東京デスロック「ROMEO & JULIET」KOREA ver.

◎コンテクストを宙吊りにするゲームの可能性
柳沢望

「ROMEO & JULIET」公演チラシ東京デスロックを主宰する多田淳之介が演出し、韓国人俳優たちと作り上げた『ROMEO & JULIET』KOREA ver.を見た。これは、韓国で制作されて評判を呼び、再演もされた舞台作品の「キラリ☆ふじみ」上演版だ。多田淳之介は埼玉県富士見市の公共劇場「キラリ☆ふじみ」の次の芸術監督に決まっている。今回の上演は、いわばそのお披露目的な意味合いもあるのだろう。


内閣官房参与になった平田オリザは、劇場法の制定を積極的に唱えてきたが、青年団演出部にいた多田淳之介が若くして公共劇場の監督になるということは、今後の日本の公共劇場の行方を占うパイロットケースともいえるだろう。
そうしたパースペクティブにおいて、今回日韓共作で『ROMEO & JULIET』が、地方の小都市で上演されたことの意義を考えてみたい。

今回の『ROMEO & JULIET』KOREA ver.は、2008年2月に、今回と同じ「キラリ☆ふじみ」で複数の演出家が同戯曲を共同演出した『大恋愛』という企画の一部を発展させて独立の作品としたもの。松岡和子訳の戯曲を元に多田自身が台本を構成し、それを韓国側の翻訳者が韓国語版に訳したものが上演に使われたという。
残念ながら同時上演された日本版を見られなかったので、その間の対照関係は度外視して、以下、単独の作品として論評する。

舞台は、まるで大きなトランポリンのように白いシートに覆われた横長の長方形のスペースがメインで、その縁を赤い正方形のビニールレザー調のクッションのようなものが取り囲んで並んでいる。
正面のスクリーンに字幕が様々に映写されることを除けば、ほかに視覚的要素はほとんどない。いたって簡素な美術であり、そこに役者達の身体が浮かび上がる。ある種、ポップでモダンなセノグラフィーだ。

韓国語による開演の挨拶が終わり会場が暗転すると、大音響の重低音でPerfumeの『GAME』が再生され“Let’s Play The Game”の一節が響き渡る。それは、この舞台を貫くモチーフがゲームであることを予告していた。

一転、静まり返り照明に照らされて舞台には、無言で、ひとり、またひとりと俳優が入場してくる。全員が、喪服を思わせる黒い衣装を身につけている。そして、顔を見合わせながら、タイミングを合わせて座ったり、立ったりする。それがやがて、椅子取りゲーム式に、全員でタイミングを合わせて立ったり座ったりする無言のままの一種の遊びのように展開していく。
これは、人間関係の様々なパターンをゲームのように示していくことで、ドラマの根底にある劇的図式を浮かび上がらせる試みであるようだ。パンフレットでそれぞれの役者にはHUMAN1からHUMAN10という符号的な名前が割り振られている。舞台の上にいる存在には、任意の個人という以上の意味合いは無いということだろう。

輪になって駆け引きが進むその沈黙のゲームは、やがて、ペアになって極端に顔を近付けて戯れるような展開となる。そして最後には、役者達は舞台の上手、下手の二手に分かれて、対立して行く。
思いつくままに単なる任意の関係パターンを素描するような場面から始まった舞台が『ロミオとジュリエット』のドラマに入っていくのは、この、対立の図式からである。あらかじめ親密さや対立の様々な図式を提示することは、原作となる『ロミオとジュリエット』という戯曲もまた、その組み合わせのひとつのバリエーションであると告げていたかのようだ。

『ロミオとジュリエット』の物語には、その背景に、モンタギュー家とキャピュレット家の敵対関係があって、それが悲恋の物語を展開させる根本に据えられた図式になっているわけだが、上手下手に別れた役者たちは、矢継ぎ早にセリフを重ねて挑発しあい、罵りあうようにして、韓国語でセリフを投げかけはじめる。

対立の図式において言葉をぶつけ合う両サイドの役者達は、前傾姿勢をとって、挑むように、言葉を投げかけていく。役名がHUMANに抽象されていたのと同様に、役者と役柄の関係は固定されるわけではないようだ。
ロミオとジュリエットが舞踏会で出会い、惹かれあう場面で、お互いに慎ましさと大胆さの間で駆け引きをしながら親密さを深めていくセリフのやりとりでさえ、敵対図式の延長線上に置かれて、まるで罵りあうような調子で投げ付け合うように演じられていた。

