劇団桃唄309 「死すべき母の石」

◎「東京」の物語。「東京」で暮らす人の物語。
光原百合

「死すべき母の石」公演チラシ最初にお断り(言い訳)を。筆者は好きな劇団の舞台は集中して見ているが、演劇全般にそれほど造詣が深いわけではない。大ファンである劇団の一つ、劇団桃唄309の舞台『死すべき母の石』についてのこの劇評においても、演出の技法や役者の演技についてどこがどう優れているか論じることは難しい。自分が物語作家であるため、あくまで『桃唄309が形作る物語のどういうところが好きか』が主眼の評になることをご容赦いただきたい。

さて、私にとっての桃唄舞台の魅力はまず、多くの作品において、複数の筋がアクロバティックに絡み合いながら進む構成の妙である。この点でもっとも印象に残っているのが2005年公演の『ブラジャー』である。女性たちを窮屈なコルセットから解放するため世界で初めてブラジャーを考案した女性、ブラジャーを日本に紹介した人々、そして現代の日本で寂れかけた商店街を活気づけようと奮闘する人々などいくつかのエピソードが並行して進み、昔ブラジャーを縫っていたミシンとボビンケースが離れ離れになって、現代日本で再会するまでの物語がエピソードすべてを貫いてまとめるという入り組んだ内容だ。しかもこの劇団の舞台の特色として、暗転は基本的に使わない。ある人物が舞台を横切りながら帽子をかぶる、その動作一つで違う時代、違う国に場面が移ることもあった。一瞬でも気をぬけば筋においていかれる危険はあるが、最終的にすべての筋が落ち着くところに落ち着いたときの感銘は忘れがたい。とはいえ、作・演出の長谷基弘は、謎解きの推理小説のようにすべての謎をすっきり割り切って解決することはしない。どこかに謎のままの要素、別の解釈を許す余地を残すのが常だ。この不安定感も桃唄309の舞台の独特な持ち味になっている。

そしてそれと同じくらい心引かれるのは、こういった複雑な筋立てと微妙な不安定感がときに前衛的な雰囲気をかもし出すにもかかわらず、桃唄の舞台の根本にはいつも、素朴で力強いテーマがあることだ。たとえば2003年公演の『俺たちの進化』は、人類の歴史を、猿人・原人の時代から共同生活を営み社会を作り様々な技術や文化を生み出していく過程に沿って、それぞれの時代のエピソードを紹介しながら一気に下っていくユニークな構造の物語だったが、最後に心に残ったのは、いつの時代にもかわらぬ「家族の絆」というテーマだった。

さて、そんな桃唄309の最新公演『死せる母の石』。中野に完成したばかりの劇場、テアトルBONBONのオープニングシリーズの一つであった。
開演前の舞台上には、四角錐を中心とするオブジェがいくつも置かれ、白く塗られた角の部分が照明に浮かび上がって、先鋭な不安定感をかもし出す(このオブジェのいくつかはなかばで切ってあり、シーンによっては下半分を椅子やスツールとして使用していた)。やがて舞台の一角に設けられたDJブースにDJ(工藤ケンタ)が登場。曲が流れ始める(この舞台では、工藤氏が実際にこの場で舞台全体の音響を担当すると同時に、ときおり挿入される酒場らしき店のシーンでは店員の役も演じていた)。

ここから始まる『死すべき母の石』と題する舞台は、ある意味では「東京」という街そのものが主人公である。東京といっても作中で登場人物の一人が言うように、地域の人々との繋がりが今でも息づいている下町とは違い、「都会」という抽象的な言葉でも言い換えられる、一種のバーチャルな場としての「東京」である。

