◎スリリングでおもしろい「喋りながら取っ組み合う」ダンス
桜井圭介
世田谷美術館のロビーで行われた神村恵カンパニー『385日』を観た。中盤あたりのハイライトシーンで驚いた。なんか会話しながら取っ組み合いしてるよ! 「しゃべくるcontact Gonzo」(笑)ていうか。そのことをある人に話したら「神村恵、お前もか(嘆)!」という反応が返ってきた。曰く、最近やたらと目に付く「ダンスなんだか演劇なんだか分かんないよ」的な演劇やダンスに対して、常日頃苦々しく思っていたが、まさか神村恵だけはそんなことはしないと思っていたのに! だって。たしかに、神村恵はダンスのフォルマリスト的な位置取りの先端と目される振付家であり、いわゆる「タスク」とか「ルール」で構造する的な(ジャドソンチャーチ的な?)アプローチの作家として評価されているわけで、その彼女が、そんな安直なギミックに頼るとは! というのは、まあ分かる。事実、あとで作家本人にも「しゃべくりゴンゾだったね!」と率直な感想を述べたところ、なんとなーくイヤそうな顔で苦笑いされた(ような気も)。
でも、それはものすごく面白くてスリリング、すこぶるダンシーだった。今までの神村恵カンパニーの舞台で一番かも。そしてそれをもたらしたのが「喋りながら取っ組み合い」というアイデア(しかし何と単純な!)であったことは間違いないのだ。
少し先走りすぎた。まずは、パフォーマンス全体を説明しておくべきだろう。ダンサーは神村恵と福留麻里の女性2人に男性1人=捩子ぴじん。美術家として小林耕平が参加、木枠の12面体が二段重ねになったバカでかいオブジェ(キャスター付きで移動可)などの舞台装置というかインスタレーションを制作。と同時にときおり第四のパフォーマーとして舞台に「介入」も。
最初のうち、パフォーマーは各々が見えない相手(自分?)と会話をしているようだった。「ねえ、あれなんだけど、…うん、そう、…あ、そうじゃなくって…」といったことをゆっくりと歩き回りながら(ときに後ずさりながら)発話している。(携帯で)話しながら部屋ぜんたいを眺めて回るように見えなくもない(家探しで見に来た物件とか?)。
やがて、3人は他の2人のうちいずれかのパフォーマーに向き合い、詰め寄り、突然相手の身体めがけてタックルを掛け、身体ごと転がり込むなどの緊迫感あふれるアクションシーンが始まる。そして、これまた、先程からと同じようになにげない感じの発話を続けながら、だ。それで、今度は相手と向き合いながらの発話なので、うまく噛み合っていない会話(当然ながらお互いが別の誰かと別の会話をしているので)、にもかかわらず、時折、会話が成立しているように聞こえる瞬間が生じたりする(というのも、そもそも、何の話か推察出来るほど明瞭には話されず、あれ、とか、そこ、といった指示代名詞ばかりが聞こえる、そう、電話での会話に似た発話だからだ)。それで、それを「向かいあう者との会話」として見ると、敵意などなく、むしろ穏やかに、時には楽しげに会話を交わしながら激しく取っ組み合い喧嘩してる図、に見えたりもすることになる。そういえば昔、「笑いながら怒る人」という竹中直人のネタがあったっけ。
(かなり大雑把に言うと、この後の終盤で、再び最初のほうの状態に戻っていきやがて幕。あと、時々小林耕平が「電車が通るよ!」などと脇のほうから発話したり、いくつかの重要な出来事があったのだけど、目下の話が煩雑になるので端折ります。)
さて、話を進めよう。以上のように、パフォーマンス全体を通して、ダンサーは相反する二つ(以上)の「タスク」を同時に行うことが見られる。またそれは観客の側から言えば、相反する二つ(以上)の情報の処理を同時に行う(マルチ・タスク!)ということである。すなわち、発話(声)/動き(身体)=聴覚/視覚というレベル、そして言語的(意味)/運動的(かたち)レベル、さらに情緒(雰囲気)のレベルにおいてもアグレッシヴ/まったり、という異なる情報が同時に発され受信され、そのことによって「何か」が生じる(ダンシー、グルーヴ、リアル etc.)という仕組み。
