◎泥まみれの舞台 「他者」意識さす蜷川演出
木俣冬
彩の国さいたま芸術劇場大ホールのロビーに入ると、正面にある客席への扉は閉ざされている。代わりに、向かって右にある客席脇の廊下を通るようにと誘導される。次に階段を降りる。どこに向かっているのかよくわからない(実は楽屋と舞台袖をつなぐ通路)が、案内に従って歩いていくと、やがて、階段状になった仮設の客席にたどり着く。こういう迷路のような仕掛けは、アングラ演劇の野外劇を思わせる。
客席はコの字になっていて、客席のない一辺には、戦国絵巻もののような合戦の様子が描かれた幕が降りている。劇中、幕が開いた時にわかるが、この仮設客席と舞台は、彩の国さいたま芸術劇場大ホールの舞台上に当たり、幕の向こうが、いつもなら我々客が座る客席なのだった。
客席と幕に囲まれた中央には一面泥が敷かれている。ここがアクトスペースだ。客席には、チラシや当日パンフの他に、黒いビニールシートが用意されている。眼下の泥が、劇中、客席にまで飛ぶのだなあ……と胸が期待と不安が入り交じってざわつく。迷路からビニールシートまでの一連の仕掛けによって、既にあやしき芝居空間に取り込まれていた。
開演するやいなや、大勢の人々が泥の中に駆け込んできて暴れ回る。蜷川がオーディションで選んだ若く無名な俳優たちだ。その日によって一部キャストも入れ替わるようになっているらしい。
時代は、17世紀。江戸幕府が生まれる頃、日本国内で多くの戦争があり、奪い奪われる行為が繰り返されていた状況が描かれる。
出演者たちはあっという間に泥だらけ。キレイにならされていた土の床面はグチャグチャ、ボコボコと荒らされ、土のニオイが立ちこめた。以後、ラストまで、この泥はなくならない。つま先から顔までベタリとついた茶色い半液体状のものは、照明の熱量でみるみる乾いて色を変えていく。その上にまた、新しい泥が重なるという繰り返しだ。
観客はまず、この田んぼのような泥の量に圧倒される。そして、ぬかるむ泥に悪戦苦闘し、のたうちまわる若い俳優たちに、ひたすら見入られていく。予期せぬ転倒もあるだろう。思いがけない動きがどんどん生まれる。この偶発性がおもしろい。また、俳優たちの緊張感も緩むことがない。常に、足下や周囲に気を使っている、そのピリピリととがった神経が、死が隣り合わせの戦国時代に生きている人間の姿と重なっていった。
終演後、演出家に「泥が凄かったですね」と言うと「泥を誉められてもなあ……」と苦笑された。「最初から泥を使うことを考えていたのですか?」と聞くと「いや、途中で思いついた」と言う。あらかじめ決められたプランじゃなかったことが重要だなと思った。
「リアルな戦場の緊張感を出せ」と新人に近い俳優たちに、言葉で理解させるよりも、身体が自然にそうなる状況を作ってしまうという合理的でスピーディーな方法の選択。と言っても、スタッフは、毎日、掃除洗濯が大変で、休演日の前日は徹夜をしていると聞くと、一概に合理的とは言えない気もしてくるが……。
幕開けの戦の混乱が収まると、舞台上には戦争で生き残った子供たちが集まって、それぞれの思いを語り合う。これが後の真田十勇士だ。少年たちを演じているのは女優。女の子が力いっぱい強く振る舞うことで、戦時中の必死さが感じられる。
そして、数年後。成長した十勇士は、男性の俳優に変わっている。頂点を極めかかる徳川に対して最後まで抵抗した豊臣の家臣・真田幸村と十勇士。浪人や農民、女性などが生きるために集まってできた彼らは、「かっこよく死ぬこと」を信条にしていた。その中のひとり佐助は、透明になれたり、人の心が読めたりする特殊能力を持っている。佐助は孤立主義で、集団と行動を異にすることも多いが、なんだかんだ言いながら、結局いつも幸村たちに付いていく。佐助の「心は見えるが腹(企て?)は見えない」というセリフが面白い。
