流山児★事務所「ユーリンタウン-URINETOWN The Musical」

◎もっと匂いを!
大泉尚子

「ユーリンタウン」公演チラシ座・高円寺の入口あたりから会場内にかけて、警官の扮装をした男女が10人以上。彼らは、客入れや会場案内をやっている。手には警棒、全身黒ずくめ。女は、ショートパンツ・網タイツにピンヒール、ジャケットの胸元のボタンを最大限にあけて、豊かな谷間を強調しつつ。これはきっと、異色のブロードウェイミュージカル「ユーリンタウン」の世界へのエロこわい誘導なのね、と思う。

ところが、劇場でのお約束「携帯は電源からお切りください」「休憩はございませんのでお手洗いは先にお済ませ下さい」的な前説を、「携帯鳴らしたら逮捕!」とか「上演時間は2時間45分だから、おしっこは先に行っとくように」とか、権力をかさにきたオマワリ口調で言うんだけど、そこはそれ、客は客なので今ひとつ歯切れが悪い。高圧的に言い切ってしまえず、語尾が甘くて何だか中途ハンパなところに、やや悪い予感が走る。しょっぱなから、役者が苦労してると感じさせる芝居に、あんまり面白いものはないんだよなあ…って。
とはいえ、壁であるべきところを取っ払って入口を広くあけたり、客席を組み替えて舞台を広くとった開放感はすごくいい。生バンドもすぐ目の前に控えていて、ワクワク感を盛り上げてくれるしと、気を取り直して客席に着く。

-舞台は、大干ばつによって水資源が枯渇しかけている近未来のとある街。水の使用を極端に制限され、水洗トイレを使うことさえ個人には許されていない。街のそこここを縦横に闊歩する警官たちが、水以外のすべてもが、完全に管理されていることを物語っている。

朝になると公衆便所には人が群がってくるが、使用料を払うことが義務づけられていて、管理人が厳しく目を光らせている。金のないホームレスたちは、排泄さえままならない。管理人助手ビンボーの父親もその一人で、耐えきれずに立ち小便をしてしまう。だが、これはもう犯罪であり、「ユーリンタウン」送りが決定。このユーリンタウンについては(警官以外)誰も知る人がいないが、実はそんな所はなく、警官の手にかかって処刑されるのだということを、人々は薄々感づいているようだ。

ビンボーはこれをきっかけに、社会の矛盾に目覚め〈革命〉を起こそうとする。排泄の自由を庶民の手に取り戻すための「全世界同時ションベン革命」を。ふとした出会いから、彼とお互い一目惚れの恋に落ちた相手は、いいとこのお嬢様風のホッピー。そのホッピーも強い味方になり、同士もどんどん増えていく。

一方、水の管理を一手に引き受け、公衆便所のアガリで暴利を得ているのがUCC(ウッシッシ)社だ。社長の〈冷血クラウド〉は、オカマの議員ヒップを抱き込み、賄賂を使って、自社に有利な法律を作らせるような悪徳企業家である。そして運命のいたずらか、ホッピーはクラウドの最愛の一人娘だった。

ビンボーは運動が激しくなるうちに捉えられ、死刑になってしまう。その志を継いだホッピーは、果敢に父と直接対決し、見事にUCC社を倒す。水の管理は彼女たちの手に委ねられるが、人々に水を大盤振る舞いした結果、資源は枯渇し、人類は滅びてしまう。そして誰もいなくなった…というアイロニカルな結末だ。

このミュージカルは、もともとオフ・ブロードウェイの小さな劇場の作品。コミカルな作風と荒唐無稽な設定の中で、歴代の人気ミュージカル、ひいては資本に牛耳られているミュージカル界をもじり倒すパロディ性が評判を呼び、ブロードウェイに躍り出て、ついにはトニー賞をも獲得したという。

ところが私にとっては、「これで終わるはずはない、何かが起きるはずだ!」と思い続けて、結局何も起こらなかった2時間45分だった。

確かに、老若男女の総勢40名以上のキャストが歌い踊るシーンには、ある種のパワーがある。また、舞台中央の公衆便所、はたまたUCC社の看板社屋にも早変わりする、岡本太郎の太陽の塔を連想させるタワー状の装置はユニーク。また、処刑などのシーンでは、左右上方にあるバルコニー的な空間を駆使し、人の出入りには舞台床下の穴も使ってと、天井までの高さをフルに生かした空間使いも際立っていた。

