岡崎藝術座「リズム三兄妹」

「身体が作る存在の演劇」への挑戦 音楽による圧倒的な身体のリアリティ
小林重幸(放送エンジニア)

「リズム三兄妹」公演チラシ三場構成であるこの芝居の様相が大きく変容してくるのは二場の後半。およそテキストで物語を紡ぐ演劇とは言い難く、さりとてダンスと言い切るにも無理のある特異な状況が舞台上に溢れてくる。三場に入るとそれはさらに先鋭性を帯び、感覚だけで舞台上の世界が支えられているかのようであった。それは何であったのか、順を追って考えてみたい。

本作品は、一人の役者が登場し、ステージ中央で次のセリフを発するところからスタートする。「俳優の坂田です。今からソファの演技させていただきます」。この、自らが行う演技の内容を先に宣言するメタ的な手法自体は必ずしも初めて見るものではなく、驚くには至らない。が、その役者がそのまま「空気いす」のような体勢を取って本当に「ソファー」になるに至り、この舞台で『いわゆる演劇』が行われるのではないことを観客は悟らずにはいられない。この冒頭シーンは観客を身構えさせるに充分なインパクトがある。

このシーンから始まる一場は、女性二人が暮らす部屋の様子。二人がどういう関係なのか結局最後まで説明されない。それどころか、二人の関係性が何らかの前提となっているらしい芝居なのに圧倒的に無言だ。会話をしない。それぞれが便所に入ったり、シャワーを浴びたり、二人でソファー(冒頭の「役者」が演じている、ソファーである。)にもたれてテレビを観たりと、そんな様子がほとんど所作だけで演じられる。確かにその様子から、二人がなんとなくしっくりいっていない感じは伝わってくる。が、なにせ二人の具体的な関係も、そこに至る背景も全く不明なのである。しかも、舞台中央では役者が空気いすの体勢でソファーを演じ続けている。無茶な姿勢で延々とそこにいるわけであり、ソファ役の役者にとっては物語世界とは別の「現実」として、艱難辛苦の苦行状態である。

たしかに、便所の描写や、シャワーの描写などは、日常の動作をデフォルメした一種のマイムとなっており、それ自体としては面白い。が、二人の間に流れる微妙な空気をどう受け取ったらいいのか考える術も無く、そのなかで便所やシャワーがどんな文脈として配置されているのか極めて分かりづらい。しかも、舞台中央ではメタな存在としての「役者」が、ソファーを決死の形相で演じ続けている。それが演劇空間にどれほど「ノイズ」を与えるか想像に難く無いだろう。その役者が発する強烈なバックグラウンド・ノイズの中、女性二人のほぼ無言劇という微妙で繊細な演劇が展開され、しかもその文脈が分からないという状況は、もはやどう理解したらいいのか取り付く島も無い舞台のように見えてくる。観客にとっては、つまらないということではなく、目の前の状況をどうにも消化できず置いてきぼりにされている、とでも表現するしかない時間が流れるのであった。

続く二場になっても混迷を深めていく。国民的歌手という設定の巣恋歌(すごい・うた)なる人物が登場し、心情を歌に込めて披露する。もう、ある種のミュージカルである。先ほどまでの無言劇とは相当に違う表現スタイルに観る側は振り回されっぱなしである。

とはいえ、二場のストーリーは明快である。セリフから物語の内容を知ることが出来るし、先ほどソファーを演じていた役者も、その役者に恋い焦がれる女性の登場でストーリーに回収され、展開自体は形式的には理解可能である。ここまでなら、面白いかどうかは別にして、何か演劇手法の「闇なべ」とでも言うような、とにかく舞台表現手法を有らん限り試してみました、ということだったのかな、という理解で終わっていただろう。

「リズム三兄妹」公演から
「リズム三兄妹」公演から

「リズム三兄妹」公演から
【写真は「リズム三兄妹」公演から。撮影=富貴塚悠太 提供=岡崎藝術座 禁無断転載】

しかし、冒頭で述べたように、二場途中から演劇としての様相が急カーブを切ったのだ。タイトルでもある「リズム三兄妹」の兄と妹の会話がBGMにノッてラップになってしまう箇所が出てくる。すでにミュージカル的になっているわけだからセリフがラップのライム(歌詞)になってしまっても形式的には不思議ではない。が、ラップ(ライム)でなくては語れない、となると話は別だ。