さて、演出家は、この舞台の記者会見で、昨今の若い世代は「周囲に関心がない」と語っていた。「道を歩いているときにぶつかりそうになる人に配慮がない。それは時代を象徴している。それは、インターネットやケータイなどで他者と間接的なコミュニケーションばかりしているからじゃないか」と。確かに多くの人が、雑踏で人を避けることをしない。平気でぶつかってくる。傘や荷物を人に当てても気付かない。人と人との距離感に鈍感な人が多いように思う。
そういう蜷川演劇は、どちらかと言えば、道具やちょっとした仕草で、感情やその人の置かれた状況を描写することを求められていると感じていた。見えないものをできる限り目に見えるものに置き換えていく方法。それは「他者を意識」し「他者にも伝えたい」と言う思いの強さなのだと常々感じていた。
蜷川幸雄の演劇に親しんでしまった私は、数年前から、最近の若い俳優は何もしないでジーッと立っているだけのような演技をする人が多いことに違和感を覚えるようになった。小道具も使わず、手足も動かさず、表情だけをやや動かす芝居だ。映像だと、アップもあるし、引きでも風景と合わさって情緒豊かに見える事もあるが、舞台だと、なんだか手持ち無沙汰ではないか?と思う事もあった。
俳優に「なんで何もしないのですか?」と聞くと、「心が役の感情で埋まっていたら伝わると思うから」と答える。むしろ、道具や動きで感情を表現するよりも、こちらのほうが高度であると思っている節がある。もちろん、あまりに大袈裟に喜怒哀楽を身体で表現されても、あちゃ?っと、目を覆うこともあるのだけど、ただ黙って目に涙を浮かべて立っていられても、本人が思うほどは、あまり感情が伝わってこないことも多々ある。かつてのショーケンや松田優作の芝居は、映像でも、衣装や小道具、ちょっとした仕草に凝っていた。だからこそ、いまだに多くの人が彼らの形態模写をする。ところが、今の若い世代の芝居は、ナチュラルなのだろうけど、特徴がない。何年か後に、誰かが真似されているだろうか。
私は「何もしなくても伝わる」という考え方はちょっと傲慢じゃないか?とも考える。なかなか伝わらないものだよ、人間の考えって。言葉にしたって正確には伝わらないことが多いのだから……、と。何もしなくても心が伝わったら素敵だけど……。
「何もしなくても伝わる」「伝わってほしい」という考えは、「夢を諦めるな」「奇跡は起こる」「生きろ」と無責任に煽る世の中が生んでいるんじゃないか。なんてことを考えてしまうのは、この戯曲が、闘いの時代を通して、人間と人間の関わりについて、社会について、何かを見つけ出そうともがいているからだ。戯曲が誕生した時は、安保闘争のことと重ねて書いていたようだが、安保闘争が何だったかを知らなくても、人間と社会の物語として、様々な思いを喚起させてくれる。
今は百年に一度の不況と言われている。映画も出版も演劇も文化がどんどん衰退していく。「こんな時代だから」と何かと絶望してしまう中、この舞台を見ていると、蜷川幸雄は、まだまだあきらめていないと感じた。泥の中でのたうちまわっているのは俳優たちだけではない。蜷川幸雄自身が、“演劇を作る”ことやコミュニケーションという泥の中でのたうちまわっている、と。
「生身の他者を必要とすることに直面できなければ演劇なんかできない。でも、(他者に関心の薄い)現代人の中から新しい感性を持った俳優が生まれる可能性もある。だから、僕の任務は、その時代を象徴する身体や精神と、他者への関心を共存させること、あるいはその方法を、どうやって発見していくかだと思っています」とも、会見で、蜷川は語った。
演出家はいつも稽古場で「描写を学べ」「物まねも演技のうち」などと、語っているけれど、今回の舞台では、自分のやり方を強要するのではなく、若い俳優たちのやり方も尊重しながら、なお、自分の考えとの共生を試みた。泥は、演出家と若い俳優-ひいては、時代をつなぐ道具となった。
戯曲の中に生きている人たちも、徳川方、豊臣方、サムライに農民、様々な価値観を持った人たちがいて、それぞれの立場で、やり方を選択しながら生きている。どれがいいとは言い難い。
