青年団「冒険王」

「怠惰、退廃」から「真摯」へ 「世界旅行」の変容と批評性の喪失
西川泰功(学生)

「冒険王」公演チラシ2008年12月7日18時開演の青年団『冒険王』を観劇した。劇場で配布されたパンフレットに作、演出の平田オリザ氏はこう書いている。

「96年の時点で描いた70年代末の若者像は、たしかに怠惰、退廃を描写したのだ。それが12年後のいま、真摯な若者たちに見えるということはどういうことだろう。」

私は『冒険王』初見である。が、観劇するうち私のなかに湧いた思いは、この作家の問いはアクチュアルな力をもったものだ、ということだった。そのことについて書きたい。

イスタンブールの安宿の一室にとどまる日本人の若者。彼ら、彼女らは世界各地をバックパックひとつで転々としている。いつかは日本に戻り「普通の」生活に戻らなくてはならない、と意識しながらも、その日を先送りにし、「冒険」を続けている。

96年の初演でこの若者らが怠惰や退廃の描写として舞台上に現れたのは、バックパッカーという一見リスクを背負ったような若者が、それでいて、あるいはそうであるが故に、目的意識をもたないまま、旅という移動態に埋没してゆく、その繊細な再現が批評性をもった視点を提供したからだろう。その視点を観客が受け取るためには共有されていた前提があったはずだ。すぐに思いつくその前提は、単身で世界を旅することがいかにも若者らしい野心に溢れた行動だ、という見方である。この見方が前提にあったからこそ、イスタンブールの一室でしきりに紅茶を飲む(まるで茶の間でテレビを見ながら緑茶を飲むような)若者らの再現が批評性をもったのだろう。

では、この前提がすでに共有されていない、と考えれば、とりあえず、作家の問いを解体する手掛かりになりそうだ。単身で世界を旅する若者が野心家である、とは言えないということが、現在、共有されているだろうか。

「冒険王」公演から
【写真は「冒険王」公演から。撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

なるほど世界旅行は身近になった。社団法人日本旅行業協会の統計調査では、1990年の日本人出国者数は1099万人、それ以前は1000万人代にとどいていなかった。舞台設定である70年代末を見てみると、75年は246万人、77年は315万人、79年は403万人。この時点から約10年で1990年、1000万人代へ到達。さらに10年で2000年、過去最高の1781万人。つまり70年代末から2000年にかけて爆発的に増加しているのだ。しかも旅行総費用は減少傾向にあるから、安上がりの日本人海外旅行者が増加している、といえる。それに比べれば、00年代は、伸び率において、停滞している。00年が過去最高記録である。その後9.11テロやSARSやイラク戦争の影響で減少し、05年以降再び増加するが、1750万人前後に落ち着いている(注1)。

現在でもほとんど身ひとつで世界を旅する危険がなくなったわけでは決してない。決してないが、海外旅行が誰にでも現実的な楽しみになった、とは言える。こうした状況がほとんど身ひとつで世界を旅することの冒険性への想像力を欠如させている、と考えることができる。96年の時点で、単身世界旅行は威勢の良い若者らしい野心に満ちた行動だ、という前提があったとすれば、現在、この前提は解消し、代わりに、海外旅行は誰にでも開かれた楽しみだ、という前提が共有されている。その認識が、身ひとつで世界を旅することの冒険性を隠蔽しているのではないか。そうであるなら、この作品の批評性を支えたはずのアイロニカルな視点の基盤が崩壊しているということになる。身ひとつで世界を旅することが冒険でも何でもない、余暇の楽しみにすぎない、という認識のもとでは、目的意識がない、などということは当然だからだ。

だからこそ作家が言うように、ここに登場する若者は「真摯」に見える。なぜなら、繊細な演出によって、別れを惜しむ、表面的な親しみ以上の何かを拒否する、求められることに素直に従わない、といった心理の機微が移動態に慣れた旅人の苦悩として描かれているから。それはつまり、観光パックの旅行者には味わえないものだから。そのぶん、彼ら彼女らは「真摯」に見える。

旅を生活様式にまで押し進めた者にしか知り得ない苦悩、これを率直に描き出したように見えるのは、96年から08年の間にひとつのアイロニーが消えたことを意味する。それは苦悩を目に見える形にしたという意味で、確かに他人の欲求を理解するという作業を成功させたことでもあるのだが、このアイロニーの喪失を私は、あぶない、と感じた。それについて書こう。

96年のアイロニーを支えていたはずの前提、バックパッカーの冒険性、これが消失したことは何を意味するのか。背景として海外旅行の普及を指摘した。海外旅行の普及は文化の多彩さに心惹かれている者が多いことを意味するように考えられるかもしれないが、そしてそれは事実そうなのかもしれないが、むしろ私は次のように考えることで今回の『冒険王』の射程を広げたい。そんなに気軽に見物として海外へ行くことができるのはなぜか。それは文化的差異に鈍感だからではないか。異なる文化への敬意などないからこそ、のこのこ見物に出かけることができるのではないか。文化的差異を観光という食い物にできるのではないか。

