Bunkamura20周年企画「桜姫」

◎新たな「桜姫」の世界を紡ぎ出す 現代版と歌舞伎版が共鳴して
 -コクーン歌舞伎15年目の挑戦-
 田中綾乃

歌舞伎版「桜姫」公演チラシ
【写真はBunkamura20周年企画「桜姫」公演チラシ 禁無断転載】

1994年、コクーン歌舞伎第一回公演『東海道四谷怪談』を初めて観た時の興奮は、いまだに忘れられない。バブル崩壊後、小劇場系の第三世代と言われた劇団が次々と休止、解散していく中で、90年代に入ると演劇界全体が方向性を見失い、停滞していたように思われる。そのような中で、現代劇の劇場であるシアターコクーンに登場したコクーン歌舞伎。本水を使い、抑制された身体の中にも溢れ出る歌舞伎役者たちのエネルギーを目にした時、そこには私がこれまで観てきた「歌舞伎」とは異なる歌舞伎があった。しかも、その当時、シアターコクーンの芸術監督であり、オンシアター自由劇場の演出家串田和美と歌舞伎役者たちとのコラボレーション(二回目以降は串田が演出を担当)である。千秋楽では、オンシアター自由劇場のメンバーがジャズを演奏する中、歌舞伎役者が立ち廻りを行った。観終わった後、興奮冷めやらぬ私は、Bunkamura内の公衆電話から俳優の友人に急いで電話をかけた。「コクーン歌舞伎、すごい舞台を観てしまった!! これから演劇が変わるよ!!!」と。

それから15年。この間、コクーン歌舞伎は、常に新しい試みを行いながら、観客を魅了し続けてきた。コクーン歌舞伎は歌舞伎の裾野を広げ、若い歌舞伎ファンを育ててきた、という意味でも意義があるが、何よりも串田が演出をすることで、南北や黙阿弥といった古典作品を現代の視点で再解釈し、作品世界を深めることによって、歌舞伎の可能性を追求してきた、という点に大きな意義がある。その試みは、もはや「歌舞伎」としてカテゴライズされるだけではなく、「演劇」そのものの可能性でもあった。

たとえば、コクーン歌舞伎で繰り返し上演を重ねてきた『夏祭浪花鑑』の主人公である団七九郎兵衛という役。2008年の再々演では、「長町裏の場」での団七と舅の義平次との絡みがこれまで以上に張りつめた緊張感の中で描き出された。ここでの団七は、従来の単なる男伊達という団七像だけでなく、義平次とのやりとりを通して、絶望、悲しみ、怒り、悩み、後悔といった様々な感情を背負った一人の人間としての団七の心理状態がこと細やかに浮き彫りにされた。これは、もちろん団七役の中村勘三郎と義平次役の笹野高史という二人の稀有な役者の対峙があったからこそ可能になったわけだが、団七の人物像が深められることで、他の登場人物の理解も深められ、作品自体がぐっと厚みを増した。

南米版「桜姫」公演チラシ

歌舞伎版「桜姫」公演チラシ
【写真はBunkamura20周年企画「桜姫」公演チラシ 禁無断転載】

通常、現代劇では、一つのカンパニーが再演を繰り返しても作品の印象が大きく変容することはあまりない。だが、コクーン歌舞伎の場合、再演を繰り返すたびに、前作とはまた異なる世界観が描出される、という日本演劇の中でも珍しい創作過程を辿ってきた。もちろんコクーン歌舞伎は、一方では、観客を巻き込んだり、考えられないような仕掛けで観客をあっと言わせたり、そういう演劇の「遊戯性」を存分に持ち合わせながらも、他方では、常に作品と向き合い、登場人物の心理状態を分析し、再解釈することで作品の脱構築を試みてきたのである。

と、随分、前置きが長くなってしまったが、そのようなコクーン歌舞伎の歩みの中で15年目を迎えた今年。今年は、鶴屋南北の『桜姫』を現代版と歌舞伎版の二ヶ月連続公演で行うという新たな試みに挑んだ。しかも現代版の脚本は、長塚圭史が担当し、原作の『桜姫東文書』を南米版として『桜姫 清玄阿闍梨改始於南米版』に書き換えた。南米版というタイトルからもわかるように、単に原作を“書き換えた”というよりは何度も換骨奪胎した結果、原作とは全く異質な世界が出現することになった。

そもそも原作の『桜姫』も驚くほど不条理な物語なのではあるが、歌舞伎の場合は、それを様式美や桜姫の華やかな衣装などで補うことができる。だが、その様式性を取り去ると、そこには生々しい人間の欲望や身勝手さ、そして貧困や戦争、格差などによってどうにもならない世界の不条理さが顕わになる。現代版は、まさしく欲望が渦巻く不条理な世界のただ中で蠢く私たちそのものを描くと同時に、「魂の救済」という新たなテーマが付加された。