そして、この泥は、新たなコミュニケーション手段や表現を自覚させるための道具なだけではない。民衆が泥にまみれる一方で、徳川のエスタブリッシュメント側の人たちは、泥で汚れないように可動式の平台(座布団や畳になっている)に乗って出入りする。それによって階層差もよくわかるし、茶坊主がワゴンを押して出入りする姿にはユーモアもある。
後半は、歴史のとおり物語も徳川の勝利となって、時代は変化していく。「かっこよく死にたい」と言い続け、かっこよく生きてきたように見えた真田幸村が、最後の最後で、戦場でつまづいて、落ちていた刀に刺さって死んでしまうという、なんとも皮肉な展開を迎える。幸村役の横田栄司がとても颯爽とかっこよく演じているので、この最期との落差が生きた。ここで観客は、不謹慎ながら思わず笑ってしまう。幸村も絶対ではなかったのだ。その死に様が、泥の中だからこそ説得力が増す。こういう足場の悪い場所では、うっかりこけることもあるだろう。まるで最初から伏線が敷かれていたかのようだった。
もうひとつ皮肉に思えたことがある。演出家が、彩の国さいたま芸術劇場を拠点にした若者の劇団を作るに当たって行ったオーディションで、俳優を選ぶ基準を「今のテレビや映画に主として起用されているような顔とは違う個性的な、ノイズのある顔」と言っていた。が、結局、真田十勇士の面々がいまひとつそれぞれの個性を出しきれていない気もしたことだ。いわゆるノイズは「泥」が作ったというのは、これもまた、幸村の最期のように皮肉にも感じる。でも、蜷川幸雄のようなやり方をしている演出家がいる限り、明日をはかなむこともないように思う。この泥にまみれた舞台から、何かを見つけ出し、歩きはじめる俳優がいるかもしれない。そう思うと、特設劇場を後にする足取りが軽くなった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第164号[まぐまぐ!, melma!]、2009年11月4日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
木俣 冬(きまた・ふゆ)
フリーライター。映画、演劇の二毛作で、パンフレットや関連書籍の企画、編集、取材などを行う。キネマ旬報社「アクチュール」にて、俳優ルポルタージュ「挑戦者たち」連載中。蜷川幸雄と演劇を作るスタッフ、キャストの様子をドキュメンタリーするサイトNinagawa Studio(ニナガワ・スタジオ)を運営中。個人ブログ「紙と波」。http://blog.livedoor.jp/kamitonami/
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/kimata-fuyu/
【上演記録】
さいたまネクスト・シアター『真田風雲録』
2009年10月15日(木)~11月1日(日) 全18公演
彩の国さいたま芸術劇場 インサイド・シアター(大ホール内)
一般:3,800円 メンバーズ:3,500円
作 福田善之(ハヤカワ演劇文庫刊)
演出 蜷川幸雄
出演
さいたまネクスト・シアター 荒川結 池田仁徳 牛込隼 浦野真介 大橋一輝 川口覚 岸田智志 小久保寿人 木場允視 浅場万矢 市川夏光 江間みずき 織部ハル 熊澤さえか 小林まり枝 西原康彰 下塚恭平 鈴木彰紀 鈴木拓朗 鈴之助 手打隆盛 徳山悠介 新澤明日 西村篤 西村壮悟 佐々木美奈 周本えりか 鈴木明日香 土井睦月子 中村千里 隼太 堀源起 松田慎也 本山里夢 矢部功泰 横田透 横山大地 露敏 春木美香 深谷美歩 藤田美怜 美舟ノア 茂手木桜子 吉田妙子
ゲスト 横田栄司 原康義 山本道子(以上文学座) 妹尾正文 沢竜二(沢竜二一座)
ミュージシャン 鈴木光介 国広和毅 関根真理 中尾果
スタッフ
演出補 井上尊晶
音楽 朝比奈尚行
美術 安津満美子
照明 岩品武顕
衣裳 小峰リリー
音響 高橋克司
振付 広崎うらん
殺陣 栗原直樹
所作指導 藤間貴雅
歌唱指導 伊藤和美
演出助手 藤田俊太郎
舞台監督 山田潤一
宣伝美術 隆俊作(5fret)
宣伝画 中尾直貴
宣伝美術制作 二宮大(Gene&Fred)
主催・企画・製作 財団法人埼玉県芸術文化振興財団