しかし、このように対立の図式を強調するのは、対立を背景にしながらシェイクスピアのセリフに繊細に織り込まれている、それぞれのキャラクターの立ち位置の違いやコンテクスト間の入り組んだ交渉を捨て去ることでもある。その交渉の中から一つの筋が必然であるかのように導かれていく悲劇としての展開も抽象化されてしまい、全てが単なる対立の図式に還元されたかのように冒頭の場面は進んだわけだ。

そして、バルコニーの場面では、それまでの対立の調子は消えて、役者達が冒頭のゲームでペアを作ったように舞台に散らばり、まるで複数のカップルがそれぞれロミオとジュリエットであるかのように、すこし落ち着いた親密さの図式が舞台に重ね書きされて行った。

さて、開演から上演の概要が理解されるにいたるまでを、上演の展開に沿って素描してきたが、舞台展開をなぞるのはここまでに留めておく。この上演作品の可能性と限界を論じるためには、導入としてこれで十分だろう。

この上演では、それぞれのセリフが人物像に結びつかない仕方で声に出されている点で、キャラクターそれぞれが帯びているコンテクストは失われてしまっている。たとえば、乳母やマキューシオのセリフに含まれるような性的で猥雑な要素はほとんど省略されている。
それら原作の多層的なコンテクストは、省略された代わりに、たとえばロミオとジュリエットが初夜を迎える場面において字幕によって性的な含意が強調されるなど、別の仕方で舞台に描かれていたと解釈できるかもしれないが、ここで問題なのは、諸要素がドラマとして展開されず図式的に整理されてしまっていること自体である。

もちろん、原作戯曲の微細なドラマは、テキストの次元ですでに読み解けるものとしてあり、そのまま演じられなくても良いと考えることもできる。そして、原作戯曲のドラマとは一見かけ離れた舞台表象を提示することで、上演行為が戯曲の解釈可能性を拡大するということも、有りえるかもしれない。
他の場面を取り上げながら考えてみよう。たとえば、ジュリエットがロレンスの用意した薬を飲むシーンや、その後、乳母が倒れ伏したジュリエットを見つけるシーンでは、K-POPというか、ダンスミュージック調の韓国POP
音楽が大音量で流されていた。
ジュリエットや乳母のセリフを声に出す女優は、まるでライブステージで客席に語りかけるシンガーのように、声に出される悲壮な言葉とは裏腹に、満面の笑顔で晴れやかに客席に語りかけてみせる。
同じように、ロミオが追放されるシーンでは、尾崎豊のライブ音源が使われて、マイクを持った俳優が大げさに客席に語りかけてみせる。

つまり、この上演で示された舞台表象は原作戯曲とはかけ離れた意味合いを原作の意味内容にぶつける一種のアイロニカルなパフォーマンスになっており、原作とは遠いところから原作の内容を受け取るという、逆説的な解釈作業を促すものである。
それがアイロニカルであるだけ、原作の悲劇性がより強く印象付けられたかもしれない。原作からかけ離れた演技のアイロニカルな感覚は、日韓の文化的な近さと遠さにまつわる思いを観客に抱かせたかもしれない。

あるいは逆にこのような演出には、原作戯曲が持っている劇的構造を、現実を解釈させる劇的図式のようなものとして提示する作用もあったかもしれない。たとえば、POP音楽のライブへのなぞらえを、こんな風に解釈できる。古典戯曲の主役が特権的な人物として表象されることは、POPカルチャーの文脈でスターが表象されることと似通ったことであり、POPカルチャーのヒーローが現代の悲劇を演じることもある、などなど。

別の場面を取り上げてみよう。この舞台の後半で、「だるまさんが転んだ」のように、役者の一人が何度も振り返って、そこに向かって歩いていく俳優が倒れこんで行くという場面がある。それぞれの役者は、剣を突き出すように白い菊の花を手前に突きつけていて、鬼に当てられたように、順番に床に倒れこんでいく。
これも、セリフが描き出す場面とはかけ離れた演技ではあるが、登場する若者が順番に全て死んでしまうというこの戯曲の一面を、ある意味象徴的に表してはいる。つまり、必ずしも戯曲を裏切ってはいないのだが、そこで示されているのは戯曲から抽象された図式の組み合わせである。