「死すべき母の石」公演

「死すべき母の石」公演
【写真は「死すべき母の石」公演から 提供=劇団桃唄309 禁無断転載】

始まったとたん、いくつかの筋が入れ替わり立ち替わり現われ、場面もめまぐるしく転換していくので、観客はいっときの油断もならず舞台を見守ることとなる。主な筋は、タイトルにも登場するとおり「母」(あらきひとみ)を殺され、その衝撃で家に引きこもって自分との対話を繰り返す「息子」(佐藤達)の話、遺体の死に顔を安らかにするためメークを施すことを仕事にしている女性たち(山口柚香とスガナミ)の話、人が死んだ場所に興味を抱いて写真を撮り続ける写真家(澤唯)の話、雑踏で人々が交わす断片的な言葉を収集して記録している医師(洪明花)の話、ゲーム感覚で詐欺を働くグループの話、などなど。これらはすべてバラバラなエピソードと見えて、たとえば殺された「母」の遺体にメークを施したのが山口演じる女性であったり、澤演じる写真家が「母」の殺された現場に興味を持って住居に侵入し、「息子」と鉢合わせしてなじみになってしまったり、その写真家と洪演じる医師が同じ酒場を行きつけとする友人同士だったりと、微妙に関わりを持つことが、舞台が進むにつれて浮かび上がってくる。

こういった関わり方は、「東京=都会」という場の象徴の一つのようで興味深い。
「東京=都会」では、大勢の人間が集中しているがゆえに、濃密に関わりあっていては身が持たない。あたかも他人のことには興味を持ちすぎないことがマナーであり生きるコツであるかのようにふるまうこととなる。そのため東京では、人間関係が極めて希薄だと思われがちだ。しかし、「関わりが薄い」ことは「関わりがない」こととイコールではない。大勢の人間が集中しているがゆえに、当人同士の知らないところで、人はどうつながっているかわからない。その繋がりは薄いどころか、時にはくもの巣のように入り組んで人を捕らえる、不気味な濃密さを持ってしまうのではないか、そんなことを思わせる。(一方人々は、犯罪に関わることなどについては、興味を持ってもマナー違反ではないと免罪符が得られたように、無責任な好奇心をむき出しにすることもある。劇中で佐藤演じる「息子」は、事件後のマスコミ取材などに振り回され、「東京には、本当の意味では、一人になって考え事する場所がない」と悲痛な声を漏らす。これもまた「東京」のもつ一面だろう)。

「東京」を象徴するもう一つが、劇中で何度も登場する雑踏のシーンである。せわしげに行き来する人々の会話が断片的に聞き取れるのだが、「え、犬?」「すっげえかわいい」、「あのあたり前住んでたんだよ」「なに食べる?」、「以前お話したと思いますが、金利の関係でですね」などのセリフは、実際に長谷基弘が街角で収集した言葉なのだそうだ。その中にときおり、この舞台の中で起こる事件に関するセリフと思えるものが混ざる(「息子だろどうせ」「わかんね」「だってさ、土地」など)。一見なんの関わりもないと思えるものの中に、関わりのあるものが潜んでいるのだ。昔あった「辻占」という風習をふと連想した(劇中には、そういったものすべてが何者かの陰謀であるという幻想にとらわれ、疑似科学的な分析を繰り返す人物として女木という男性(吉原清司)が登場していた。この人物が人ごみで発作を起こして倒れたとき、洪演じる医師が声をかけるまで皆無関心であるという場面もまた、「都会」の特徴を現しているのだろう)。

もう一つ興味深いことがある。限られた数の出演者で多くのキャラクターを演じなければならないとき、同じ人物が何役も演じ分けることは小劇場では珍しくない。しかし今回の舞台では、それを逆手にとった演出がなされているらしい。
たとえば、ゲーム感覚で詐欺行為を行うグループの一人を演じるあらきひとみは、冒頭で殺される「母」の役も演じている。あらきが別々の役を演じているのかもしれないが、実はこの「母」が本当に詐欺グループの一人だったという解釈も可能である(彼女を殺した犯人は最後まで明示されないが、よからぬグループの仲間割れで殺されたのではないかと解釈可能な要素がいくつも提示されている。ただし犯人は別にいるという推理も可能で、それについては見る人それぞれの解釈に任せられている)。このような例はほかにいくつもあり、誰かが見せている顔はほんの一部で、裏には複数の別の顔を隠しているのではないか、という冷やりとするような感覚を生み出す。

「死すべき母の石」公演

「死すべき母の石」公演
【写真は「死すべき母の石」公演から 提供=劇団桃唄309 禁無断転載】

話が少し寄り道するが、桃唄309の舞台にはもう一つ、「都会」に形成される思いがけない人々のつながりをテーマにした作品がある。2005年の「ファイブ・ミニッツ」がそれである。とある事件前の五分間に錯綜する人間たちの繋がりが、一体どこから発生していたかをさかのぼってサスペンス風に構成した舞台で、こちらも大変面白い内容だった。この「ファイブ・ミニッツ」と「死せる母の石」はその点で共通するテーマを持ちつつ、大きな違いもある。前者は最終的にちょっとしたカタストロフィ的な出来事が起こるので、様々な問題が一応リセットされ、それを切り抜けた人々の心境はすっきり明るいものとなるが、「死せる母の石」のほうはなかなかそれを許さないというところだろう。