現代版は、セルゲイ(清玄)を中心にして物語が進められる。冒頭、大きな十字架を背負って登場する聖人セルゲイ(白井晃)は、16年前、若き少年ジョゼ(白菊丸)と心中したものの自分だけが助かってしまったことを後悔し、自責の念にかられている。セルゲイは、罪ほろぼしに人々に善行を施しながら生きているものの、ここでは<過去>に囚われてしまった人物として描かれている。他方、このセルゲイと対極にいるのがゴンザレス(権助)である。南米の悪党であるゴンザレス(中村勘三郎)は、過去には一切囚われず、自らの欲望を満たすためであれば、人殺しも厭わない。そして、この聖人と俗人の二人を媒介するように、マリア(桜姫)がいるわけだが、しかし、マリアのスタンスは少々異なる。マリア役の大竹しのぶが墓守役を兼ねることで、マリアはセルゲイやゴンザレスの物語を共に生きる登場人物であるとともに、その物語を操る超越した存在者でもあるのだ。そのようなメタな視点が入ることで、劇構造は時空を超え、幾重にも折り重なり、虚実が綯い交ぜとなり、ふわふわした不思議な世界が展開することになる。「この世は、わからぬことこそ現実で、わかることこそ幻だ」というセルゲイのセリフがあるが、まさに虚実皮膜の世界が現れる。

「桜姫」現代版公演

「桜姫」現代版公演
【写真は「桜姫」現代版公演から 撮影=明緒 禁無断転載】

そして、物語が進むにつれ、セルゲイとゴンザレスはこの世界では表裏一体であることがわかる。セルゲイのように過去の罪に囚われているだけでは<現在>は生きられない。しかし、ゴンザレスのように人を殺めた過去の罪を一切忘れて、未来を見るだけでも生きられない。セルゲイもゴンザレスも「いまを生きている」という実感がないまま、それでも何とか生きていかざるをえない、そんなはかない人間なのだ。この人間観は、セルゲイの弟子であったココージオ(残月)にもあてはまる。ココージオ(古田新太)は、現代版の中では、唯一の現実主義者であるが、後半からのココージオは、過去の想い出も未来の希望も捨て、ただ虚無的な一瞬、一瞬の「いま」だけを信じ、ただ椅子に座ってじっとしているだけの人物になってしまう。過去と未来を捨て去ると、そこに残るのは虚無的な「いま」しかない。古田のココージオは、そんな虚無感をよく表していた。

このような閉塞感が漂う中で、現代版の登場人物たちは、生きているのか死んでいるのかも定かではないように、現実と虚構の間を蜻蛉のようにゆらゆらとゆらめいていて、危うい。そのようなゆらめく人々が舞台に登場し、消えていく。一方で、7月の歌舞伎版を観て、あらためて感心したのだが、歌舞伎の『桜姫』の登場人物たちは、誰もがたくましい。どのように悲惨な状況でも、事態を受け容れ、生きていく力強さが漲っている。これが古典の世界観なのかとも思うが、少なくとも現代版の登場人物たちには、その生への漲りがない。情けないほどにナイーヴで、はかない。だが、そのはかなさのほうが、愛おしくも思える。

現代版に登場するルカ(井之上隆志)が世界にいる「もう一人の自分」とすれ違う話をする場面で、次のようなセリフがある。「世界というどうにも受け容れがたいものを受け容れるためには、心の中に小さな箱を持っておく必要がある」と。現代という混沌とした時代において、世界はなかなか受け容れられるものではない。その中で、私たちは、何とかゆらめきながら生きていくしかない。このゆらめきは、現代の劇作家である長塚の時代感覚ゆえに出てきたものなのだろう。

さて、長塚は、パンフレットの中で「『桜姫 清玄阿闍梨改始於南米版』は原作で死んでも死にきれなかった清玄と、突然その兄弟だと明かされ幕を閉じてしまった権助への私からの鎮魂歌となるのだ」と述べている。たしかに原作では、権助は、親の敵と知った桜姫によって理由も明かされず殺されてしまう。だが、現代版では、ゴンザレスは死なない。そして、セルゲイも死ねない。決して一人では死ぬことができないセルゲイは、ゴンザレスに向かって「罪を背負ってお前も死ね」と叫び、ゴンザレスを道連れにして、マリアとともに死のうとする。しかし、それでもこの世に未練がある二人は、やはり死ぬことができない。

長塚は、現代版の最後の最後で、この二人を生かす。原作では、あっけなく殺されてしまう二人に命を与えるのだ。その代わり、二人の罪をマリアに背負わせる。終盤、もはやマリアでも墓守でもない少女は、母なる大地のように、二人の罪を背負い、奈落の下へと落ちていく。この場面を観て、マリアとは、マグダラのマリアでもあり、すべてを受け容れる聖母マリアでもあったのか、と気づかされる。そして、マリアが罪を担うことで、セルゲイとゴンザレスの二人の魂はようやく再生し、生かされることになる。ただし、それは決して二人の罪が昇華されるのではない。これまでは、「罪を背負って死ぬ」という選択肢しかなかった二人に、罪を忘れず、記憶しながらも「生きる」という選択肢を与えるのである。長塚は、このような「魂の救済」を現代版で試みた。

