河村美雪+伊東沙保+岸井大輔「play away」

◎複数的な創造プロセスを切り出すパフォーマンス
柳沢望

様々な舞台芸術を見続けてきて、良い舞台を見たときだけに生まれてくる、特有の感覚が私にはある。
それは、舞台の空間がしんと静まり返り、時間の感覚がどこまでも透明になって、意識の集中が空間全体に広がるような、そんな感覚だ。いつだって、その感覚を探して、舞台を追いかけてきた。
『play away』の上演中、まさに、その感覚に包まれた。そのゆえんを探ってみたい。


『play away』とは「百軒のミセ」という企画の一環として提示された上演作品である。
「百軒のミセ」は、渋谷の百軒店商店街で平成21年3月14日(土)から22日(日)まで開催されたイベントだ。「第4回ひゃっけんだな祭り」の一環として開催された(注1)。
百軒店商店街はラブホテルに囲まれ風俗店もあたりに点在する所だが、そもそもは関東大震災を受けて、後の西武グループにつながる企業が被災した下町から当時の有名店を誘致し、商店街として開発した。今の渋谷の原点となるような場だ。名曲喫茶ライオンをはじめとして、こぢんまりとした飲食店などの老舗が集まっている。
「百軒のミセ」では、路上で行われるパフォーマンスからトークショーまで様々な催しが開かれた。百軒店という街の中で次々に平行して展開されるそれらの様子の全体が、ひとつの作品として提示されたのだ。

この複合的なイベントを実施する上で、「インフォメーションセンター」という場所がつくられた。地図を片手に示された場所に向かうと、道路に面して飲食店が並ぶ横に長いビルの、風俗店に隣接するスペースがそのインフォメーションセンターだった。『play away』はこのインフォメーションセンターで上演されたのだ。
もともとあった店が退去し、内装がはがされ、その痕跡がむき出しのコンクリートの壁に残されたままの、ガレージのような空間が広がっていて、街路にぱっくりと全体をさらしている。道路に面した「第四の壁」は取り払われてしまっている。その開口部の両端にひゃっけんだな祭りののぼりが何枚か立てられていて、手前の手書きの立て看板が「インフォメーションセンター」と告げていた。

ある種異様な空間がそこにあった。夕方とはいえ電気もついていない暗がりに、10人ほどの人がたむろしているらしい。奥には赤いカーペットが敷かれていて、その手前には角材を組み合わせただけの、ドアの枠のようなものが立っている。片隅には4人掛け程度のテーブルや椅子などがあり、石油ストーブがあり、カーペットの周囲に雑然と物が置かれているさまは、片付けられていない部屋のようだ。
電灯の類がついていなかったのは、たまたまブレーカーが落ちて停電になっていたのだと後から聞いたけれど、たとえ明かりがついていても異様さを感じたに違いない。まるで、文化祭の最中の演劇部の部室か楽屋裏にでも迷い込んだようで、周囲の町並みとは異質で法外な場所が突然に開けている。

『play away』 の上演コンセプトと上演スケジュールを告げる上演案内を以下に引用しておこう。

パフォーマンス『play away』
アウェイで遊びたい。ホームだとうまくいきやすいけど退屈だ。
マケ前提の賭けだから楽しいんじゃないか、と、現場を生かした作品を作り続けてきた3人(インタビューショーの河村美雪+流浪中俳優の伊東沙保+お散歩演劇の岸井大輔)が、アウェイで遊ぶ様をお見せします。

3月18日(水)17時より公開稽古 20時より21時本番

インフォーメーションセンター待ち合わせ
(以下に予想タイムテーブルを記載しますので、お好きな時間におこしください)

タイムテーブル(予想)

公開稽古:無料
17時ー18時 各人に対し、もう2人が一緒になって遊びにくいawayな状況を提示する
18時ー19時 提示された状況で遊ぶ計画をたててやってみる。

