◎驚き、不思議、カンボジア 影絵芝居で神に逢う
岡野宏文
まだかなりわたしがコマかったころ、全校生徒を講堂に呼び集めて人形劇を見せたりする恐ろしいたくらみがたびたびあった。ものは糸あやつりである。演目はたいてい「アラジンと魔法のランプ」とか「イワンのバカ」とか、「肉体の門」なんかはなかなか来ないのであるが、まあまあ見てやってもいいかなというレベルのお題ではあるので、おとなしく腰を下ろすのであった。腰を下ろさないあまたのご学友たちは、上履きをぶつけ合っちゃ奇声を上げるという華やかないとなみにすっかりご執心であられ、実に幸せそうに見えた。人の幸せをむげにひねりつぶすこともあるまいにと思うものの、無慈悲な教師たちに頭などはたかれて彼らの幸福は泡とはじけていくのだった。
しかし、「なんということでしょう」(c劇的ビフォーアフター)わたしの座った位置から舞台までの距離は春先のジブラルタル海峡のように離れているではおらぬか。その舞台をさらにカーテンで仕切って入れ子にした本ステージの小ささときたら箱庭のゴジラ、登場する人形は小指の爪である。これじゃなにをやってるんだか分かりっこない。わたしの気持ちはそそくさと萎える。
ところがこのあと、実に奇っ怪なことが起きるのである。
上演が始まってしばらくすると、絶対に狭いはずのパフォーマンス空間が、なんとジワジワと膨張しだすのだ。やがて小指の爪ほどだった人形たちは、目の前で動いているかのように微細なニュアンスをもって生き生きとふるまいはじめ、一抱えしかなかろう魔神の図体は小山のごとく視野を圧倒する。
これらはみな、人の眼に仕込まれているズームレンズの魔法のせいであると分かったのはずいぶん後のことだ。眼玉というやつは、小さいものはいつの間にかアップにして、大きすぎるものは少し引きにして、自然に見やすいフレームに変換して見ている。考えたらすごいことだ。カメラよりグンと高機能。今デジタルカメラだと28mmから210mmくらいまでをズィーンと一本でこなしているけど、一昔前の一眼レフならレンズが三本必要だったわけであり、人間の眼はそれと同じズーム機能が装備されていながら、なにしろレンズと違って飛び出さなくてもいいのである。いやもちろん飛び出したらそっちのほうがずっと面白いけど。暗闇の中で三百人の子供の六百粒の目がカタツムリのように一斉に飛び出している。これはこれで牧歌的な風景かもしれない。
さて、わがご幼少のみぎりを偲んだのは、大型影絵芝居「スバエク・トム」を見たからだ。このお芝居はカンボジアの伝統芸能にして、ユネスコ無形文化遺産に選定されている人形を使った影絵劇。9~12世紀に栄えたアンコール王朝期に生まれたという説もあるが、本当のところは謎に包まれているらしい。いいね、そういう怪しげなところは演劇界のみなみなさまに是非見習ってほしい。いつ生まれたかどころか、本当に生まれてるのかどうか怪しい劇作家。何人いるんだか曖昧な演出家。いつ会っても血みどろの制作。楽しい。
いやそれで「スバエク・トム」の話。かつては大きな仏教行事、とりわけ高僧の火葬儀礼に7日間から時には二週間も雇われて、夜ごと明け方まで連続上演をしたというのよ。「コースト・オブ・ユートピア」「ヘンリー六世」と聞いただけで軽く寝込んだわたしは、こんなものを見たら高僧より前にあの世に着いてること間違いないね。鶴亀、鶴亀。
彼らの演目はただひとつ「リアムケー」だけ。「リアムケー」っつうのは古代インドの長大な叙事詩「マハーバーラタ」と「ラーマーヤナ」のうち、後者を元とする神話物語である。ノリエイ神の化身であるリアム王子(「ラーマーヤナ」ではヴィシュヌ神の化身ラーマ王子)と魔王リアップの間に繰り広げられる大戦争を、いくつものエピソードで勇壮に華麗に、そして幻想的に描いていくというもの。今回来日した「ティー・チアン一座」は伝統を受け継ぐいくつかの劇団の中でも中心的位置にあって、劇団名をかつて座長を務めた斯界の長老の名にちなんでいると聞き及ぶ。
五間ばかりの白布を張り立ててこれがスクリーン。むこうっかわに明かりを灯し両手でかざした人形の影を映し出す寸法である。物語の語り手はふたり、この人たちはほぼ人形を動かさず、場面にあわせた韻文詩と散文詩で、抑揚とテンポを編み上げていく。下手にプンピアットと呼ばれる打楽器メインの合奏団がひかえ、賑やかな音楽を繰り出して観客を酔いごこちさながらの祝祭気分にいざなうのも素晴らしいわけ。なんかね、「いいさ、俺にだって明日はくる」そんな気分になるね。
お話を説明しよう。このたび上演されたのは、長い物語の一部をとりだして