にもかかわらず、劇中で〈革命〉という言葉が飛び交う割には、何だか、和製ミュージカルというこぢんまりした鋳型から、一歩も出てないような気がしたのだ。巡査部長ロクスッポとホームレスの少女ちびサリという、狂言回し的な役割の2人が、結末を先取りしてバラしちゃうようなセリフを言ったりするメタシアターな感じも、ひっくり返るほど新鮮ではなかったし。名作ミュージカルのパロディと言われても、その世界に疎い観客としては、対立する二大勢力間の狭間で花開いたがゆえに、いやがうえにも盛り上がる恋というところが、こりゃあ「ウエストサイド・ストーリー」かい?と、ぼんやり思うくらいで。

演出家・流山児祥のオフィシャルブログに、寺山修二との出会いについてのこんなくだりがある。

待ち合わせた喫茶店に寺山さんは女物の毛皮を肩に引っ掛けて現れた。
イヤに背が高いと思ったら「例の寺山サンダル」を履いていた。
「君は演劇で革命が出来ると本気で思っているのか?」と単刀直入に聞かれ、わたしは一瞬ぎくっとした。
「出来ると思います、革命が命を改(革)めるというものなら演劇にはその端緒となるものがあると思います」。
が、寺山さんの言う「革命の演劇より演劇そのものを革命しなきゃだめだと思うよ」に妙に納得した思い出がある。

この言い方を借りれば、これは〈革命〉が出てきたミュージカルだったが、キャッチコピーだけが宙吊りになって、「ミュージカルそのものの革命」は起こっていなかったように見えた。翻って、私自身は何が起きてほしかったのか? 何を期待してたんだろう?

ところで、その後セミナーで聞いた流山児さんのお話には、とても興味深いものがあった。
曰く、演劇をやることで、少しずつ世界を変えられるんじゃないかと思って、長年続けてきた。演劇とは運動であり、それもくだらない、だからこそ面白い運動だ。生き物としての人間の集まる場所を作りたいが、座・高円寺にはその可能性を感じる。この公演も住人を巻きこみたいと、住民参加のイベント「ユーリンタウン祭」と連動して行っている。将来的には、劇場を飛び出して、各地のお寺でも公演を打ってみたい等々。
それは、失われつつある〈地域〉〈ふるさと〉を、いきいきとした形で、我が手に取り戻すということでもあるのだろうか。そこから私は、ふるさと=郷土についてのある文章を連想する(ここでは「祖国」という言葉が使われているのだが)。

「祖国とは私たちが子供のころに夕暮れまで遊びほうけた路地のことであり…私たちがその実のなるのを待ちわびたくるみの樹の生えた庭にこそ祖国はあった。谷川のとある屈曲、庭の裏手の灰色に古びた木戸、ストーブで焙られているリンゴのかおり、温かい両親の家にただよっていたコーヒーや料理の匂い、町から郊外へ、郊外から街へと野原を通っていた小路、その小路を歩いた思い出、童(わらべ)歌のメロディ、子供のころのある夕暮れのざわめき……それらが祖国である。人間にとって祖国とは国家のことではなく、幼年時代のふとした折のなつかしい記憶、希望にみちて未来を思いえがいていたころの思い出のことである」(橋川文三「ナショナリズム その神話と論理」)

この部分は、ミヘルスの「パトリオティスムス」という本からの引用なのだが、この〈パトリオティズム〉とは、ナショナリズムに対応して、郷土感情、郷土愛のことをいう。
いうまでもなく、ここに描かれているような牧歌的な風景は、すでに過去のものである。現状では、景色は恐ろしいほどの勢いで変わっていき、郷土という存在自体があやうく揺れている。郷土愛などは「欠片もないほどにずたずたに引き裂かれ、地域の光景はそれが成り立つ基盤そのものを欠くほどに荒廃しているからである.もはや…パトリオティズムなど想像されたフィクションとしてしか存続しえなくなっているのだ」(姜尚中「ナショナリズム」)。では、舞台という設えられた空間の中で、それは取り戻せるものなのだろうか。