そして、この「魂の救済」は、7月の歌舞伎版にも継承される。原作では、権助を殺した桜姫は、その後、権助との間にできたわが子にも手をかける。しかし、7月の『桜姫』では、赤子は殺さない。いや、正確に言えば、幽霊となった清玄が、赤子の魂を生かすのである。それはあたかも南米版で生かされたセルゲイが、今度は桜姫(マリア)の赤子の魂を救済するかのようである。桜姫は生かされた赤子の魂を慈しみながら、歌舞伎版ではめでたくお家再興となる。その光景の中で、清玄と権助は、昇天していく。

「桜姫」歌舞伎版公演

「桜姫」歌舞伎版公演
【写真は「桜姫」歌舞伎公演から 撮影=明緒 禁無断転載】

通常とは異なる歌舞伎版のラストを観た時、今回のコクーン歌舞伎『桜姫』は、現代版と歌舞伎版の二つによってはじめて『桜姫』が成立しているのだ、ということを痛切に感じた。7月は、紛れもなく歌舞伎の世界である。だが、それはこれまでのような再解釈という次元ではない。歌舞伎版のすぐ裏側には現代版の桜姫の世界がある。両者の世界が、合わせ鏡のように混ざり合い、溶け合っている。そして、現代版の登場人物の魂たちが歌舞伎版に継承され、また、その魂がどこかに旅立っていく・・・輪廻というよりは、魂の響き合い。そのような奇妙な感覚に陥る舞台であった。

そして、あらためて、こんな実験的な舞台ができるのもコクーン歌舞伎ならではなのだと感じる。単なる現代版ではなく、現代版と歌舞伎版が相互に共鳴しあって、新たな『桜姫』の世界を紡ぎ出す。はからずも、この二ヶ月公演でコクーン歌舞伎は、また一歩進化した。それは、もはや、歌舞伎や現代劇というジャンルに囚われず、歌舞伎や現代劇を融合しながらも「演劇とは何か?」という大きな問いに挑んでいるようである。

そして、この挑戦は、まだまだ続くのだろう。現代版の最後のシーンでは、物語がすべて終わった後、物語の案内役でもあった墓守役の笹野と大竹が出てくる。墓守役の笹野がおそるおそる「(これから)どうするつもりなんだ?」と尋ねると、同じく墓守役の大竹はとびっきりの笑顔で「やめられるもんか!」と叫んで駆け出していく。この「やめられるもんか!」は、この15年間コクーン歌舞伎を築いてきたコクーン歌舞伎のメンバーたちの代弁でもあるし、今回、新たにコクーン歌舞伎に共犯した現代版のメンバーたちの宣言でもあるのだろう。コクーン歌舞伎は、きっと今後も果敢に新たな演劇作品を創り出すにちがいない。そんなコクーン歌舞伎の歩みに、これからも観客として参加していきたい。
(初出:マガジン・ワンダーランド第156号[まぐまぐ!, melma!]、2009年9月9日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
田中綾乃(たなか・あやの)
名古屋市生まれ。東京女子大学文理学部哲学科卒業、同大学院修士課程、博士課程修了。2009年10月より、三重大学人文学部准教授。専門はカント哲学、現代演劇論。哲学研究と観劇という二足の草鞋を続行中。
・wonderland 掲載劇評一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tanaka-ayano/

【撮影者略歴】
明緒(あきお)
写真家。1973年生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒。2000年より、歌舞伎から現代劇までさまざまな舞台や映画のポスターなどでポートレート写真を手がける。2009年9月、平成中村座の軌跡を追った写真集『拝啓「平成中村座」様』(世界文化社)を出版。

【上演記録
▽Bunkamura 20周年記念企画『桜姫
Bunkamuraシアターコクーン(2009年6月7日-30日)

原作 四世 鶴屋南北
脚本 長塚圭史
演出 串田和美
出演 秋山菜津子、大竹しのぶ、笹野高史、白井晃、中村勘三郎、古田新太 他(50音順)
料金 S[椅子/ベンチ]\12,000 A\9,000 コクーンシート\5,000 (税込)
企画・製作 Bunkamura
制作協力 松竹株式会社

▽Bunkamura 20周年記念企画 第10弾 渋谷・コクーン歌舞伎『桜姫
Bunkamuraシアターコクーン(2009年7月9日-30日)

原作 四世 鶴屋南北
演出 串田和美
出演 中村勘三郎、中村扇雀、中村橋之助、坂東彌十郎、中村七之助、笹野高史 他
料金 1等席[椅子/ベンチ]\13,500 2等席\9,000 3等席\5,000 (税込)
製作 松竹株式会社
主催 松竹株式会社/Bunkamura


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