三章に縒ったエピソード。
第一章、魔王リアップは、誘拐したリアム王子の妻そっくりに化けさせた姪に溺死体の真似をさせ、王子の心をかき乱す。賢い家来ハヌマーンの助言で火にあぶられた姪ポンニャカーイは化けの皮がはがれ、故郷へ送り届けられる途上、想いをよせたハヌマーンと結ばれる。
第二章、魔王の子アンタチットは「蛇の矢」を得るために瞑想中。それを破ったリアムに怒り、アンタチットは偽アンタチットを戦場に送り、リアムの弟レアクの苦戦を狙って「蛇の矢」を放つ。蛇のごとく締めつけられて苦しむレアクらを知り、リアムは鳥神クルットに助けを求め蛇たちを食いちぎってもらう。
第三章、急襲されたアンタチットはレアクから「千の矢」を受ける。体中に突き刺さった千本の矢は彼に死の苦しみを与えるが、母の慈愛によって抜くことができた。もう戦場へ戻るなという母や妻の声を振り切り、死を予感しながらも彼は兵を挙げるのだった。戦場でアンタチットはリアム王子の矢を受け最期をむかえる。
ちょっと粗いけどこんな感じか。
そうそう、ひどく変わっているのが、この影絵芝居の場合、演者の影も丸ごとスクリーンに映ってしまうという点だ。人物が走って袖に入る時あやつり手は片足をヒョイッと上げ、勢いをつける仕草をしやがるのだ。いや、なさり遊ばすのね。そればかりか時に彼らは幕の前に現れて芝居を続けようとするではないか。戦いのシーンとなれば演者と演者が組み合いのごとき所作までするていたらく。いえ、ありさまでございます。私たちは文楽という、演者が姿を見せる独特の人形芝居を有しているが、それよりも遥かにこのジャンルの常識がうち破られているといっていい。不思議にも、そうした演者の立ちあらわれは決して観客の幻想を破らなかった。私たちはあやつり手の身体も幻想のなだらかなグラデーションとして劇を見ていたに違いない。演劇ってやつからは、時にこのような辻褄の合わない現象がやってくるのでやめられないのだ、完全には。
人形そのものは動かないのもとても面白かった。いや、あやつられて動きはするんだけど、なんというか。人形の手や足に紐や棒をつけてクイックイッと動かすのはよくある。しかし彼らが操る人形にはそのような仕掛けがいっさい施されていないのである。それは大きな牛の皮を精緻に切り抜いた、人の背丈ほどもある一種のプレートで、形状としてはまあ巨大な団扇といったところか、中央に描き出された人物のまわりを実に華麗な文様が取りまいていて美しい。これをかかげもち左右にブラす、あるいは上げ下げする、たまにスクリーンや相手の人形にぶつける、なんとこれだけのアクションしかないのである。つまらないはずだ、退屈なはずだ、脳味噌はそう訴えるのだが目は断然否定する。ウーン、こりゃあなんだろう。
何が働いているのか、少しだけ考えたのである。上演する前に儀式があったのだ。日本では歌舞伎・能・文楽の前に神様か仏様に祈りをささげるという風習はないけど、あっ、だけど相撲にだけはすっかり元の意味は抜け落ちちゃってるけどそれらしきふるまいが残っているよね、で彼ら劇団一同は開幕に先立ち、幕前に聖仙アイサイ、ノリエイ神、アイソー神をかたどった三枚の人形を立てかけて祀り、供え物を置き、芸能の神と先師の霊ともろもろ自然の神々を呼び出して、上演がうまくいくように観客ともども祈りを上げるのだ。
インドのコスチューム・プレイなんかでもお祈りは必ずあるので、そのこと自体には驚かなかった。ちょっとびっくりしたのは、祀っている対象が、これからあやつる人形と同じものだってことだ。一体なんか、もろそのまま劇中で使っていた。使う人形に祈る、こういう発想は日本人にはないだろう。どうしてこういうことになるのか。どんな心のからくりなのか。
第三章がなかほどまで進んだとき、さらに驚きが待っていた。物語を中断してふたたび始まった祈りの儀式は、なんと、劇中で死を迎えることになるアンタチットへの魂しずめなのである。彼の武勇を讃え、その死を演じることを詫び、天界に生まれ変われるよう祈る。いや神話世界の人物なのだから、すでに数百、数千年前に亡くなっていらっしゃるのでは、というのが私たちの感覚だと思う。また、冒頭なり終幕なりに一緒にお祈りすればいいじゃないか。なぜわざわざ芝居をとめて、という違和感もぬぐえまい。ましてやその死を演ずることを詫びるっちゅうのは、何だこれはっ、わたしは岡本太郎である。