こうした演出は、原作戯曲の新しい解釈を引き出したり、すぐには見えてこないドラマを浮かび上がらせたというよりは、原作戯曲の強固な劇的構造を骨格として浮かび上がらせ、そこに様々な衣装をかぶせて見せたに過ぎないように思われる。
この舞台は、シェイクスピアの原典が持っているドラマ的要素を抽出し、その図式をなぞるように、ゲーム的なパフォーマンスを配置していくことから成り立っている。ただ、ここで原典から要素を抽出することと、ゲームのようにパフォーマンスを行うことは、どちらも、テキストとパフォーマンスのそれぞれを、いわば絵文字のような単純な記号で表せるものに置き換えて扱うに等しいことではないだろうか。
その記号化されうる図式の水準において、テキストとパフォーマンスのある種恣意的な併置が可能になっている。だからこそ、戯曲自体と日韓の文化的相違という複雑なコンテクストに拘束されないような、テキストと演技の組み合わせが可能になったと言えるだろう。

ここで問題なのは、この併置可能な水準が、テキストとパフォーマンスの双方を貧しくすることによって開かれているのではないか、ということだ。テキストの微細なドラマは消し去られ、パフォーマンスの微細な質は見失われる。その点で、コンテクストから自由でありえる分、逆に、舞台の質は制限されていたのではないか。

この上演では、それぞれの役者の発声は基本的に朗々と響き渡るもので、演技の質もその声音と通い合うように、若い役者それぞれのすこし力んだ緊張が伝わってくるようなものだった。そこには一定の素晴らしさがあっただろう。しかしそれは、一定の枠にはまったもののように思われた。
たとえば、冒頭の椅子取りゲームのような駆け引きで示されているのは、目配せであったり、仕草であったり、明確に分節可能な、あらかじめの枠というか解釈格子の中に納まるような、ある種の記号化された身振りの交換だっただろう。
一般に、対面的なコミュニケーションにおいて成り立っている微細な情報交換は、情報交換として意識されないレベルですでに感知されている雰囲気や印象の質感として享受されるものではないか。この上演では、そのような明示的な記号よりも下にあるレベルにおいては、演技はそれほど豊かでは無かったように思う。
たとえば、韓国と日本の文化的な差異が、じゃんけんをする手の出し方や、踊る仕草の違いに見出せるように思えたこともあったが、そうした違いは、公演の枠の中ではどちらでもいい相違に過ぎないという印象が残った。上演の枠組みにおいては、踊っているという記号、じゃんけんをしているという記号であればよかったのだから。

そうしたどこか恣意的な演出は逆に、原作のゆるぎない劇的構造を浮かび上がらせた点で、シェイクスピアを権威付けられた演劇史の殿堂に据え直したのであり、一見恣意的に演じられた様々なパフォーマンスもまた、戯曲に結び付けられ解釈に晒されることで制限され束縛されていたのではないか。
もちろん、テキストからもっと離れることもできるし、パフォーマンスをもっと徹底した貧しさにおいて提示することもできる。たとえば、ベケットの『Quad』などは、ドラマの図式性をゲーム的に示すことを極北まで徹底した例だろう。そうした点で、今回の上演はある種折衷的な不徹底さの領域に留まっていたように思われる。

さて、80年代末に梅本洋一は『視線と劇場』(弘文堂)において、日本には、戯曲に従属せず、自律した舞台造形を行うような作家としての演出家が演劇の主流にほとんど登場しないと嘆いて見せた。
日本の近代演劇において、舞台を造形する作家としての演出家が作家としてあまり前面に出てこず、象徴的な演出が後退したのは、伊藤熹朔や千田是也が、ゴードン・クレイグの演劇理念を審美主義と名指す批判によって退けることで新劇の基調を据えたことが大きな理由のひとつだろう。そこに、ある種の演劇史的な欠落が生じている。この上演をそのような日本近代演劇史から振り返って見ると、まるで西欧演劇の受容が制限されてきた結果生じた欠落を穴埋めする作業のひとつだったようにも思う。
そうだとして、フランスにおいて進んだ公共劇場の整備とそれに伴う演出家の前景化がどのような結果につながったのかについてもまた、梅本洋一の指摘を振り返っておくべきだろう。ひとことで言えば、演出家が優位に立つ舞台造形は上演史に対するコメントの付け合いのようなものになって、自閉して行ってしまったというのだ。
演出家優位の演劇は、西欧では、20世紀に既にやりつくされたことだったとも言える。公共劇場が演出家を作家として前景化させるだけに留まるなら、それは遅れてきた近代化であるに過ぎない。