ここで、郷土=ふるさととは、生活を共にした場所、ともに遊び、ともに飲み食いした場所にほかならない。その思い出は「リンゴのかおり」「コーヒーや料理の匂い」「童歌のメロディ」など、嗅覚や聴覚によって甦ってくる。プルースト「失われた時を求めて」では、マドレーヌを浸した紅茶の味と香りに導かれて、幼少期の夏の出来事が、一瞬のうちに主人公の脳裏に浮かび上がる場面が、あまりにも有名。記憶は匂いと密接に結びつき、それによって鮮やかに導き出されることも少なくない。

そういえば「ファブリーズ」などなかった私の子供の頃、友だちの家を訪ねると、それぞれに違う匂いがしたし、お金持ちの家はどうして匂いがしないんだろうと不思議だった。畑のど真ん中にあった小学校の周辺には、〈田舎の香水〉が漂っていた。思い出は、いい香りばかりではなく、臭くて嫌な匂いにも抜き難くからみついている。そうして、国家という言葉には匂いが感じられないが、ふるさとは、よくも悪しくもさまざまな匂いに溢れている。

長々とあらぬ方向にとんだ話は、ようやく「ユーリンタウン」に戻る。この芝居には匂いがなく、無味無臭に感じられたのだ。男が肥え桶を担いで舞台を横切るオープニングに始まり、舞台中央に窓から中の人影が見えてしまう公衆便所が聳え立ち、放尿シーンや、真ん中の丸い部分が、黄色いオシッコの染みになっている布団を白い旗のように振る場面があったにもかかわらず。ミュージカルというフォルムに足をとられたせいなのか、それはむしろ、妙にお洒落で清潔に映った。その分、善玉・悪玉のキャラクターも歌や踊りも、ひっかかりやとっかかりがなく、筋書きに身を任せて、さらーりと流れていったように思えた。

無論、排泄の話だから糞便の匂いをなどというのではない。だけど、人間のもっとも基本的な行為である排泄の自由を、我が街を、ふるさとを自分たちの手に取り戻すという話なのだ。アングラの帝王との異名をもつ流山児祥の演出なら、生活の営みから生まれる猥雑な匂いや息遣いや気配を、もっともっと生々しくむせるほどに感じさせてくれるのでは…と期待したことは、ないものねだりのイチャモンつけに過ぎるだろうか。

いずれにしても結局みんな死んじゃったんだよねー、という寓話的な締めくくり方には、乾いてあっけらかんとした空漠感があり、一種潔い。ラストに至るまでに、人が発する濃厚な臭気が立ち昇っていてこそ、その空漠感が、なおひきたったのではないのか。そうであったならば、このミュージカルという絵空事が、布団につけられた跡のように、見た者の記憶に消せない染みを残したかもしれない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第149号[まぐまぐ! melma!]、2009年7月22日発行。初出のタイトル変更。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
大泉尚子(おおいずみ・なおこ)
京都府生まれ。芝居やダンス、アート系イベントが好きな主婦兼ライター。「アサヒ・アートスクエア」インターン。時には舞台のスタッフボランティアも。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/oizumi-naoko/

【上演記録】
流山児★事務所ユーリンタウン―URINETOWN The Musical-」(流山児★事務所創立25周年記念公演スペシャル)
座・高円寺1(小劇場)(2009年5月29日-6月28日)
スタッフ
脚本・詞:グレッグ・コティス
音楽・詞:マーク・ホルマン
翻訳:吉原豊司
台本:坂手洋二
演出:流山児祥

音楽監督・演奏:荻野清子
訳詞・演出補:浅井さやか
美術:水谷雄司
照明:沖野隆一
音響:島猛
映像:濱島将裕
衣裳:胡桃澤真理
舞台監督:廣瀬次郎

キャスト:
千葉哲也
曾我泰久
伊藤弘子
関谷春子
遠山悠介
栗原茂
石橋祐
植野葉子
有希九美
木内尚
上田和弘
坂井香奈美
三ツ矢雄二
大久保鷹
塩野谷正幸 ほか

ポスト・トーク ゲスト:
6/2 松本哉(高円寺 素人の乱5号店店長)
6/3 青井陽治(ミュージカル演出家)×吉原豊司(ユーリンタウン翻訳)
6/9 中村哮夫(ミュージカル演出家)
6/10 佐藤信(座・高円寺芸術監督)×吉原豊司
ホスト:全回 流山児祥

入場料金:全席指定 一般 4,500円(税込)

主催:流山児★事務所
制作協力:ネルケブレインアンドハーツ
後援:杉並区 杉並区文化協会
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク


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