公演:1000円
20時ー21時 それぞれがplay awayする、三つの作品を、ひとつの作品にして上演

私が会場についたのは午後6時前。既に公開稽古は後半に入りかけたところだ。公開とは言え、回りにいる人々は稽古を注視しているわけでもなく、思い思いに雑談をしたり、お菓子を食べたりしながら、稽古の様子を時折見てみたりするという感じだった。稽古というのも、出演する3人が、半ば世間話のようなノリで打ち合わせをしながら、折々試演をしてみるという風情だ。
本番前に公開稽古を通して見ていたのは多くが「百軒のミセ」出演者で10名ほど、本番を見たのは20名ほど。

公開稽古が進む間、会場のインフォメーションセンターは路面に開け放たれたままで、関係者や観客が自由に出入りしていたが、本番中はシャッターが下ろされ、閉じられた空間の中でほぼすべてが進行した。特に座席が設けられていたわけではなく、観客は部屋の真ん中あたりで繰り広げられる上演を、それぞれ思い思いの位置に座って、取り囲むようにしてみていた。

出演した三人のうち、伊東沙保は既に岸井大輔作品で何度か主演を果たしており、二人は演出家と俳優として共同作業を繰り返してきた関係だ。河村美雪と岸井大輔が共作するのは今回が初めてだが、アゴラ劇場の「サミット」に二人とも作品を出していて、お互いの作品を見て、通じ合うものがあると互いに感じていたということだ。もともと美術作家である河村美雪の作品は未見だが、インタビューを元にした独自のパフォーマンス作品を発表しているという。

公開稽古を通して決まった本番の概要は次のようなもの。
20分のパートを三つ続けて上演する60分即興の本番。
パート1では、河村が岸井に、舞台経験の無い人を舞台にあげて創作する上での悩みを相談する、そこに伊東が、二人の話を聞きながら、それを再現する演技を即興で行うというパフォーマンスを添える。
パート2では、岸井と伊東が「文(かきことば)」と呼ばれるスタイルの上演作品を稽古する。そこに、河村が言葉で介入する。
パート3では、作品として「インフォメーションセンター」のしつらえをした伊東に対して、その意図や創作上の課題を、美術作品の合評会のように、河村が問いかける、その光景を岸井が演出家として観客に案内してみせる。

全体の印象を一言でまとめれば、岸井大輔の創作法や演出法、伊東沙保の演技や創作について、河村美雪が美術家として意見や疑問をぶつけていく1時間で、その間に、創作をめぐる根本的な問いや、岸井大輔の方法についての本質的な質問が交わされていって、河村の問い、岸井の語り、伊東の演技のそれぞれが劇的な空間を織り上げていった、とでも言える。

私は部屋の奥からシャッターの方を向いて赤いカーペットにあぐらをかいて座ってみていたが、そのとき、斜め上から差す照明の黄色い光が飴色に舞台を染め上げていく感じが忘れがたく脳裏に刻まれている。これは、あれこれの世界的に著名なカンパニーの大掛かりな作品に感動したことに匹敵する経験だった。

『play away』の上演は、数時間の打ち合わせによって固まったシンプルなコンセプトと、いくつかの決め事、簡単な段取りだけで組み立てられた作品を展開してみせたもので、空間はただの空き店舗に素人が身の回りの範囲のものを持ち込んで仮設しただけのものだ。
それなのに、どうして潤沢な予算をもとに丁寧に作られた舞台に負けないほどの舞台感覚が実現されてしまっているのだろうか。

おそらく、舞台作品を手がけてきた三人が、それぞれに、舞台に立ち上げるべきものを曲げることなく素直に持ち寄り、互いのあり方を感受しながら舞台に立っていたからなのだろう。そこに生じていたコミュニケーションのあり方が、順当にクリエイティブであっただけで、結果としてそれぞれの要素が相乗効果をもたらし、この上演は限りなく成功したのだろう。
これだけのシンプルなことが、しかし、舞台の上で実現されるのは極めて稀なのだ。

さて、舞台上で交わされた言葉や繰り広げられた出来事のうち、印象に残ったいくつかの事柄について取り上げ、上演のディテールにすこし触れながら、この作品についてもう少し考えておきたい。