おそらくこう考えるしかない。劇場というフィールドで使われるこの人形たちは、ほんものの神なのである。神をかたどったものなどではない、はっきりと彼岸の存在なのだ。なにかに似せて作った人形が、演技の間だけ仮の神々や人々を真似てみせる、そういう私たちの日常感覚とは最初の立ち位置がすでに逆転している。いやたとえばこれ、仏像を祈るって気持ちとも全然違うでしょ?仏像は偶像としては機能してるけど、それ持ち出してお祭りで担がないものね。
だが付け加えれば、これはひどく怖いことだ。抜き身の神をもって演劇の中に入ってゆく。もしかしたらこのとき人形をかかげる身体は神の一部だ。演技者が役の心を人形に乗り移らせるのが通常の理解だが、ひょっとしたらこのお芝居は人形の役があやつり手を動かしているのかもしれない。わたしはだんだん怪しげな気分になりながら、激しいパーカッションを全身に受け、たぶん今ひたっているのは日本ではもうほとんど味わうことのない、一種の宗教的体験というか、アニミズム的な神との接触だと感じていた。
聞けば、現地でもこの手の伝統芸能はおいそれと隆盛というわけにいかず、年10回程度のアンコールでの観光客向けのほかはなかなか公演もむずかしいらしい。まことに残念である。この影絵芝居から立ち上る魔か不可思議な味わいを、我々も含めたもっとたくさんの人が見るようになればいい。同時にかの地ではまだ日常的に交歓する感覚のある神と人とのふれあいがいつまでもなくならないように、そして日本では演劇でも映画でも相撲でも競馬でも石原の好きなカジノでも、なんでもいいから文化の中に神への畏怖の手触りが少しでも戻ってくるように。文化ももうここまできちゃってるんだから、破れかぶれこの際欲張っておこう。とにかくすこぶる面白かったのだ。
最期になったが、本劇団の招聘元である財団法人現代人形劇センターは、日本の人形劇団はもとより、すぐれた海外の劇団の紹介・交流にも重点を置き、1969年より伝統と現代をつなげる活動を推進し続けている。人形劇に限らぬが、ヨーロッパやアメリカの表現には比較的触れることができるものの、距離の近いはずのアジアのパフォーマンスにはなぜか縁遠く、しかし触れてみるとこれが存外に驚きとエネルギーに満ち、美しさと感動をつれてくる。これ以後も同センターの活動につよく期待するものである。
(初出:マガジン・ワンダーランド第170号、2009年12月16日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
岡野宏文(おかの・ひろふみ)
1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「せりふの時代」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に「百年の誤読」「百年の誤読 海外文学編 」(豊崎由美と共著)「ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)」(扇田昭彦らと共著)「高校生のための上演作品ガイド」など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/
【上演記録】
カンボジアの大型影絵芝居「スバエク・トム」日本公演~シリーズアジアの人形芝居part15~
◎全国公演日程◎2009年
伊丹:11月 15日(日) 14:00(開場13:30)
仙台:11月 17日(火) 18:30(開場18:00)
川崎:11月 21日(土) 15:00(開場14:30)
東京:11月 26日(木) 19:00(開場18:30)
11月 27日(金) 14:00/19:00
東京公演<会場>アサヒアートスクエア
◆チケット◆全席自由 前売・一般3500円/学生3000円 当日・一般4000円/学生3500円
この芸能は[ユネスコ人類の口承及び人類の傑作の宣言]リスト(通称ユネスコ無形文化遺産)に選定されています。
※日メコン交流年2009認定事業
●主催:(財)現代人形劇センター
●後援:外務省/カンボジア大使館/日本アセアンセンター
日本ユネスコ国内委員会/(財)ユネスコ・アジア文化センター
(社)日本ユネスコ協会連盟/国際人形劇連盟日本センター
●助成:文化庁/(財)アサヒビール芸術文化財団/(財)国際コミュニケーション
基金
●協賛:アサヒビール(株)/富士ゼロックス(株)/富士ゼロックス端数倶楽部
●協力:カンボジア文化芸術省芸能局/(社)シャンティ国際ボランティア会/
カンボジア市民フォーラム/日本メコンフェスティバル実行委員会
日本ワヤン協会/パペットマーケット/かながわ開発教育センター(K-DEC)
川崎エスペラント会