チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?」(クロスレビュー)

「わたしたちは無傷な別人であるのか?」
チェルフィッチュ公演チラシ

話題を呼びに呼んだ公演でした。チェルフィッチュ久しぶりの新作公演であり、準備段階からプレビューや公開リハーサルが注目されました。公演はSTスポット(2月14日-26日)、横浜美術館(3月1日-10日)の二か所で行われましたが、その間にもかなりの変化があったようすです。ですから、今回のクロスレビューでは観劇日にもぜひご注目ください。以下、★は5つで満点です。(編集部)

藤原央登(劇評ブログ『現在形の批評』主宰)
★★

演劇でなければならない必然がいまいち見出せなかった。要領を得ない、だらだらした言葉と身振りを禁欲的に排した今作。ノイズをカットした果てに舞台上に表出したもの、それは静かな風景。以前のように、語り手の内で複雑な主体のスライドを見せることはなく、順繰りに人物自体がスライドしてある構図を作る。そして、時折発せられる「私は彼が●●しました」といった、あくまでも客観的眼差を守る語り口が、主体と身体性のない人物風景を立ち上げる。
それを担保するのが、資本の歯車となることで手に入る「幸せ」への是非。そんな、死に体となった人間は私達とは無縁なのか?と反語的に問う。そのための装置が、全てを客体化する視点というわけだ。
「不幸せ」な闖入者だけが、資本の論理から脱落した立場を逆手に取る形で、かろうじて自由に振舞う位置にある。だが、もはや死に体には何の効力もない。彼も風景の一部として取り込まれるしかないだろう。
さらに、客体化された人物風景は、それを取り巻く(遠景のタワー型マンション、ブランコを漕ぐ2人の少女、夫婦の逢瀬)シーンを、私達の脳内で補強させて豊穣なイメージを抱かせもする。だが、それは極めて小説的なやり方だ。主題の前景化を齎すための方法論のブラッシュアップ、要はそれが冒頭に記したことの理由である。
(観劇日 2月21日ソワレ)

山田ちよ(演劇ライター)
★★★★

「幸せ」という言葉が表すものの範囲はかなり広いはずだが、その意味の幅を狭めることはしないまま、繰り返し使う。これが初め、苦痛だった。例えば「あなたって幸せな人ね」という言葉で無神経や思いやりの欠如を非難することもあるから、何か深い意味があるのか、と考えてしまったからだ。やがて、ここでは浅い意味で使っていると分かったら、楽になった。今まで気にしなかったが、言葉の上辺の意味だけを押し付けてくるのも、岡田利規の特徴かもしれない。印象的なのは、ミズキという女性が主人公の夫妻の家を訪れるまでの行動や周りの様子などを、3人の女優が交互に語る場面だ。ある人物の行動を一つ一つ説明する、という表現はときどき見られるが、たいてい笑いを誘う。ところがこの舞台では、作・演出のせいか、観客のせいか、あるいはこの日だけなのか(この場面は毎回、語り手が入れ替わるなど変化する、と聞いた)全然笑いが起きない。そこに興味を覚えた。
(観劇日 3月2日)

「わたしたちは無傷な別人であるのか?」
【写真は「わたしたちは無傷な別人であるのか?」公演(横浜・STスポット)から。 撮影=松本和幸 提供=precog 禁無断転載】

片山幹生(早稲田大学非常勤講師)
★★★★

大人としての成熟を受け入れることを頑なに拒否しているかのような登場人物が「幸福とはどのような状態であるのか?」といった素朴な問いかけを繰り返し行う。外国語のテクストを、辞書でことばの意味を確認しつつゆっくりと精読するかのように、彼らは自分たちが観察し、感じている日常のなかの違和感、とまどいを言語化していく。役者は奇妙なポーズで静止したり、彼らが抱えている倦怠感にずるずるとひきずりこまれるような重い動作を行ったりしながら、演じ、語る。一つの語りが終わるたびに空白があり、語りは暗闇に投げかけられる。観客はその空白のたびにその語りを受けとめることになる。報告される事柄とそれを観察し報告する「私」の間にある微かであるが決定的な乖離、違和感が表明される。ある特定の世代が抱きうる普遍的な不安定感、フラストレーションをこの作品は的確に表現している。サルトルの『吐き気』、カミュの『異邦人』をちょっと連想した。(観劇日 2月22日)