佐藤演じる「息子」は、「母」の死からなかなか立ち直ることができない。死の現場を撮り続けていた写真家は病死し、ほかにも数人の登場人物が死んでいくらしいと暗示される。もどかしい思いが蓄積されていく。
しかし、それでは「東京=都会」に対して暗く冷たいまなざしを向けたままで終わる物語かと言えば、決してそうではない。「息子」が苦しんでいたのは、母を殺した犯人がわからないせいもあるが、生前の母とうまくいっておらず、最後に会ったときにもケンカをしてそのままだったという悔いが彼を縛っていたからだ。しかし引きこもって自分との対話を繰り返すうちに(最初は、一人の女性(竹田まどか)と対話しているように見えるが、実は彼女は脳内の存在であることが段々とわかってくる。さらに長谷によれば彼女は実のところ人間ではなく、「息子」が母の死を確かめるように執拗に、その死体のあった場所に置いては崩し続ける「紐」なのだそうだ)、ラスト近くでようやく外の世界に出て行く覚悟を決める。彼が雑踏に足を踏み入れたとき、吉原演じる女木がよろめくところと出くわし、あやうくそれを支えて助ける。その瞬間雑踏は、それまで何度か演じられたような殺伐とせわしない場から、人々が明るい笑顔で行きかう場へと変わる。この場面は実に鮮烈だった。世界はこうして、ほんのささやかなことでがらりと表情を変える。それはおそらく見る人の意識がそうするのだというメッセージを、これほど短い時間で鮮やかに見せてくれた例は、ほかに思いつかない。

舞台ラストは再び、母と息子が最後に会ったシーンへと戻る。息子が悔いていたように、息子は母のパチンコ中毒を責め、母は息子が定職につかないのを責め、とケンカに近いやり取りがあるのだが、それでもなぜか、母は息子を、息子は母を思いやっているのがわかり、しみじみした情感が伝わってくる。息子もやっとそのことに思い至り、自分の中の悔いと折り合いをつけることができたのかもしれない。

「東京=都会」は怖い。冷たい。危険だ。そういう言い方は可能だろう。ここでの「東京」はまた、「人間」と置き換えることも可能だ。ということはつまり、「東京」を形作るのは「人間」であり、人間次第で「東京」の姿も変わってくる。これもまた、実に素朴で力強いメッセージではないだろうか。

次の桃唄309の舞台では、果たしてどのような筋立てのアクロバットを見せてくれるか、またどのような力強いメッセージがその中に織り込まれているか。今から早くも楽しみで仕方がない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第165号、2009年11月11日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
光原百合(みつはらゆり)
1964年、広島県生まれ。大阪大学大学院修了。尾道大学准教授で文芸創作を教えるとともに作家として活動する。2002年に第55回日本推理作家協会賞(短編部門)受賞。演劇を扱った作品(小説)に『最後の願い』がある。他の主な著書として『十八の夏』『イオニアの風』など。

【上演記録】
劇団桃唄309『死すべき母の石
東京・中野 テアトルBONBON(2009年10月15日-25日)

戯曲・演出:長谷基弘
出演:吉原清司 森宮なつめ 吉田晩秋 山口柚香 佐藤達 國津篤志 貝塚建 洪明花 (ユニークポイント) 澤唯 (project サマカトポロジー) 竹田まどか あらきひとみ 井坂浩 スガナミ (地球割 project)

スタッフ
音楽・DJ:工藤ケンタ(Studio Elephant)
舞台監督:井上義幸(F.F企画)
照明:伊東馨
照明協力:有限会社アイズ
宣伝美術:イシカワユカリ
制作:ウィンドミルオフィス、MRoco.(三村)

チケット:一般 前売/予約 3,000円 当日 3,500円
学生 前売/予約/当日 2,000円
小中高生 前売/予約/当日 1,000円

企画・製作:劇団桃唄309 + ウィンドミルオフィス
主催:劇団桃唄309


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