三条会「近代能楽集」(全作品連続上演シリーズ)

◎変化する字体やレイアウト 三島戯曲と新潮文庫と三条会
杵渕里果(生保業務)

新潮文庫「近代能楽集」(新版)三島由紀夫の『近代能楽集』をみに、二〇〇八年は千葉に四度通った。全八作品を二ヶ月おきに二本づつの上演で、演目の順序は執筆年順。新潮文庫『近代能楽集』の順番と同じ、といえばわかりよいだろう。
千葉駅からパルコへ、さらに左へ曲がってしばらく歩くと、教会の二階に三条会のアトリエがある。駅から一七分ばかりかかる。

いま復習がてら、新潮文庫を開いてみた。すると舞台の印象とだいぶ違っているのにビックリした。
ト書きが文語調だからだろうか。
「ひろいたる吸殻をかぞえている」
といった按配である。古本で買った文庫で黄ばんでいるのもあるが、ともかく三島のテキストが、古びてほこりの積もった活字にみえてくる。三条会の上演は、三島由紀夫の旧式な文字列を、上品な細ゴシックや丸みを帯びたナールに変えて発音してくれた印象なのだ。台詞は原作に忠実、なのになにかしら、字体やレイアウトが変化した印象なのだ。

新潮文庫「近代能楽集」(旧版)それにしても、新潮文庫の三島由紀夫の装幀は変わっている。オレンジ色の題字。題字よりやや大ぶりの「三島由紀夫」というグレーの作家名。どの文字も五百円玉を上に置いてはみ出すサイズの明朝体である。
しだいに、白の地色にオレンジと灰色という配色が、褪せた日章旗の色合いにみえてくる。このレイアウトで三島由紀夫の、たしか初期から晩年まで同一な装幀だった。とすると、各書籍が部隊、明朝体の文字は壮健な兵隊たち、といった発想なのかしら。

さっそく書店で新潮文庫を見物にいくと、三島全四十作中、オレンジの題字のものは三分の一程度しかなかった。『近代能楽集』も、わたしの古本はオレンジの題字で平成十二年四十刷だが、いま刊行中のは能の揚幕の縞模様に意匠を変えてしまっていた。奥付をみると五年ほど前に装幀の変更があったようだ。

しかし、同じ『近代能楽集』とはいえ、揚幕の表紙とオレンジの題字のとでは違った感想をもたらしそうだ。もっとわかりよい例は『金閣寺』だろう。これは夜の火事の絵に表紙を変えた。本を置くたび黒い夜空に焔がのぼる絵を見るのと、白地にオレンジ色の題字を目に読み進むのとでは、前者のほうが青年の内面に、後者は戦後日本という大きな視野に、読書のニュアンスが変わるように思える。
新潮文庫「金閣寺」(新版)

要するに、このオレンジ色の文庫装幀は、三島の作品を必要以上に「憂国」や「日本」といったものに結ぶように、いわば「動員」するようにみえる。題字も巨大で本を伏せて置くのがちょっと恥ずかしい。でもこれをデザインした新潮装幀室は、そうは考えなかったと思う。三島を読む読者共同体、というか、日章旗のような表紙の本に哀切を感じる「日本国民」に、サービス、いや「奉仕」すべく、この表紙をかんがえたのだと思う。
たかだか装幀、とはいえ文庫本というのは文壇論壇で三島特集があってもなくても、毎日毎年、全国の書店に置かれている。三島由紀夫の解釈に、まったく影響しないわけではあるまい。