そう、パフォーマーに何らかの「タスク」を課す、「負荷」をかける、という60年代以来用いられてきた方法は、それによってイリュージョンのスクリーンが裂けてリアルな身体が出現することを目論むものであった。ということは、今回の神村作品も実はその流れに位置づけられるまさに「正嫡」と言え、また彼女自身のこれまでの方法の延長であることも明白なのだが、ここで特筆すべきなのは、そのタスクに「発話」行為が含まれる、という点だ。そのことによって「演劇かダンスか?」という目下この国の舞台芸術シーンで問題となっているらしいある種の「ジャンル論」に抵触する、というわけだ。勿論、この「発話」は「演劇へと傾斜するダンス(の堕落?)」という時イメージされるような「ナラティヴ」志向などではまったくなく、繰り返し言うが、きわめてダンス内的なアプローチなのである。
そう、もう既にお察しの通り、神村がダンスで行ったこのアプローチは、チェルフィッチュ(岡田利規)あるいはミクニ・ヤナイハラ・プロジェクト(矢内原美邦)といった「演劇なんだかダンスなんだか」の一方、演劇の側からの、演劇の問題としてのアプローチと同列に論じられるだろう。それらもまた、今述べたような「相反する二つ(以上)のタスクを同時に行う」こと、そのタスクには「発話」と「身体運動」が含まれる、という方法論的な類似が明白である。
ということは何を意味するのだろう? 演劇の目的とは何かという根本問題、について今ここで考察する余裕は紙面的にも筆者的に持ち合わせていないが、神村のダンスにとって「発話」は「物語ること」のためではなく、パフォーマー(および観客)の身体への作用を促す触媒・ツールであるとして、チェルフィッチュの発話は(フツーの演劇一般と同様に)一見、物語を展開する機能を担っている。しかし、いっぽうで、その発話内容を裏切るような(あるいは発話内容と齟齬を来すような)、不自然・無関係と見えるような身体所作が同時に行われているわけだ。つまり、発話と身体運動は互いが互いの「負荷」であり、その結果生じた「何か」がチェルフィッチュの演劇の目的であると言うことはできるが、同時に、物語(フツーの演劇のように)や身体(いわゆるダンスのように)を目的としない、とも言えない。この辺りが、演劇というものの身上のやっかいなところでもあり、面白いところなのだけれども、それはまた別の機会に。
さて、以下は余談になる。視覚と聴覚における「相反する二つ(以上)の情報の処理を同時に行う」ことを課す、と聞けば、例えばゴダールの「ソニマージュ」のことを思い出したりもするかもしれない(分離的(分裂的)統合、離接)。あるいは、うろ覚えだが菊地成孔・大谷能生著『アフロ=ディズニー』(文藝春秋)には、グラモフォン/フィルムといった記録媒体が登場した結果、我々の視聴覚はいったん完全に分離された。それこそが20世紀の幼児期のトラウマでありかつわれわれの文化の特質である、のちにトーキーが発明されオーディオヴィジュアルのシンクロが成されたけれど、それは見せかけの統合であり云々、というようなことが書かれていたのではなかったろうか。そして21世紀の初頭にバイナルデータ的に再び(視聴覚の)ズレが志向されている、例えば、ブラック(ヒップホップ)カルチャーの先端的アーティストたるカニエ・ウエストのCDジャケットやPVにタカシ・ムラカミのアニメ的アート(それが「アフロ=ディズニー」というタイトルの由来だ)、といった具合に。つまり、我々の感性はもともと分離的であり、今や分離的統合がしっくり来るようなことになっているということかも知れない、ということだ。これを近代以降の舞台芸術にまで敷衍すると、トータルAVシアターともいうべきオペラからバレエと演劇が分離し、20世紀前半のモダニズム期にメディウム・スペシフィックが加速され、さらに分離独立が進み、今また「演劇なんだかダンスなんだか」が志向されており、ただしそれは「トータルシアター」ではなく、分離的統合(併置)である、というのは、さすがに大風呂敷過ぎるだろう。
(初出:マガジン・ワンダーランド第187号、2010年4月21日発行。購読(無料)は登録ページから)
【筆者略歴】
桜井圭介(さくらい・けいすけ)
音楽家・ダンス批評。「吾妻橋ダンスクロッシング」オーガナイザー。著書に『西麻布ダンス教室』など。
【上演記録】
神村恵カンパニー『385日』(世田谷美術館「トランス/エントランス」vol.9)
世田谷美術館エントランス・ホール(2010年3月25日)
振付:神村恵
出演:福留麻里/捩子ぴじん/神村恵
美術:小林耕平
照明:富山貴之