パート1で面白かったのが、「百軒のミセ」を実現する上で岸井が出演者にプレゼンしてまわったという話を聞きながら伊東が行ったパフォーマンスに対して、河村が「それは何をやっているの?」と問いかけた場面だ。
背中を少しかがめて、両腕を下げたまま何かを差し出すように前へと軽く差し出し、すっと両足を前に一歩運んだかと思うと、すかさず後ろに軽く飛び退くように下がる。一見、何の意図でなされているかわからないような、そんな動作を繰り返していたのを、河村が問いかけて中断させたのだ。

伊東沙保は、ずっと即興的なパントマイムかダンスか何かのように、あれこれの仕草を舞台の上で繰り広げていて、傍から見ると、岸井と河村の対話の内容とどうかみ合っているのかわからない。
それを中断させた河村が、「それはマイムなの?」と問いかけた。「マイムではなくて演技です。話を再現したいんです」と伊東。
河村は、説明が無ければ内容が分からないような「演技」をすることに何が賭けられているのかと問う。伊東は、誰が見てもそれとわかるような型通りの仕草を誇張して見せるようでは逆に伝わらないものをこそ、伝えたいのだ、といった返答をしていた。
演技を通じた再現ないし表現についての本質的な問いのやり取りは、何かひとつの結論を明快に示して見せたわけではないが、進行中の試みに対し注釈を求める行為自体が、無造作に舞台作品として投げ出されて舞台の要素となる。そのような問いが、作品の基調をなすように繰り返された。

パート2では、夏目漱石の夢十夜をテキストにして上演される岸井大輔の演出作品「文(かきことば)」(注2)の稽古が舞台に提示された。夢十夜の文章を声に出しながら、それぞれの言葉に対応してめまぐるしく変化する身振りが繰り広げられていく。断続する身振りそれぞれの演技の質を高めるために岸井は演技がなされる俳優の状態について問いかけを行い、指示を与えていく。
それは、俳優が演技にかける集中のあり方を変容させて演技を創造するための方法で、空間や身体を意識する仕方、志向の行方を丁寧に検証することで、身体をかけめぐる情報の流れにフィルターをかけて整えるような作業だと言ってみることもできる。

そこで、実際に行われた演技に伴う、外からは見えないはずの俳優の体勢感覚や、動作に伴うイメージの流れについて把握しようと、演出家は動作の質や兆候に注意を集中しながら、俳優に言葉を投げかける。
それは、たとえば「いま空間のどのあたりを意識している?どこに向かって動作しようとしている?」といった問いかけとしてなされ「体の中の注意の中心をもっと高い位置に上げてみよう」といった指示として俳優に与えられる。
こうした演出行為のそれぞれについて、河村はその意図や意味合いを確認しようとする。俳優と演出家の間で微細な感覚の相違について共有されている言葉を、共有していない者の立場から明らかにしようとする。

河村は、「私には見えない何かを岸井さんは見ているはずで、それが見えるようにしたい」と語っていた。20分の試行の間に、伊東と岸井の間で共有されている内的な身体と空間感覚のあり方についてのコミュニケーションのあり方が観客にも見えてくるようになったわけではなかった。だけれど、そのコミュニケーションが成り立っていることの不可解さを、たとえば「情報の流れにフィルターをかけて整える」というような比喩的な言い方で了解してしまう手前にどこまでも留まって、「何が見えているのかぜんぜんわからない」、「まずその『意識がどこにあるか』という言葉の意味がわからない」と、まるで懐疑論者のように問い詰めていく河村の問いかけ方が劇的なものとして作用していたことが重要だ。
明示できないにしても問いの答えは舞台の上に現におきている演出作業そのものが既に身をもって示している。問いを続けることでその輪郭をもっと明らかにできるのではないかと思われてくるのだった。未来が先取りされるようなその感覚自体が演劇的な経験にほかならない。

「インフォメーションセンター」にしつらえられた装置は、それ自体が伊東沙保の作品で、期間中そこに出入りし、たむろしたりしている「百軒のミセ」の観客や参加者たちの様子がひと続きの劇に見えてくるようにしたいという意図が込められていたらしい。パート3では、その舞台美術のような装置のできばえについて、河村が伊東に問いかけていった。
「このドアは、あなたに見えているドア、あなたが見てほしいドアではなくて、一般的なドアのイメージにおさまってしまってはいない?」という風に、河村は伊東に問い詰めていく。
インスタレーションの理念について、観客が作品の前に立つまでの経路を設定しながら、そこでしか見えてこない感覚を伝えるもの、という風に説きおよびながら「観客が渋谷の駅からここまで歩いてきて、この作品の前に立って、どう見えると思う?」という風に河村は問いかけ、作品を作る上で独りよがりにならないために見逃してはならない注意事項を確認しようとする。