新潮文庫「金閣寺」(旧版)三島の新潮文庫、オレンジ題字のこの装幀に、十五年ほど前、演劇でこんな記憶がある。
『近代能楽集』。川村毅のエロチカだった。
芝居のおしまい、キャスト全員がこのオレンジ題字の新潮文庫を読みながら、二宮金次郎よろしく舞台をぐるぐるまわったのだ。車椅子でまわっていた気もするから「弱法師」だったか。『金閣寺』や『潮騒』も散見され、新潮文庫のカバーをはずせよ、と思ったものだ。
エロチカもけれんみたっぷりの芝居をみせたがるが、新潮文庫のけれんみが勝っていた。髪を白く染めた俳優が文庫本で読書する幕切れなんてけれんみもへったくれもない。「三島を読むのはファッションです」といった新潮の提案に、川村はまんまと乗せられたようだ。
でも、エロチカに限らず、三島由紀夫を前にした演劇人というのは、まさに新潮装幀室がやった「演出」、つまり、日章旗の色と明朝体といった官僚的な日本美の巨大化を目標にして、観客もまたそうした美意識の具現化を期待して、絢爛で俗悪になっていくような印象がある。

今秋、新国立で『近代能楽集』の二本立てがあった。
前田司郎演出『綾の鼓』。前田、投げた。
十朱幸代が「鼓を鳴らしてごらん」というたび、前田が、「鳴らない」、と嘆き続けたので、十朱が主演と演出を一手に引き受けたといった印象のスター芝居。
深津篤史演出『弱法師』。
これは床一面に、赤黄青、原色のカラーパネルを、モザイク状に敷き詰めていたので、役者が動くまえから目がちらちらして困った。俊徳の弱視を示したのだろうが、年配の十朱や多岐川裕美に演出をつけねばならない演出家のパニックな心境の暗示に思えた。
新国立に、前田司郎五反田団アトリエ公演の折込チラシがあった。
「前田です。最近、国からお金をもらって作る演劇が続き、常に『ここは俺の居場所ではない』と感じながらやってきましたもので、やっと俺の居場所的なところに戻ってきて作る今回の作品は徹底的に好きに作ってみたいと思っています」
折込にこれ。新国立もなめられたものだ。でも同情してしまう。
三、四十代の無手勝流の若手演出家に、大女優をさしだして、国民的作家三島由紀夫を、新国立でやれ、というのは、やくざの親分から「楽しんでおいで」と大事なご子息をお預かりするようなものだ。窮屈だとおもう。

ところが三条会。
「国民的作家三島」を扱いつつ、なお前田のいう「俺の居場所」を実現させる稀有な劇団に思える。
今年の、たとえば『邯鄲』は夫に捨てられた菊ばあやに因んで、中島みゆきをBGMにもってきた。『卒塔婆小町』や『弱法師』では、公園のカップルや両親に、カエルやきりんのぬいぐるみを手で動かしてアフレコした。
といっても「脱力系」といった表現も似合わない。台詞の声量は大きく発音にメリハリもあり、いわば「明朝体」的な美意識も残ってみえるのだ。
主要俳優の五人を、いま敢えて字体になぞらええるなら、大川潤子と立崎真紀子は、中細明朝の大と小、縦書き。坊主頭の巨魁・榊原毅は太楷書体の縦組み。細面の橋口久男は細ゴシック、顔のひしゃげた中村岳人は、ナール時々ひげ文字で、この二人は横組み、といったところか。
いわば、三島戯曲のファンが、青空文庫でテキストを落として、おもしろはんぶんにマックで装幀をはじめたかんじである。三島戯曲だというのに、オバQや飯島愛が表紙にしてあって、めくると漫画の噴出しに変換された台詞が目に飛び込んでくる。とおもうと、突然グラビアページがあったりして、いわゆる「戯曲」や「文学」の書物にみえない。なのに、あのしごく俗な観念をまっとうして死んだ三島と、どこかしらバッティングする肌触りがある。一方、ほかの三島ファンの戯曲の装本はというと、どうも新潮社の二番煎じで、しかもレタリングも下手、買う気になれないね、といったぐあい。
そんな比喩をするうちに、三条会というのは、三島・新潮という堅牢なマーケットの下部に蠢く異端市場、あやしい同人誌的感性の魅力に思えてきた。「国民的作家」という輝かしい三島マーケットへの、感覚的な拒絶感や風刺が感ぜられて小気味よいのかもしれない。
ともかく三条会が活動をはじめたのは97年。とすれば、新潮文庫のあの装幀、あるいはあの装幀を許した文芸マーケットの気分と、まったく関係なくは、ないとおもう。

