ハイリンド「華々しき一族」/「お婿さんの学校」

◎古典喜劇の時代錯誤と普遍性の両方を味わう
片山幹生

「華々しき一族」/「お婿さんの学校」公演チラシポップで洒落た感覚で作品を照らし出すことによって、日仏の古典喜劇の普遍的な魅力を浮かび上がらせた優れた舞台だった。
ハイリンドは加藤健一事務所の俳優教室出身の男女4人の若い俳優による演劇ユニットである。毎回、公演のたびに異なる演出家を呼び、既存の戯曲を上演する。今回は中野成樹を演出家として招き、森本薫の「華々しき一族」とモリエールの「お婿さんの学校」の二本立て公演を行った。上演時間は前者が1時間20分程度、後者が30分程度の短い作品だった。

ハイリンドの舞台は2008年6月にデイヴィッド・オーバーン作の『プルーフ』(演出は松本永実子)を私は見ている。演出家によって変化はあるのだろうが、ハイリンドの役者はどちらかというと新劇系の演技スタイルである。丁寧な楷書体で書かれた文字を連想させるような細部まで神経の行き届いた人物造形によって、戯曲の意味を明瞭に伝える芝居が印象的だった。

ハイリンドと中野成樹という組み合わせの妙にまず関心を持った。中野成樹は、「誤意訳」という手法で海外戯曲を大胆にアレンジすることで、現代日本での翻訳劇上演の新しい可能性を追求する演出家である。二年ほど前に、中野成樹が文学座の役者たちを演出したサローヤンの一幕もの、「おーい,救けてくれ」を上演した舞台を見たことがある。 このときはサローヤンの戯曲の翻案(誤意訳)自体いまひとつ冴えなかったのだが、中野演出の独自のルーズさが役者の演技スタイルとうまくかみ合っておらず、ぎくしゃくとしたリズムの中途半端な芝居になっていた。文学座の役者のきっちりとした芝居が中野成樹の誤意訳の微妙なニュアンスを殺してしまっていたのだ。中野成樹の本拠地は「中野成樹+フランケンズ」という演劇カンパニーである。彼の演出が実はデリケートな馴れ合いの上で、役者と演出家の阿吽の呼吸のなかで成立していたことに気づかされた舞台だった。果たしてハイリンドと中野成樹の組み合わせは、日仏の古典喜劇の上演でどのような結果を生み出すのかが楽しみでもあり、不安でもあった。

今回の二本立て公演のもうひとつの注目点は、これまで主に海外戯曲を誤意訳という手法で翻案してきた中野成樹が、日本語で書かれた戯曲である「華々しき一族」をどのように扱うのかという点である。私は2年前に文学座のアトリエ公演でこの作品を見ていて、その舞台の印象はまだはっきりと記憶に残っている。中野成樹演出であるからには、まさか「本物」をなぞるようなまねはするはずがない。いったいどのような演出によって彼の独自性を示すのか。また森本薫とモリエールという国も時代も異なる作家の組み合わせの大胆さも興味深い。モリエールの喜劇も一般にはあまり知られていない小品が選択されている。戯曲の選択にもかなり挑戦的な意図を感じた。

「華々しき一族」/「お婿さんの学校」公演から
【写真はハイリンド「華々しき一族」/「お婿さんの学校」から。提供=ハイリンド 禁無断転載】

中野成樹+フランケンズの翻訳劇公演では、オリジナルのタイトルとは別の新しいタイトルを付与するのが通例になっている。よく知られた既存のタイトルを変更することによって、上演作品の「再生」を強調することを意図しているのだろう。しかし今回のハイリンド公演では、二本ともオリジナル・タイトルがそのまま使われている(「お婿さんの学校」は秋山伸子訳(臨川書店)によるもの。鈴木力衛訳では「亭主学校」)。公演タイトルを見ると中野がハイリンド、古典喜劇のほうへと歩み寄るようにも思えたが、実際の上演では中野演出が前面に出ており、ハイリンドが中野色に染まった感じだった。ハイリンドの四名の役者が各作品に分散して出演したため(女性陣、はざまみゆきと枝元萌は「華麗なる一族」に出演し、男性陣、多根周作と井原農は「お婿さんの学校」出演)、この劇団の演劇ユニットとしての個性、アンサンブルの緊密さの魅力が、今回の公演では後退してしまっていたたことに若干の物足りなさを感じないでもなかった。ただし中野演出はこの物足りなさを十分に補い余るほど効果的に機能していた。中野成樹の演出は古典と現代の間に存在する感覚のズレをごまかさずはっきり示し、そのズレを軽妙に強調することで、独自の軽やかさのあるポップな舞台を作り出す。こうした大胆な読み替え作業を行う一方で、古い作品の持つ普遍性は丁寧に抽出されており、舞台上でしっかりと提示されている。中野のテクストの読みの確かさがあの自由な解釈を可能にしたのだ。ハイリンドの面々は中野成樹の演出に柔軟に対応し、安定感のある芝居で洗練されたモダンな古典喜劇を作り出すことに成功していた。