文化的差異に鈍感であること。これが96年から08年にかけて日本に浸透したのなら、いよいよ気味の悪い事態になった、と言わなければならない。というのは、国内においては危機意識がますます高まっているように思われるからだ。思い出してほしい、私たち日本人は住宅街に監視カメラを設置する国民だということを(注2)。また、次の事件も過剰な危機意識をよく表している。08年12月5日大阪府松原市内を走っていた近鉄南大阪線の特急電車内で白い粉のようなものが発見された。電車はまもなく大阪阿倍野橋駅に到着。消防車28台とヘリコプター1機が出動し、ホームは騒然となったが、白い粉の正体はなんと靴底の素材だったという(注3)。靴底の素材に消防車28台…。文化的差異に鈍感になる一方、より身近な環境に対しては鋭敏すぎるほど危機を感じ取る。

これはどうにも変だ。街の異物を排除したいという欲求が強まると同時に、異物の最たるものであるはずの異文化はなんら齟齬なく受容できるかのような観光主義がはびこっている。異物の過剰な排除と異文化の観光的受容。異物を排除したいという強い欲求がどうして異文化を齟齬なく受容できるだろうか。できるはずがない、と私は思う。異物であれ異文化であれ、異質性は価値観を揺さぶる効果をもつ、と考えることができる。価値観がゆさぶられることには、両者とも、変わりないはずなのに、それでいて、一方は過敏に排除され、もう一方は鈍感に受け入れられる。靴底の素材に騒然とする類いの、街の異物を排除する潔癖の者らが、観光という名でラッピングされた異物(異文化)には涎を垂らす。これを私は矛盾だと思うのだが、この矛盾というか観光主義的まやかしが浸透しているからこそ、舞台上の若者らが「真摯」に見えるのだ。

そして、あぶない、のは、このポジティヴにつくりかえられた『冒険王』を素直に受けとめてしまうことだ。舞台の上の冒険王たちが「冒険王」ではなく、「 」抜きの冒険王になったこと。観光主義とは別の、苦しみをともなう旅を選ぶ(とはいえあくまで目的意識の希薄な)若者に希望さえ感じてしまうこと。その希望は、やはり、時代にのまれた者の希望だろう。私たちの前提的認識が変わってしまったのだ。それに気づかなければ08年の『冒険王』の批評性は見えない。

感触を言葉にすることが許されればこう言いたい。時代というグロテスクな生き物が大きな体をムズリと動かしたのだ。そのムズリの感触は、例えば、次の男の行動を、よしとするか悪しとするか、よしとしてきたか悪しとしてきたかで、確かめることができるだろう。新入りのバックパッカーに「自分も金子光晴が好きだ」と同類感情を示された男。男は、同類感情という保守的な心情(それは旅の移動態にすっかり慣れた体には馴染まないものだ)に、敏感に反応し、30分と経たぬ間にイスタンブールを出てゆくことを決める。この男の身の軽さを、よしとするか悪しとするか、よしとしてきたか悪しとしてきたか。その判断規準ががらりと変わってしまったという人も少なからずいるだろう。そういう「あなた」は、時代のムズリを、私とともに、共有している。
(初出:マガジン・ワンダーランド第120号、2008年12月31日発行。購読は登録ページから)

(注1) 社団法人日本旅行業協会Webサイト上の保存版 旅行統計2008参照。
(注2) 2008年6月25日の産経ニュースweb記事によると、法学者らのグループが警視庁成城署長、八王子署長らに監視カメラのリース事業中止とカメラ撤去を要請した。両警察署の管内では計約1000台の監視カメラが設置されているらしい。
(注3)スポニチwebニュース()参照。また朝日新聞webニュース(2008年12月5日付)も参照。

【筆者略歴】
西川泰功(にしかわやすのり)
1986年山口県生まれ。2009年1月現在、大学4年。特筆すべきことは、ほかに、なにも、ない、ので、モットーでも言っておけば、そう簡単に、人は、人を、ゆるせるものではない。私なんぞ、先日、半額だった最後の卵パックを、私より少し先に、手に取った、初老のおばさまを、憎んでいる。

【上演記録】
青年団第57回公演『冒険王
こまばアゴラ劇場(2008年11月15日-12月8日)

作・演出:平田オリザ
出演:永井秀樹 秋山建一 小林智 能島瑞穂 大塚洋 申瑞季 古舘寛治 石橋亜希子 大竹直 熊谷祐子 山本雅幸 二反田幸平 佐藤誠 海津忠 木引優子 近藤強 桜町元 鄭亜美

スタッフ
舞台美術:杉山至
照明:岩城保
衣裳:有賀千鶴
宣伝美術:工藤規雄+村上和子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:野村政之

チケット料金【日時指定・全席自由席・整理番号付】前売・予約・当日共
一般3,500円 学生・シニア(65歳以上)2,500円 高校生以下1,500円
※芸術地域通貨ARTSでも可(ARTSとは、桜美林大学内の演劇施設で施行されている、地域通貨。1ARTS=1円で使用できる)

日替わり解説(終演後)
出演:青年団演出部
15日(土)18:00:多田淳之介(聞き手:山村崇子 石橋亜希子)
16日(日)18:00:工藤千夏(聞き手:近藤強)
18日(火)19:30:岩井秀人(聞き手:古舘寛治 野村政之)
19日(水)19:30:吉田小夏(聞き手:足立誠)
20日(木)19:30:松井周(聞き手:古屋隆太 野村政之)

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
協力:(株)アレス (有)あるく みさと公園管理事務局
平成20年度文化庁芸術拠点形成事業

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