因幡屋きよ子(因幡屋通信発行人)
★★

キーワードは「幸せ」である。結婚4年めの夫婦が住むマンションに友人の女性が来て食事をともにする。友人が帰ったあと、夫婦は何となく触れ合いはじめるが、行為は途中で終わったようだ。夫は妻の手を握り、「大丈夫だよ」と言う。劇場にひとりで出かけて誰とも言葉を交わさなくても、多くの方々と時間と空間をともに過ごしたという実感がある。ところがチェルフィッチュの場合、その共有感覚が得られない。また登場人物どうしの生き生きした対話がなく、これらの点においてどうしても苦手意識を持ってしまうのだが、終演後自分は人物のうちの誰かがそばにいて、何かしら問いかけ、話している妄想にかられるときがある。横浜美術館前の広場は暗く静まりかえり、高層ビルの明かりは夢のように美しい。自分はひとり立ちつくしたまま、漠然とした不安にかられるあの妻と「幸せ」について、舞台で成立していなかった対話を、場外で行おうとしているのである。
(観劇日 3月1日)

カトリヒデトシ(ウェブログ「地下鉄道に乗って-エムマッティーナ雑録」主
宰)
★★(2月20日)
★★★★(3月5日)

ことばと身体を切り離すという流儀から離れ、彼らの身体こそがチェルフィッチュといえる山縣太一や松村翔子を拘束してしまい、ことばが生み出す世界の中でどのくらい「なにもしなくて」すむかを考え抜こうとした、と見た。
「色即是空」とつぶやいてしまった。空は「縁起」である。森羅万象はすべて縁起の中にある。縁起とは「すべては関係性の中で生々滅々すること」と私は理解している。しかしさらに重要なのは「空即是色」である。関係性こそが森羅万象を生み出す。そしてその関係性を生成させるのは「ことば」に違いない。
「ことば」が生み出す関係性を、演技を退け身体だけで表現しようとした結果、身体は身体だけで実存できるのか、という追究をも行うことが可能になった。2度見た時に生じた「差異」からそれを強く感じることができた。
20日間22回公演という長期間に日々試みられ、日々変化しいくことにこそ真の狙いがあったのだと思う。

中野三希子
★★★★

新築のマンションに部屋を買い、職場の後輩と食事を楽しみ、お互いがパートナーを愛おしんでいる主人公の夫婦。そこに立ち浮かぶ「幸せへの不安」。‐なんて贅沢な不安だろうか。何も持たない小娘である私は一瞬、反発さえ覚えた。が、ならば私にとっての幸せとは何だろうか?
舞台上では、台詞の主述が結び付かずに、なんとなく言葉がすり替わる。複数の役者達が、1つの役をなんとなく入れ替わって演じていく。それと同じに、我々の立場や幸せなどというものは、なんとなく、で変わりうるのだ。
生きることへの不安は誰しもが持っている。一見「無傷」であり、つつがなく幸せを感じていられる時にふと押し寄せるそれは、明確な傷を持たぬがゆえに、より漠然とした哀しみになる。劇中、妻である女性が幸せに理由を求めるのは、無傷であることの後ろ楯を求めていたのだろう。
無傷、別人、そして幸せ、とは?そう問われると、ちょっと怖くて泣きそうになる。
(観賞日 3月3日)