最後に、備忘録として、三条会の本年『近代能楽集』の、だいたいの演出をメモしておく。
◆五月は、「邯鄲」と「綾の鼓」だった。「邯鄲」は、夫に捨てられた菊ばあやと夢の中の美女を、同じ女優が演じた。中島みゆきが何曲も流れ、マイクを持って口パクしていた。『地上の星』も歌うので、会社人間で事実上離婚状態の夫に疲れた妻に、息子が引きこもりに戻ってきたかんじ。マザコンな解釈。「綾の鼓」は、これと別の日の公演で、時間がとれず未見。
◆六月は「卒塔婆小町」と「葵上」。
「卒塔婆小町」はビデオカメラが活躍した。公園の恋人たちは蛙のぬいぐるみで、これを役者が動かしながら撮影する。撮影が終わると逆回しで映写される。卒塔婆小町の時間遡行という神秘的な現象も、逆回し映像があると妙にリアルに感ぜられてくる。また蛙のぬいぐるみというばかばかしさが、美・醜、老・若をめぐる詩人と小町のこだわりもあほらしい軽さへ転換する。
「葵上」では、携帯と多機能電話機が使われた。光は、携帯電話で六条宅に架けて在宅を確かめるのだが、応える六条の声は機械を通した声。六条は生霊ではなく、留守録でアリバイ工作をしたのかもしれない。
◆十月は「班女」「道成寺」の合体上演。「班女」の花子、「道成寺」の清子が同じ女優が演ずる。「班女」が一場進むと「道成寺」に切り替わり、また「班女」と、たがいちがいに進行する。花子は待ち焦がれた恋人の顔がわからない。清子は自分の顔に硫酸をかけようとし、なにも変わらないと悟って止す。花子と清子は、ひとつの顔の、有意味と無意味、両極を経験する。たしかに二人は同じ女性かもしれない。
◆十一月の「熊野」と「弱法師」
「熊野」は、ユヤと親友の朝子が、しょっちゅう一メートルほどの舞台から飛び降りながら演じる。さっさと恋人に会いに行きたい詐病の内面が可視化されて楽しかった。
「弱法師」は、演出の関美能留が俊徳役。二組の両親と級子は、蛙や熊やきりんのぬいぐるみ。二組の両親を操る俊徳は、たしかに「演出家」的だし、俊徳にとって両親は意のままのぬいぐるみだろう。でも家裁の級子は、ぬいぐるみ以上のもう一ひねりがほしかった。
そのため、今回いちばんガッカリした公演が「弱法師」。よかったと思うのは「卒塔婆小町」と、「班女」「道成寺」合作上演。

おまけ◆十二月、「卒塔婆小町」「弱法師」が、再演として各一公演づつあったが、未見。「再演」とはいえ、さらに演出がまったく変わっていたときく。

【略歴】
杵渕里香(きねぶち・りか)
1974年東京生まれ。演劇交友フリーぺーパー『テオロス』より、演劇批評を書き始める。『シアターアーツ』にもときどき投稿。保険営業。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kinefuchi-rika/

【上演記録】
三条会のアトリエ公演『近代能楽集』全作品連続上演シリーズ
三条会アトリエ(千葉市)

「邯鄲」「綾の鼓」2008年4月19日-25日
「卒塔婆小町」「葵上」2008年5月24日-30日
「班女」「道成寺」2008年10月25日-31日
「熊野「弱法師」2008年11月22日-28日
アンコール公演「卒塔婆小町」「弱法師」2008年12月20日-21日

作:三島由紀夫
演出:関美能留
出演:大川潤子、榊原毅、立崎真紀子、橋口久男、中村岳人、渡部友一郎、関美能留

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