの人達と何が違うのか」という疑問への答えが見つかるのではないか。劇中にも、水俣病患者に「カンガルー」と笑われた熱血教師が、「僕の動きを笑うのと水俣病患者の動きをまねするのと何が違うのか」と悩む場面があった。現実の前に「hg」の世界は抑圧されている。水俣病患者だって人のことからかって笑うんじゃん、とついぞ風琴工房は言えなかったのである。

自分のこと棚に上げることだってあるんだよね。人間だものね。ああやだやだ、言葉で言うととたんに説教節ね。そうなのだ、「語る」という表現は、事実そのままだけに観賞に耐えないことがままある。虚構の強みこそが演劇の強みじゃないか。第一幕のほうが諸劇評の評価が高いことは、その何よりの証明のように思える。

何十年も前のチッソ工場内で、チッソの排水が水俣病の原因と判明するまでの過程を描いた第一幕は、事実こそ教科書で読んでいたものではあったけど、なぜだか他人事でない感覚に襲われた。ドキュメンタリーフィルムでなら、アフリカの子どもの瞳の美しさだって私は知っている。だが学校に内緒でアルバイトをして生活費を工面していた一人の中学生を前にしては何もできなかった。一人の人間と出会った経験と比べるまでもなく、現実に寄り添う劇は現実の前に為すすべもない。事実に直面して無力感に襲われたままの自分は、自分で思うほどには観賞に耐えないのだと思う。表現者はつらい。嘘でもいいから、施設長の「まねすること」発言には怒ってほしかった。
(「劇評を書くセミナー2008春季コース」 2008年7月12日第7回課題公演評から)
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第106号、2008年9月24日発行。購読は登録ページから)

▽風琴工房「hg」() ワンダーランド2008年10月1日

【上演記録】
風琴工房公演「hg
下北沢ザ・スズナリ(5月9日-18日)

【作/演出】
詩森ろば

【出演】
篠塚祥司
佐藤誓
金替康博(MONO)
栗原茂(流山児☆事務所)
西山水木(La compagnie an)
松岡洋子
宮嶋美子
山ノ井史
笹野鈴々音
浅倉洋介
海原美帆
北川義彦
津田湘子

【スタッフ】
舞台美術:杉山至+鴉屋
衣装/宣伝美術:詩森ろば
照明プラン:榊美香
音響プラン:青木タクヘイ
音響オペ:鈴木美枝子
舞台監督:小野八着
スチール:鏡田伸幸
演出助手:渡邉真二
制作:田中真実

前売 3200円 当日3500円
大学生2200円 高校生以下1500円 障碍1500円
ペア券5800円 トリプル券8400円

【助成】
私的録音補償金協会(sarah)
芸術文化振興基金

【後援】
水俣市立水俣病資料館
社会福祉法人さかえの杜 ほっとはうす(水俣)
株式会社熊本放送
水俣フォーラム
FM791(熊本シティFM)
坂西卓郎(財団法人水俣病センター相思社)

◆ファーストウィークエンドキャンペーン
最初の週末3日間、風琴工房を「はじめて見るお客さま」と来ると1名様分招待。
※詳細は「つたえて」プロジェクトを参照。

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