谷杉精一(グラフィック・デザイナー)
★★★

足下を見ると、裸足、靴下、室内履き、スニーカー、ブーツとバラバラ。一旦ハケたのち裸足になった役者もいた(と記憶する)。それは舞台上は同一平面でなく複数の役者が同時に居る場合も同じ平面/空間でないことを示す。もちろんSTスポットの床ですらない。と考えるとそこはやはり岡田利規の頭の中で、もっと有り体に言うとそれは小説の中ではないだろうか?
頭の中の「原作」小説を舞台上で解釈/説明することなく、曖昧なテクスト性の介入のまま執拗に保留し続ける。今作は小説を舞台にのせる事で言葉は本質を指し示す事ができないことを明らかにし、演劇の自明性を揺るがし、観客の想像力のベクトルを変えることに成功している。
3000円でこんなに考えて楽しめる。なんてコストパフォーマンスのいい公演でしょう。それと尋常でない戯曲を演じる尋常でない力量の役者、すごすぎっ!公開リハーサルを見て役者というのはすごい人種だなぁと思ったわけで。☆は5つにしようかとも思ったのだけどチェルフィッチュ・フェチみたいで気持ち悪いので3つに。
(観劇日 2月14日)

竹村崇
★★★★★

民主主義は、ひとりひとりの「個人」が前提。でもこの前の衆議院選挙、大政翼賛っぽい感じのなかに「個人」はあったのか? そんなことを思ったのは、満員の客席にまぎれて舞台を観ていた僕がいつのまにか、ぽつりと一人で、舞台と向き合わざるをえなくなっているような感覚を覚えたから。数式を思わせる精緻な言葉は、大勢に身を任せて「考える」ふりをする僕ら大衆への痛烈な批判。「目をつぶるな」「考えろ」と孤独に訴え続ける舞台と対峙するうちに次第に熱くなっていく頭はしかし、だらしなく、威圧的な体でこちらを見下ろす男性俳優たちへの怖さの前に、目をつぶろうとする。身を守ろうと、敵意を覚える。自身の中の大勢に、身を任せようとする。
舞台の上の若い夫婦が選挙に行くのは、パンを買いにいく、そのついで。人間は動物だ。体を抜きにして「考える」ことなど可能なのか? それでも「考えろ」と、この舞台は僕という「個」に覚悟を迫る。
(観劇日 3月3日)

杵渕里果(保険業)
★★★★★

冒頭から「缶ビール片手にした男がいます」みたいな説明台詞でシーンを反復しつ進行。この反復なくし沈黙なくせば三十分かって芝居。男は新婚で入居予定の高層マンションの工事を眺めてます(うわ、ヒマ人!)。新妻は新居に会社の同僚女を招きホームパーティーを計画(でも呼ぶのは一人、少な!)。同僚女は悩みぬいてワインとチーズを持参(友達の夕食によばれて予算三千円使わないって、女は)。…恐らく観念的にハイソな要素を集めたゆえの珍妙ハイソ生活描写。ここに派遣青年の独白が点在してく。本公演で岡田くんは、格差社会についてのどぺーんとした観察と良心をまたも開陳。メメント・ビンボー♪。思えばチェルフィッチュ、現実とのフィードバックをなくした図式的な世界観、ヒタスラな繰りごと、鈍い動作、平衡感覚の乱れ…実験演劇ラシサてより、総て老化症状にみえるんだけど。実験演劇理解派は星5なんだろうな。敬老精神とKY精神で私も星5。
(観劇日 3月5日)

広沢梓(会社員)
★★★★★

舞台上で居心地の悪そうな俳優の姿が印象的。彼らは何者だろうか。ある男について語るナレーターのような人物がいる。「みずきちゃん」を主語に発話しながらも、彼女を演じるような素振りを見せる3人の女性も現れる。最後に舞台に残る男女は夫婦であり、誰を演じているのかは明白だが、2人は「私」を主語に各々自らについて語るばかりだ。
彼らの状態はしかし、自分であって自分でない俳優の存在を象徴しているように思われる。先の説明的とも言える台詞は、あくまで登場人物の個々に対して行使される。必ず登場人物の誰かが主語に置かれることによるものだが、主語を省略しがちな日本語において、それはときに奇妙に思える。主語と述語は対応していないこともあるが、そのことに気付けるほどに台詞の一文は短い。そのような台詞のたたみかけこそが、発されることで物事をひとつひとつ成立させる、演劇における言葉を信頼する身振りなのではないか。
(観劇日 3月3日)