コンクリート・ブロックほどの大きさのレゴ・ブロックでくみ上げられたカラフルな舞台美術は、中野の古典作品に対する自由な姿勢を象徴しているようにも思える。あたかも子供が玩具で遊ぶかのように無邪気に、そして真剣に対象と向かい合う。またこの可愛らしい舞台美術は、観客に対して、彼らが古典作品に抱いているしかつめらしい距離感、先入観を取り払い、リラックスして作品を楽しむよう呼びかけているようでもある。

最初に上演された森本薫の「華々しき一族」は、日本語で書かれた現代劇なので、誤意訳という手段は使うことができない。言葉を現代若者風に変更することを予想していたのだけれど、原作戯曲の台詞はおおむねそのまま使われていた。森本薫の書いた台詞は執筆当時の上流階級家庭の言葉を模したものだ。戦後の上流階級の言葉遣いは、当然、現代のわれわれの言語感覚からすると不自然に感じられるところがある。また森本薫の台詞自体はリアリズムで書かれているとはいえ、そこには新劇的様式性がすでにこびりついている。
中野の演出は敢えてその違和感と様式性を払拭しない。森本が書いた台詞をあえて無造作に、忠実に役者になぞらせる。そこでたち現れるぎこちなさは、戯曲が包含する時代錯誤であり、われわれが戯曲に対して持つ距離感を示している。中野版ではその感覚のずれを巧みに強調することで、絶妙な喜劇的効果を作り出していた。役者は登場人物そのものに一体化しようとしながら、その一方で常に言葉遣いや風俗、登場人物の心理の時代錯誤について客観的な姿勢を保ち続ける。役者がかかえるこの二つの立場の葛藤が舞台上で表明される。中野版「華々しき一族」を演じる役者たちはこの二つの立場に引き裂かれそうになっているようにみえる。この分裂は戯曲の言葉が作る世界と役者たちのいかにも現代の若者風の服装というずれによって視覚的にも強調されている。中野の演出は、きっちりと構築されたドラマそのものの面白さを提示しつつ、そのドラマが現代の役者によってある種の違和感とともに演じられていることも同時に示す。メタ演劇的仕掛けを全面的に施し、芝居に揺さぶりをかけすぎてしまうと、当然のことながら、役者の演技と観客の共同幻想によって成り立つ劇的世界の秩序は崩壊してしまう。中野演出では「華々しき一族」の戯曲の言葉とそこで描かれる風俗を一度敢えて忠実になぞることによって、作品に対して批評的な視点が導入される。こうして劇的世界の秩序を自ら崩壊させるわけであるが、この破壊はより強固な劇的世界の再構築を準備するものでもある。こうしたやり方によって外からの視点を劇内に導入することで、元の戯曲の構造の力強さや人物造形の巧みさを、現代の観客はより明瞭に把握することができるようになるからだ。中野成樹の優れたバランス感覚とその演劇美学をしっかりと消化した役者たちの演技がこのアクロバットを可能にしている。

「華々しき一族」からモリエールの「お婿さんの学校」へは短い暗転のあと、舞台美術のレゴ・ブロックの配置に変更を加えただけで、そのままあっさりと移行する。そもそも「華々しき一族」の終わり方が曖昧だった。舞台上にいる女たちがみんな涙を流す場面で終幕のはずなのだが、中野版ではうやむやのうちに「華々しき一族」が終わり、暗転のあと、いきなり「お婿さんの学校」の登場人物が舞台に登場する。この無造作で乱暴な移行のしかたがとても洒落ている。舞台の世界は一気に十七世紀のフランスへ。登場人物は当時のパリのブルジョワである。しかし人名こそフランス人だが、舞台上の人物の服装や言葉遣いは明らかに現代の日本の若者のものである。モリエール作品は 「正統的」な誤意訳スタイルで再現されていた。だらだらとしたルーズな現代日本の若者ことばで十七世紀フランスの古典喜劇が再現される。大胆で洗練された和風化・現代化によって、十七世紀のフランス喜劇作品が生き生きとした現代性を獲得していた。

