快快「インコは黒猫を探す」

◎「微分化」された日常を映す
今井克佳

「インコは黒猫を探す」公演チラシ1月下旬、三軒茶屋のシアタートラムにて、「シアタートラム ネクストジェネレーションvol.2」として、三つのカンパニーによる公演が行われた。幸いにも、三作をすべて見ることができた。それぞれに興味深かったのだが、今回は最初に見た、快快の「インコは黒猫を探す」について語りたいと思う。他の二作については機会があれば補遺として書き継ぎたい。

快快については昨年のFestival Tokyo秋の際に、FTカフェで「快快のGorilla」というパフォーマンスをやっていたカンパニーである、ということくらいしか知らなかったが、トラムに足を運んでみると、上演日が少ないとはいえ、立ち見の出る盛況に驚いた。非常に人気の高いカンパニーのようで、私の周りでもよい評価の声を多く聞いた。今回の作品は三年前の、「Zellar Schwarze Kats[論文編]」をリニューアルした再演であるという。

三人の若者が、その中の一人の家に集まり飲み会をする。この家には二羽のインコが飼われている。三人は三年前にも同じようにこの家に集まったようだ。別々の役者たちが演じる、三年前の三人と現在の三人が舞台に立ち代わり現れ、現在の自分が過去の自分に言及する。二羽のインコもまた男女の俳優が演じる。(バレエの動きでインコを演じる黒木絵美花が可愛らしい。)

そしてこの家の傍に現れる黒猫。それら人間や動物が時には役を入れ替えながら、何気ない日常でもあり、連続する笑いとばか騒ぎのパフォーマンスとも入れるようなシーンが重ねられて行く。

ここに抒情的なものをみることは確かにできるのだろう。ネットを見ても多く好意的な感想が出ている。しかし個人的には、作品としての完成度の低さが気になった。全体として何を見せようとしているのか。背景に大写しされるインコなどの写真はきれいだし、ロビーや客席へのエントランスまで飾り付けをする雰囲気作りも素敵だ。しかし肝心の演技、演出(特に場面転換)がかなり素人臭く感じた。本当にただ舞台上で若者がばか騒ぎをしているように思えてしまったのだ。

「インコは黒猫を探す」

「インコは黒猫を探す」
【写真は「インコは黒猫を探す」公演から。撮影=加藤和也 提供=快快 禁無断転載】

多分、もう自分の感性が古くなり、若者の感性や話し方、ダンスやパフォーマンスについていけなくなっているのかもしれない。あるいは年齢の問題だけでなく、快快が提示している身体や演技は、現代人の日常の身体であり感性と直結しているのかもしれない。それは、日常の身体であり、演劇史の中で受け継がれて来た演劇の身体ではないのではないか。

またそれは「チェルフィッチュ」が提示する、作為的に模倣された現代の身体でもない。(役者が語る身振りには明らかに「チェルフィッチュ」に影響されたような点も見受けられたが。)無作為に提示されている無防備な身体というべきか。

劇中、ほんの少しだが、TwitterとiPhoneが出てくるのが象徴的だと思う。Twitterは日本では昨年、劇的に広まったネットツールで、140文字しか書けないミニブログとも説明されるものだ。筆者もなぜかハマってしまっているのだが、そのTwitter上で、Twitterのタイムライン(自分がフォローして読んでいる人たちの「つぶやき」の連なり)について、芦田宏直氏が、デリダなどの現代哲学の見地を援用して「微分化」という概念を用い、Twitterのタイムラインを、すぐれてポストモダン的な現象と定義している。

すなわち、そこでは、統一された「人格」や「かけがえのない個人」としての「積分」された人間は影を潜め、「微分」されたそれぞれのシーン(140文字のつぶやき)が連なり、深遠な発言も日常的な発言も無差別に流れて行きとどまることがない。しかしその結果、「他者接近性」も高くなるという。(芦田氏のTwitter論はまとまってはいないが、たとえばここである程度読み取れる。http://www.ashida.info/blog/2009/11/twitter_2.html)