ラップでセリフを語る前、兄と妹は、BGMのリズムに完全にノッた状態となっている。ちょうど、電車の中でiPodの音楽をイヤホンで聴きながら、ノリノリになってしまっている人のようだ。一人でノリノリなら、他の人と会話をする場合には素に戻って普通の言葉でしゃべるだろう。だが、二人とも同じリズムに完全にノッていて、そのリズムで同調しているのである。普通の言葉のリズムより、ラップの言葉のリズムの方がコミュニケーションとして自然ではないか。少なくとも、このシーンではそのように見える。さらに言えば、ラップっぽい動きも、ラップっぽい口調も、自然発生的かつ必然にすら見えたのだ。

舞台上で会話をしている二人がなぜ音楽にノリノリの状態なのかと言うと、それは、その二人が「リズム三兄妹」の兄と妹だからであり、「リズムにノッている」というのが、この物語において、その登場人物の存在意義そのものであるからである。この作品の物語世界を肯定するならば、この二場中盤でラップ調のBGMが流れている状況において、そのリズムに「ノリノリである」ということ以外に、兄と妹という二人の登場人物が自然に存在する術は無いのである。

その状況において「会話」というものもまた自然に成立させようとした場合、確かに、歌でテキストを語るくらいしか方法として思い当たるものがないかもしれない。そのくらい自然かつ必然的に会話はラップへと移行した。同時に所作も「ラップ的」なものとなる。本来、およそ自然ではない動きなのだが、ここでは彼らの存在意義をかけた動きですらあり、それゆえ、そういう動き以外にはあり得ないと思うほど自然な動きに見えた。ある種の「ダンス」的な動きが自然かつ必然に見えるのは感動的ですらあり、それが唐突に現れたことに本当に驚いたのであった。

さらに、観客の視点で考えると、観客はそこで流れているBGMにノルことができれば、この作品におけるそれまでの演劇世界にリアリティを感じていたかどうかはともかく、音楽を媒介として、自分と舞台上でノリノリになっている登場人物二人をリンクすることで、舞台上の登場人物にリアリティを感じることができたはずである。そうすれば、少なくともこの二人の存在にはリアリティがあり、その二人が存在する物語世界にも何がしかのリアリティがある、と感じることができる構造となっていたと考えられるのである。

この点は極めて重要である。一場での所作により構築された物語世界や、続く二場のテキストにより構築された物語世界に説得力を感じなかったとしても、それとは独立した回路で、音楽を媒介とした登場人物の存在のリアリティから物語世界の成立を確信することができる仕組みになっているのである。実際、私自身は、ここに至るまでにテキスト中心で組み上げてきたこの作品の物語世界に対するイメージをここで一旦全てリセットし、「音楽にノッている自分」という基準からこの物語世界(というより、この登場人物から見た、この物語世界のリアリティ)というものに再度触れ直し、そこに強烈な説得力を感じ直したのであった。つまり、普通の意味でおよそ「リアル」では無い設定のこの登場人物について、そしてやはり「リアル」とはいえない物語世界について、その存在に説得力があると感じたのであった。

この音楽を媒介としたリアリティは続く三場で精鋭化する。三場は、冒頭で登場した役者までもが「リズムにノッた」状態でセリフを語った後、リズム三兄妹の妹がコンテンポラリーダンスのような動きをしながら膨大な独白を語ることに費やされる。ダンスのような動きであるからそこでは音楽が流されるわけであるが、これが極めてノリ易いビートの効いた曲なのである。しかも、BGMと言い難いほど音量も大きい。せりふに音楽がかぶって聞き取りにくい程の大音量である。

ここに至り、もはや明示的と言って良いほど、この作品が提示する物語世界は、テキストを媒介として観客にリアリティを感じてもらうのではなく、音楽を媒介とした身体の存在でリアリティを感じさせようというものであるということが示されるのだ。登場人物である妹が二回に分けて語った独白は、後に台本で確認したところ、一回目が約2500文字分、二回目が約1100文字分もあり、合計で原稿用紙9枚分にも及ぶ。この膨大なテキストを歌やラップではなく、日常会話をデフォルメしたような口調で、ただし、リズムにノッたダンスの身体で発するのである。

