七味まゆ味一人芝居「いきなりベッドシーン」(柿喰う客企画公演)

◎「あえて」演劇を引き受ける背反的意思
藤原央登(劇評ブログ「現在形の批評」主宰)

チラシ写真撮影:内堀義之幕開け、素舞台で「清水の舞台から飛び降りた」とテンション高くアクション付きでカットイン。以後およそ50分に渡って鷲津神ヒカルというケバケバしいメイクを施した女子高生の、入学時から2年生の修学旅行までの高校生活の顛末を、速射砲のようにギャグを交えながら話し続ける。終始、冒頭のテンションを崩すことなく、言葉に憑かれたように小気味よいテンポと節回しで駆け抜けた女子高生を演じたのは、柿喰う客という集団の女優、七味まゆ味。大阪は一日だけ公演されたこの一人芝居は、久しぶりに役者体の魅力を余すところなく体感できた舞台であった。

この女優に瞠目する点は、終始つとめて明るく無邪気に振舞うという、戯画化したキャラクターを貫いているにもかかわらず、同時に苦悶の色合いを帯びた要素をも表現するからである。楽と苦の背反する両面を、ヒカルの個性ではなく場の状況の変化によって全く異なった貌を見せる変化のグラデーション。強烈なキャラクターが彩なす奔放さがやがて不条理な世界へ踏み込み、そして逃れられなくなるに至るスパイラルが、繊細で脆い思春期を生きる姿を提示するのである。

何事にも好奇心旺盛なヒカルは、様々に見聞きしたハイスクールライフを、人生を楽しく生きるに不可欠だと捉え、クラス委員もクラブ活動もまとめて全て引き受けてしまうほど、旺盛なバイタリティを発揮する。恋も、イケメンの3年生の先輩を振り向かせることに懸命になった結果、二人は肉体関係を持つまでに発展する。活動的すぎるほどの行動力とノリの良さで、充実した日々を送っていたある日、担任教師から、苦しみをも同時に経験し乗り越えることを経なければ、人生の面白みは半分しか経験できていない、との言葉を受ける。無邪気であることは、要するに純粋で素直すぎるということである。

「いきなりベッドシーン」公演から

「いきなりベッドシーン」公演から
【写真は「いきなりベッドシーン」公演から。撮影=渡辺佳代 提供=柿喰う客 禁無断転載】

彼女は、その言葉を受けふと立ち止まる。するとどうだろう、下駄箱の上履きに画鋲が入っている、友達が自分の噂をしているように思えてくる、近づくと鼻をつままれる。つまり、いじめられていることに気付くのだ。それを人生を楽しむための苦しみに捉え、かえって狂喜乱舞するのも彼女らしい。そんな時、親友の手首にリストカットの傷跡を発見する。それほどの苦しみを抱える人物に彼女は強い憧れを抱いてしまう。これは一見、倒錯したような欲望だが、人生・高校生活を楽しむという根底にある一点は変わらない。目的遂行の為、小さなきっかけをポジティブに膨らませられるだけ膨らませ、嬉々とするからこそ、彼女の速射砲のようなテンションは維持される理由となるのである。戯曲・演出にもそれが見てとれる。

冒頭から観客の生理感覚と懸隔した勢いで自らが喋った事にノリツッコミを入れ、突き放すというギャグが頻出される。そのモードに観客が順応し、笑いが生まれたところで、先述したようにヒカルの目的はいつしか自虐的なものへと変質する。先輩の受験を失敗させたことに端を発した行動は、片目を失明するほどの暴力・強姦・薬物中毒から売春へと至る最悪のコースを辿る。その際、無邪気に楽しげだった頃の台詞と身振りを交えたギャグがそのまま繰り返される。彼女自身のテンションは変わらないまま。むしろまだまだ不幸が生ぬるいとさえ感じている。

この一貫した人物造形は、彼女自身の無邪気さを引き立たせると同時に、それを観る者にとってはもはやギャグも痛々しく笑えないものに変質したものとして、当初の温度差とは違う効果を生む。そう、彼女は最後まで無邪気なままなのだ。その子供らしく無邪気であるが故に他者を簡単に信用し、素直に突き進むことで悲惨な状況に置かれるヒカルに、観客個々が様々な想いを投影することになるのだ。そのことは、物語が全面的な主張を発することではなく、台詞をすっかり取り込んでしまうほどに、舞台上の七味まゆ味という役者体を武器にしようとする意識とその実践によるものである。身体からにじみ出るものを観客が感覚的に受け取ることから、舞台と観客席の間の対話が始まる。その緊張関係は人物へのさらなる注視を引き起こす。