ハセガワアユム(劇作・演出家、MU主宰、プロデューサー、俳優・ナレーター)
★★

いわゆるオーソドックスな演劇のアンチだけで全てが成り立っている。演技も感情も舞台美術も排除されて、小説のト書きのようなテクストを観客席に投げては「考えなさい」という時間を、長い「間」で強制的に生み出す。静かながら挑発のあるフックは刺激的だが、繰り返される”台詞とわざと関係のない動き”が掛け算のようには機能せず、台詞から逃げようとするのが目的になってしまい、割り算の如く聞こえてしまった。ミニマルなまま続くテックハウスのようなジャンルに感じたので100分は余りにも長く、40分くらいがベストタイムで本来の魅力を発揮するのではないだろうか。私感だが、ゼロ年代半ば以降にオーソドックスな「演劇」から全力で逃走する劇団が目立ったが、普通の演劇ってそんなに可能性ないかな? バンドが結局、ギター、ベース、ドラムから逃げれないように、レディオヘッドだって結局戻って来たし、いつまでも逃走は出来ない。そんな終点を見た。
(観劇日 3月5日)

水牛健太郎(ワンダーランド編集長)
★★★★

水彩画のようにクリアで、翻訳をあらかじめ想定したかのように無国籍な文体が描きだす風景の鮮烈さには目を見張った。やや後景に退いた感はあるが、身体言語の面白さも健在。確かに私たちの生きる日常を切り取ったと思わせる生々しく新鮮な舞台だった。舞台奥に掲げられた、現実の時間を示すありふれた壁掛け時計が、その自負をよくあらわしていた。ライティングも魅力的。
ただ、タワーマンションに住む裕福な若夫婦が「自分たちがなんで幸せでいられるか分からない」と悩みつつセックスし、翌朝総選挙に行く(そして多分民主党に投票する)というプロットは問題。自分の何物をも賭けない安直な「共苦」の情を大状況に接続することには反対だ。無傷な奴は別人で結構。
いつも社会や政治の問題を背景に据えたがるが、理解しているようにも、それどころか本当に興味があるようにも思えない。その分★一つ引く。
(観劇日 3月1日)
(初出:マガジン・ワンダーランド第182号、2010年3月17日発行[まぐまぐ!, melma!]。購読は登録ページから)

【上演記録】
チェルフィッチュ「わたしたちは無傷な別人であるのか?

STスポット(2010年2月14日-26日)
横浜美術館レクチャーホール(2010年3月1日-10日)http://www.yaf.or.jp/yma/index.php

作・演出:岡田利規
出演:山縣太一 松村翔子 安藤真理 青柳いづみ 武田力 矢沢誠 佐々木
幸子

前売3,000円/学生2,500円/当日3,500円(整理番号付き自由席)

公開リハーサル&トークセッション
1/12(火)岡田利規-19:00~20:30公開リハーサル、20:30~21:30プレゼンテーション
1/19(火)岡田利規×佐々木敦(批評家)-19:00~20:30公開リハーサル、20:30~21:30トークセッション
1/26(火)岡田利規×桜井圭介(音楽家/ダンス批評)-19:00~20:30公開リハーサル、20:30~21:30トークセッション
2/ 8(月)岡田利規×池田扶美代(ローザス)-19:00~20:30公開リハーサル、20:30~21:30トークセッション
2/ 9(火)岡田利規×Tim Etchells(フォースド・エンタテインメント)-16:00~17:30公開リハーサル、17:30~18:30トークセッション

急な坂スタジオ(横浜)/スタジオ3(1/12、1/19、1/26)
1回1,000円(完全予約制/当日精算)
先着15名

問い合わせ プリコグ precog


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