河村が受けてきた美術教育の教授法が俳優としての伊東の創作に施される様子を見届けながら、岸井は会場のシャッターを一旦開放し、シャッターが作っていた「第四の壁」が取り払われた部屋の外に出るよう観客に促す。一車線の道路にある、歩道と車道を隔てる緑の柵のあたりに観客は誘導される。
「ここから見ると、あれは舞台装置みたいでしょう。伊東さんは俳優だから無意識に舞台装置を作っちゃったんですね。この角度から見ると、まるで二人は芝居をしているみたいでしょう。私がいつもポタライブでお客さんにしているのは、『この角度から見ると景色が演劇に見えるでしょう』と誘導するようなことなんです」と語る岸井。
そして、もう一度、観客はインフォメーションセンターの中に入り、河村と伊東の問答を見守る。「いっそこの入り口を取り払ってしまえばどう?」と問いかける河村。「百軒のミセ」はまだ中日。この部屋のしつらえを手直しするとしたらどうすべきなのだろう。伊東に投げかけられた問いかけに創作の目指すべき先がゆっくりと浮かびかけてくるのを、観客も一緒に見守るようなひと時だった。

上演中に交わされた河村と岸井の会話に、創作の目標をいかに設定するのかといった問題をめぐる問いが浮かぶことがあった。その問いを受けた岸井はコクトーの警句を引きながら、「創作とは、背後にある見えない的に、狙わずに矢を放ち、正確に中心を穿つことだ」と述べていた(注3)。
『play away』の上演自体、まるで的を見ないで的を狙うことが見知らぬ的を現出させるという場面を演じているようで、つまり、お互いの未来に創作の標的をいまだ無いものとして差し向けるような、複数的な創造にほかならないプロセスが展開される様子を、生のままに切り出して見せるかのようだった。
そのこと自体において、一見断片的な要素の寄せ集めとも思える『play away』は集団創作による作品として成り立っている。そこで「集団が創造的になっている状態を見せる」という岸井大輔が目指す演劇そのものの、少なくともその一端が、コンパクトに集約されて示されていたと言って良いだろう。
岸井大輔が、「演劇の形式化」(注4)と呼んできたものの現時点での達成と課題のすべてがこの上演には含まれている。
(初出:マガジン・ワンダーランド第134号、2000年4月1日発行。購読無料。手続きは登録ページから)

(注1)「ひゃっけんだな祭り」自体が、入りにくい風俗街というイメージを払拭したいという地元商店街の思いを受けてボランティア学生グループが企画したもの。詳細は以下参照。http://100mise.seesaa.net/
「百軒のミセ」の様子は、次のブログに多数の写真とあわせて詳しく紹介されている。http://biboulog.com/archives/2009/03/23-113105.php
(注2)「文(かきことば)について詳しくは以下を参照。http://d.hatena.ne.jp/yanoz/20090114/
(注3)コクトーの警句は『ぼく自身あるいは困難な存在』に読まれるもの。
(注4)演劇の形式化については、次の岸井大輔インタビュー「ぼくの仕事は、集団の取り扱いと形式化です」を参照。

【略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。現在会社員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/

【上演記録】
potalive I. 神泉編 vol.1「百軒のミセ」(第4回ひゃっけんだな祭り参加作品)
作 岸井大輔(劇作家/playworks主宰)
渋谷百軒店商店街(3月14日―22日)

各日のスケジュール
http://100mise.seesaa.net/pages/user/m/category?category_id=6168416

パフォーマンス『play away』
出演:河村美雪(Co.うつくしい雪)+伊東沙保(俳優)+岸井大輔(劇作家/playworks主宰)
日時:3月18日(水)17時より公開稽古 20時より21時本番
会場:インフォーメーションセンター
料金:1000円

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