Twitterこそ、すぐれてポストモダン的な人間関係を現象させるツールであるとすれば、それが再演であるこの作品に現れたのは意識的でないにせよ、むしろ象徴的だ。快快のこの作品もまた、Twitterのタイムラインのように、日常のつぶやきの羅列であり、「積分」される統一的な主体は解体され、ばか騒ぎも、パフォーマンスもダンスも、動物化も、抒情性も、ただ流されて行き、あいまいな印象しか残さない。

「ネクストジェネレーションvol.2」公演チラシ同じ今回のネクストジェネレーションvol.2参加作である、G.comの「闘争か、逃走か」やFUKAIPRODUCE羽衣の「あのひとたちのリサイタル」も、快快と同様の「微分化」が感じられる面もあったが、逆に、快快と違って、どこか現代演劇の流れに連なっているように感じられた。G.comの作品における不条理劇的な設定や登場人物たちはどこか別役実作品の雰囲気を持っていたし、羽衣の「妙ージカル」(妙なミュージカル)での役者たちのオーバーアクションや舞台美術は、特権的肉体を主張したアングラ劇の匂いを残しているように感じられた。

しかし快快の「インコ」は現代演劇史の流れからは少し離れたところから立ち上がって来たように思う。それは「ポストパフォーマンスダンス」として「ビヨレリヨ」というベジャールのバレエ「ボレロ」をセリフ付きの身体でパロディ化したような作品が付け加えられていた(少なくとも筆者が見た回では)ことからもわかるように、ダンスとの境界線から生まれて来ているようだ。

東京芸術劇場で同時期に「芸劇eyes」の一環として上演されていた「冨士山アネット」の長谷川寧による「EKKKYO-!」というダンス、パフォーマンス、演劇のカンパニーのオムニバス公演もまたこうした境界線のあたりから新しい表現が生まれつつあることをよく示しているのだろう。

快快の「インコ」は、見て来たように演劇表現としては新たな地平を開いており、またそれがポストモダンというこの時代を象徴するものであることは疑いない。しかし、筆者は手放しでそれを素晴らしいということはできない。そこには「訓練」されていない日常的すぎる、つまり「貧しき」身体と、筆者には表現したくなるものがあるからだ。こうした思いが筆者の古い感性に属するものなのか、演劇というものそのものに対する問いかけなのか、もう少し考え続けてみたいと思っている。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド第178号、2010年2月17日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
今井克佳(いまい・かつよし)
1961年生まれ、埼玉県出身。東洋学園大学教授。専攻は日本近代文学。ブログ「ロンドン演劇日和&帰国後の日々」
・wonderland 寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/imai-katsuyoshi/

【上演記録】
快快(faifai)「インコは黒猫を探す」(シアタートラム ネクスト・ジェネレーション vol.2 世田谷区芸術アワード“飛翔”受賞者公演)
シアタートラム(2010年1月20日-22日)

■出演 中林舞 山崎皓司 板橋駿谷 黒木絵美花 菅原直樹 墨井鯨子(乞局) 竹田靖 千田英史(Rotten Romance) 師岡広明

■スタッフ
作 篠田千明
演出・振付 野上絹代

舞台監督 佐藤恵
美術 佐々木文美
照明 富山貴之
音響 星野大輔
衣裳 藤谷香子
テキスタイルデザイン 大道寺梨乃
演出補佐 北川陽子
宣伝美術 天野史朗
キャラクターデザイン しんぽうなおこ
写真 加藤和也
faifaiせーさく 山本ゆい

ポストパフォーマンスダンス『ビオレリヨ』(1月21日-22日)
■出演 板橋駿谷 糸山和則 大石貴也 黒木絵美花 竹田靖 田島冴香(東京タンバリン) 田村健太郎 福田貴之 堀田創 前野未来 光永由佳 墨井鯨子(乞局) 師岡広明
■料金 全席指定・税込 当日2,500円、前売 一般=2,500円 TSSS(学生席)=1,250円(枚数限定、要事前登録)高校生以下=1,250円

【主催】世田谷区、財団法人せたがや文化財団
【企画制作】世田谷パブリックシアター
【後援】世田谷区
【協力】東京芸術劇場(財団法人東京都歴史文化財団)、東急電鉄、東急ホテルズ、渋谷エクセルホテル東急
平成21年度文化庁芸術拠点形成事業

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