作品の梗概は以下のようなものだ。スガナレルとアリスト兄弟には、イザベル、レオノール姉妹という許嫁がいる。厳格なスガナレルは恋人のイザベルを軟禁し、その自由を奪うことで、彼女の愛を独占しようとする。アリストはスガナレルとは対照的に、社交界で愛想をふりまく恋人レオノールの行動を束縛したりしない。イザベルはスガナレルに嫌気がさしており、彼と別れヴァレールという別の男と一緒になることを密かに望んでいる。スガナレルは、イザベルの策略にひっかかり、そうとは知らぬまま彼女とヴァレールの恋の仲介役をせっせと努める。最終的には許嫁を束縛していたスガナレルはイザベルを失い、許嫁の自由を尊重していたアリストはレオノールと結ばれる。

役者たちは十七世紀パリのブルジョワの若者になりきるのではなく、現代の日本人という属性を身につけたままその役を演じる。国や時代の違いを乗り越えるのではなく、その違和感をうまく生かすことで「お婿さんの学校」は現代の日本人が素直に楽しむことができる喜劇になっていた。リズムのある展開のスピード感が心地よい舞台だった。「華々しき一族」とは異なったやり方ではあるが、モリエール喜劇の持っている普遍性は中野翻案によってより明瞭に示されていた。
フランスのコメディ・フランセーズでも、展開のスピード感やファルス的な笑いを強調したりするなどして、現代劇風の趣向でモリエールの喜劇が演じられることは珍しくない。しかしフランスでモリエールを上演する場合には、戯曲の言葉にしばられてしまう。いかに現代風の解釈で斬新な上演を行うにせよ、フランス語での上演では十七世紀のモリエールが書いた古風な韻文の台詞の束縛から逃れることは難しい。しかし日本で上演する場合は、言葉も自由に現代化することが可能なのだ。舞台台本の作成にあたって、オリジナルの改変はつきものであるが、中野成樹のやり方は徹底していて、現代日本の若い役者の身体に自然になじむレベルまで、原テクストの改変を進める。その言語はリアルな日常言語の模倣ではない。現代の日本人の目で作品を対象化するメタ演劇的性格を持つ独自の舞台言語だ。しかもこのメタ演劇性は、作品とその背景について相当量の知識を持つ特権的な読者ではなくて、古典に対してほぼ白紙の状態で向き合う一般的な観客の感覚が重視されているのだ。もっとも観客の作品受容のあり方は、中野の演出によって巧みにコントロールされているのであるが。
劇内世界と劇外世界の二つの世界をルーズに行き来させる曲芸的な操作によって、中野成樹は作品の持っている普遍的な魅力を巧みに引き出す。古典戯曲の普遍性とは何か? それはしっかりと構築され安定した戯曲構造の持つ力強さであり、描かれる人物類型の組み合わせの妙が生み出すドラマである。モリエールの「お婿さんの学校」自体、紀元前二世紀にラテン語で書かれたテレンティウスの「兄弟」の翻案のようなものだ。十七世紀のパリ・ブルジョワの風俗の描写を巧みに織り込みつつも、「お婿さんの学校」はその中心となる劇構造、そして劇中人物の主要な類型は、テレンティウスの作品から取られている。十七世紀後半のフランスの劇作家モリエールの何編かの作品、そして十六世紀後半のシェイクスピアの喜劇作品の一部は、古代の喜劇作家、プラウトゥスとテレンティウスの作品からその多くを借りているのだ。
このような視点から見ると、中野成樹は現代の日本においてきわめて正統的なかたちで古典劇を翻案・上演しているのだと逆説的に言えなくもない。
(初出:マガジン・ワンダーランド第170号、2009年12月16日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
片山幹生(かたやま・みきお)
1967年生まれ。兵庫県出身。早稲田大学ほかで非常勤講師。専門はフランス文学で、研究分野は中世フランスの演劇および叙情詩。ブログ「楽観的に絶望する」で演劇・映画等のレビューを公開している。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ka/katayama-mikio/

【上演記録】
ハイリンド Vol.8 『華々しき一族』(森本薫)/『お婿さんの学校』(モリエール)
赤坂レッドシアター(2009年11月18日-23日)

■出演
『華々しき一族』(森本薫) 枝元萌 はざまみゆき 芥勘兵衛 浜谷康幸 高藤真奈美 阿部よしつぐ
『お婿さんの学校』(モリエール) 伊原農 多根周作 小泉真希 宇津井香織 赤荻純瞬 西地修哉 磯見美麦之
■スタッフ
演出/中野成樹
舞台監督:井関景太 鈴木晴香(るうと工房)
照明:石島奈津子 照明操作:割石敦子(東京舞台照明)
音響:高橋秀雄(アラベスク)
音響操作:野中祐里
舞台美術:向井登子
衣装:山本亜希
宣伝美術:西山昭彦
スチール:夏生かれん
撮影ヘアメイク:粟島一寛
ハイ友:鍋谷ナナオ 磯見美麦之
WEBデザイン:薮地健司・夏子
制作:石川はるか
制作協力:藤田登茂香

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