さて、今回の上演を日韓の文化交流が進むステップとして見るならば、平田オリザが関わった『その河をこえて、5月』のような、ある種の国家的事業のようにしてではなく、若い世代同士の間で、もっとカジュアルなコラボレーションとして共同制作が実現したように思える。そうだとすれば、これは明らかな前進だ。
この上演において最も劇的だったのは、舞台表象のあり方や演技の質であるよりもむしろ、この上演を日韓両国の若い世代が共同して実現したという事実そのものではなかっただろうか。
平田オリザは、リアリズム的な舞台を共同制作したため、共に舞台に立つ日韓の役者それぞれの文化的コンテクストの違いにより敏感にならなければならなかったが、今回の舞台は、図式的な抽象性を持っていたからこそ、そうしたコンテクストの相違を逆に無造作に舞台に提示することに成功していたようにも思う(注)。ひょっとすると、そうした方向に、演劇における異文化交流の可能性がより多く開かれているのかもしれない。
日韓共作による舞台作品は、失敗作や駄作も許容されるほどに、もっと一般化するべきだろうし、もっと野放図に感受性やアイデアの交換がすすんだ方がいい。そうした面で、今回の上演は、成果としてはあくまで過渡的なものと評価すべきであったとしても、日韓の演劇界に可能性を大きく開いたのではないだろうか。(所見:10月28日)
(注)平田オリザ「他者を理解するとは、どのような行為なのか?」(『21世紀文学の想像(6)声と身体の場所』(岩波書店)所収)で語られた、『その河をこえて、5月』の製作過程に関する報告を参照のこと。
(初出:マガジン・ワンダーランド第165号、2009年11月11日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ya/yanagisawa-nozomi/

【上演記録】
キラリンク☆カンパニー 東京デスロック『ROMEO & JULIET』~JAPAN ver. & KOREA ver.(日韓両バージョン二本立て公演)
キラリ☆ふじみ(2009年10月24日-28日)

原作:ウィリアム・シェイクスピア
構成・演出:多田淳之介
出演:
《KOREA ver.》イ・ユンジェ(Lee Yoon Jae) クォン・テッキ(Kwon Taek Ki) イ・クノ(I Kuno) キム・ソンイル(Kim Song Ll) パク・キョンチャン(Park Kyoun Chan)・ミンジョン(Oh Min Jung) カン・チョンイム(Kan Cheong Im) チェ・ソヨン(Choi So Young) キム・ユリ(Kim You Lee) 佐山和泉
《JAPAN ver.》夏目慎也 石橋亜希子 坂本絢 橋口久男(三条会) 堀井秀子 中林舞(快快) 浦壁詔一

スタッフ
照明:岩城保
舞台美術アドバイザー:濱崎賢二
音響:泉田雄太
宣伝美術:宇野モンド

韓国語翻訳:ミョン・ジンスク(Myung Jin Sook)
通訳 / ドラマトゥルク(韓国公演):イ・ホンイ(Lee Hong Lee)
演出助手(韓国公演):カン・ミンベク(Kang Min Baek)
制作協力:第12言語演劇スタジオ(12th Tongue Studio) ソン・ギウン
(Sung Kiwoong)
制作:服部悦子

協力 青年団 快快 シバイエンジン 森下スタジオ 第12言語劇団 ソン・ギウン
助成 芸術文化振興基金 財団法人セゾン文化財団
主催 東京デスロック 財団法人富士見市施設管理公社

チケット:(日時指定・全席自由・整理番号付)
前売・予約 一般=3,000円 当日=3,500円 学生・シニア[65歳以上]=2,000円 当日=2,500円 セットチケット=5,000円(韓国ver. 日本ver.を各1回のセットチケット)


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