ヒカルのあまりの悲惨な状況を知った親友は、ますますリストカットの傷を深めてゆくことになる。不幸になるべく奔走する自分を知り、いわば受動的にあっさりと不幸になってゆく親友を目の前にし、勢い余って絞殺してしまう。胸の高さに伸ばした両手で輪を作って、淡々とその時を語る彼女の姿が、無意識的なあっけなさを強調する。皮肉にも、不可抗力の絞殺によって、あれほど自らが計画した行動では成し得なかったリストカットによる出血が起こる。スパッと切ることによるフッっと浮遊して開放される感覚をようやく経験したのだ。人生において事は思い通りに運ばない。この殺害も、自己中心的なものであることは間違いないが、他者との関係性の中でしか何事も達成できないことを、結果的にその他者を喪失することで示すという背反がここでも見られる。そして、このリストカットは、彼女が親友の殺害を通して痛みを背負い、苦しさを引き受けた証であるとも言えよう。

「いきなりベッドシーン」公演から
【写真は「いきなりベッドシーン」公演から。撮影=渡辺佳代 提供=柿喰う客 禁無断転載】

そこから、冒頭の修学旅行のシーンである。清水の舞台から飛び降りる事は、好奇心旺盛な面と不幸道への更なる磨きのためにそうさせたのだろう。ただし、彼女は一度ならず二度も飛び降りてしまう。「時間が余ったので、あえて飛び降りてみました」と文句を残し、ジャンプした瞬間に幕となる彼女の、時間があまるという感覚はどういうことなのか。事前に食事を済ませた為に昼食時間がぽっかりと空き、する事がなかったという旨の説明があるにはある。だからと言って、余った時間を使って一度経験した飛び降りを再度敢行したことは、やはり自殺と捉えるべきなのか。苦しみを楽しみに変える豊穣な人生の歩みを目指したものの、その蓄積により身体が耐え切れなくなり、自殺という最大の不幸を経験した、と思春期特有の繊細で不安定な人間の末路を描いていると捉えられなくはない。

だが、「あえて」何かを引き受けるという台詞に、強い意志のようなものを感得されはしないだろうか。その強さは、人間を支えるための誰もが信じ得る社会的共通コードという、物語性の失効した現代を生きる為に必要条件となる態度であるからだ。全体的統一を可能とする思想が紛れもなく正当として規定された時代では、その枠内に合致するか否かが人間の生きる指針となった。その正当さに承認を得えようとするか、はたまた拒否するかは別にしろ、選択するための根拠が存在する。だが、その共通コードがあえなく失効し、細分化した社会コミュニティが乱立した時代では、小さな社会がそれぞれのリアリティを持つ。それは、自らがリアリティを創出しなければコミュニティの存在は簡単に黙殺されてしまうくらいに脆さを孕んだ無根拠なものだ。従って、あらゆる物事の選択理由は外部からの根拠などなく、個々が「あえて」引き受けなければならない残酷さに満ち溢れているのだ。

倒錯した行動を突き進むこの舞台の女子高生は、戯画化された極端な人物だ。しかし、背反する心理そのものは、そしてそれをある決意でもって引き受けること自体を否定する余地はない。それを身体で知覚する七味まゆ味は、演劇的リアリティへと十分昇華させ強度をもったものに仕上げた。飛び降りるヒカルから、「あえて」演劇を引き受ける彼らの意思が背反的に投影されたものとして私には感じられた。
(12月1日 in→dependent theatre 1st ソワレ)
(初出:マガジン・ワンダーランド第118号、2008年12月17日発行。購読は登録ページから)

【著者紹介】
藤原央登 (ふじわら・ひさと) 1983年大阪府生まれ。近畿大学演劇・芸能専攻卒業。劇評ブログ『 現在形の批評 』主宰。Wonderland 執筆メンバー。国際演劇評論家協会会員。
・Wonderland寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ha/fujiwara-hisato/

【上演記録】
七味まゆ味一人芝居 『いきなりベッドシーン』(柿喰う客企画公演)
in→dependent theatre 1st(12月1日)
【作・演出】
中屋敷法仁

【出演】
七味まゆ味

【スタッフ】
舞台監督:本郷剛史
舞台美術:玉置玲央+黒柿
音響:上野雅(SoundCube)
照明:富山貴之
宣伝美術:山下浩介
フライヤーデザイン:山下浩介
フライヤー写真撮影:内堀義之
現場助手:飯田裕幸
制作:赤羽ひろみ
OTHER MEMBER:コロ・深谷由利香・高木エルム・半澤敦史


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