しかしながら、それを聞いている観客は、大音量で流れる音楽にノリノリである。私自身は無意識に体でリズムを刻んでしまうほど音楽のビートにはまってしまっていた。その状態で、役者から、踊る身体と、語るテキストを受け取った場合、どちらにリアリティを感じるかといったら、圧倒的に身体のリアリティに軍配が上がった。観客である自分が刻むビートと舞台上の役者のビートが同調しているのは快感であり、リアルである。膨大なテキストはそのビートの一部分になってしまった。そのテキストの内容が言語的思考を経由して間接的に立ち上げる物語世界のリアルは、音楽を媒介として伝播する、あるいは、音楽と共に同期している身体のリアルに完全に圧倒されてしまった。

テキスト自体は、それまでの物語世界をまとめて再認識させる内容である。膨大なテキストの独白により物語世界を立ち上げる手法そのものは、チェルフィッチュで岡田利規氏が用いてきた手法に近い。チェルフィッチュにおける手法は、テキストが立ち上げる物語世界が厳然と存在する中に、リアルな身体がまた存在するという構造を基本としていると言えよう。しかし、この作品はテキストから立ち上がる世界と身体のリアルから立ち上がる世界が拮抗し、三場において大バトルを展開した上で身体のリアルが勝ってしまう、という構造になっているとしか説明しようがない。

つまり、この作品のたどり着いた先は、テキストが紡ぐ物語世界がもたらすリアリティと、音楽(あるいは「リズム」)を媒介として舞台上の身体の存在が誇示するリアリティをあえてぶつけ合い、そこで対決させるかのような構造である。物語世界と身体の融合というのはよく見かける試みだが、それらを全面対決させたというのは特徴的である。しかも、テキストの扱い方も、音楽と身体の扱い方も、舞台表現としては現代最先端の手法を採用したと言って良く、その手際も鮮やかであった。さらに、三場の長大なモノローグは「対決」として見れば圧倒的な高揚感があり、その後の短いラストシーン(モノローグを語る「妹」の友人が「俳優」に歌で告白する。)を経て芝居が終わったときのカタルシスも「面白い芝居だ」と爽快に感じるに充分なものであった。

この芝居の大きな要素は、音楽(リズム)を媒介として役者の身体と同調できるか、という点にある。まぁ、そう難しく考えなくても、観客をノリノリにすべくダンサブルな音楽を大音響で流すわけだから、観客としても体を動かして「踊りたく」なるわけである。であれば、狭い客席ではなく、クラブのような観客も踊ることができる環境で観てみたいと強く感じた。それは、単純に「観客も踊りたい」という欲望に応えるだけでは無いように思う。役者と観客の身体がより「リアル」にシンクロする環境において、この芝居の一場のような、テキストを排し身体の所作のみで関係性を構築するような芝居が、より説得力のある鮮明なものになるのかという壮大ともいえる試みにつながるものになるのではないかとすら思うのである。

この舞台は、身体が作る存在の演劇、さらに、身体による関係の表現に大きく斬り込む極めて先鋭的で挑戦的な作品で、非常に面白く刺激的であった。もちろん、本作品でその試みが全て完了したわけではない。むしろ、この視点から今後どんな演劇的境地が切り開かれていくのか全く未知数である。そういう荒野にあえて分け入ったフロンティアスピリッツこそ、この作品の魅力だと感じるのである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第121号、2009年1月7日発行。購読(無料)は登録ページから)

【筆者略歴】
小林重幸(こばやし・しげゆき)
1966年埼玉県生まれ。早稲田大学理工学部電気工学科卒。東京メトロポリタンテレビジョン(TokyoMX)技術部勤務。デジタル放送設備開発の傍ら、年間200ステージ近い舞台へ足を運ぶ観劇人。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kobayashi-shigeyuki/

【上演記録】
岡崎藝術座「リズム三兄妹」(朝公演「はやねはやおき朝ご飯」)
こまばアゴラ劇場(2008年10月30日-11月10日)

[作・演出]神里雄大
[出演]白神美央、内田慈、億土点(Power Doll Engine)、鷲尾英彰、坂倉奈津子、召田実子、西田夏奈子
[照明]高橋かおり
[制作]elegirl label
[助手]鈴木啓史
[表紙画]新宅睦仁『宿河原在住男性』

[企画制作]岡崎藝術座/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[主催](有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
[協力]Y.e.P / 吉住モータース / Power Doll Engine
[初演]2008年10月~11月 こまばアゴラ劇場
[上演時間]83分
[写真撮影]富貴塚悠太
[チケット料金]〔全席自由・日時指定〕前売2,000円 当日2,500円 朝公演セット券3,500円 (朝公演はセット券のみ販売)


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