劇団 Ugly duckling「照準Zero in」

◎ステキにもつれた劇世界 虚無の風、ひやりと背中を
岡野宏文

「照準Zero in」公演チラシ親というのはほんとうによく分からない。子育てにビジョンがないのである。
人様に迷惑さえかけなければどんな人間になってもいいからねなどと喋った舌の先すら乾かぬうちに「医者になれ」などと抜かすから油断が出来ない。なれるのか今さら、医者に、オレが。だいたい、なりたくともなれないのが医者という職業の世の常であるのは十二分に承知の上で、かかる矛盾した見解を涼しい顔で言ってのけるのは、そもいかなる神経のなす技であることか。

ためしに、同じ人さまの命を助ける仕事とはいえ海外ボランティアに一生を捧げたいとでもコクろうものなら、すは座敷牢にも閉じ込めんばかりの勢いに豹変するのは十に一つの間違いもなかろう。父母の表明する「どんな人間でも」の「どんな」とは、おおまかにいってどうやら人の上に立ち裕福に悠々と暮らす人種のことらしいと見当はつくものの、それはすなわち他人としのぎを削って崖を這い上がってゆけと命ずるのと一般であって、「自分の好きなことを、好きなだけ、自由に、懸命に」と臍の緒に念じてくれたはずの我が子の行く末とは撞着もはなはだしい。分裂した二筋の道を同時に生きるは不可能な理屈である。
と、われわれの子供たちも、私たちのことをそう考えているのだ。

いいかえれば、親子の関係において、なにが問題なのかはつねにありありと見えているのではなかろうか。しかし、見えているそのことが、どうやっても解決できぬ。どければいいだけの躓きの石をどけられない。右手で右手を握ることがかなわないように、親と子は永遠にすれ違うべくプログラミングされた、あらかじめミスマッチな悲しい生き物どおしなのかも知れないと時々真剣に考えることがあるんである。

樋口ミユ・作、池田祐佳理・演出による劇団 Ugly ducklingの「照準Zeroin」は、乳母車にのるほど身丈の縮んでしまった母親を、なんとか元の大きさに戻し再生させようとする青年の、屈託に彩られた奮闘を枠物語に据え、歪んだ愛のいじらしさをまぶして、ステキにもつれた90分であったととりあえずはいえる。親とはいったい誰なのか。いかにすれば間違えながらもお互いの中の息づくものをわずかでもつかむことが出来るのか、そういう素朴だがしかしのっぴきならない疑念をドラマの背骨に仕込んでみせている。

だがその心地よくも妙なる作品のもつれ加減に取りかかる前に、何があっても触れなくてはならなぬ一点があり、いきなり横っ腹から食らいつくようで作・演出者にははなはだ失礼と承知の上で、他でもない舞台美術の魔法かと錯覚させるほどの素晴らしさだ。

黒を基調とした舞台空間は後方に高い段をもち、段上に整然と並べられた数台のミシンに向かって、白装束の織り子たちが上手を向いて一列に座っている。本舞台にはかなり大きめのベッドをセンターに置き、周囲を新聞紙で敷き詰めてあるあしらい。客席の真ん中を一間ばかり殺して背後からの花道をとったぜいたくな塩梅になかなかの蛮勇を感じさせる。なにとぞもっとお客が入った日はあれ狭くしたと信じたい。

いや、突っ込まれるとお手上げなのだが、一つ一つのオブジェはよく使われる、むしろありがちな体の道具といわれてしまえばそれまでなのである。なのであるが、全体があるべき場所にセットアップされた佇まいには、未知の力が働いているとしか思えない不思議な美しさが静かな波紋をひろげていたのだ。うーん、何であるかあれは。開演前の十数分見とれてしまった。かつて開演ギリギリにトイレへ行こうとして桟敷をうずめるあまたの頭蓋を踏んづけ蹴飛ばすおのれに感動したことはあるが、開幕前のステージに感銘を受けたのは初めてである。なにしろ、芝居の終わったあとでさえ滅多に触れぬ琴線の持ち主なのである。

さて、時折どこやらで「ドン」という大きな音が響くや、そちらの方向を一様に透かし見ていた織り子たちだったが、開演のベルとともに彼女たちが織りかけの白い布を舞台前面いっぱいに張りつめてみせると、それはそのまま輝くスクリーンだ。とりどりの動物や木や馬車やらの姿をした影絵が、白日夢さながらに左から右へ流れてゆき、「パレードがやってくる」という期待に満ちた人々のささやきもやがて聞こえてくるなら、確かにそれは獣たちや自然たちの晴れがましいパレードと言っても的外れではあるまい。動物たちの行進は、どこか生物の進化の系統樹にも似て、途絶えることのない息吹の巡りとも思えた。

ひとしきり賑やかにして懐かしいざわめきが通り過ぎると、やむことのない雨にさらされた砲弾飛び交う世界が伸び上がってくる。国といわず大陸といわず、ありとあるものが終わりを知らず縮んでいく、さながらガルシア・マルケスばりの奇妙な宇宙だ。

いかにもさりげなく、下手からひとりの青年が乳母車を押しながら現れる。縮んでしまった母親を、元に戻す治療がないものか医者を訪ねてきたのである。あなたが成長した分だけ縮んだのだから、奪っただけ戻すしかない、と医者が紹介するのは空気ポンプで母を膨らませるという、ひどくナンセンスなケアでしかない。

それでもボヤッと生きてきたあまり、かあさん僕はあなたをなんにも知らない、と後悔だけの自分をさいなむ青年ときたら、愚かしくも、母の口にホースをくわえさせて空気を送り込む所業に出るのだ。だが彼の軽薄を笑う強さを私は持たなかった。無名で非力な地上の星としてすら、母の他者性をないがしろにした引き替えに、ではなにをこの世になしとげたかも覚束ない青年の生き方は、どうして他人事ではあらぬから。おそらく死の寸前になってにわかに母という見知らぬ人に狼狽せねばならなかった彼の人生の「手抜き」は、私たちの胸中にも思いがけず弾け飛び火して、ポンプのハンドルを真剣に押し引きする青年の姿はやりきれなく切ない。

とはいうものの、百万の精神論よりたったひとつの物理力というのは怖いもので、なんたることか、母親はあっけなく膨らみ始めやがるのである。着々と膨らみ始めた母親の過去が知りたいとさらに念じつつ、愚直に空気を送りつづける青年の脳味噌はやんぬるかなやはりおおらかに左巻きなのであった。母の原寸大すら覚えがないゆえアクションのさい果てを知らぬ。押すこと、押すこと。母はとめどもなく膨張していくではないか。

ここで、無限に発達していく母(c 笙野頼子)をあらわすのに目鼻の書かれた風船が使用されており、膨れれば膨れるほど視覚化されていたのが、青年が苦し紛れにのめり込んでいく母親妄想の膨張であったのが印象的だった。やがて限界にきわまった風船がパチンとはじけ紙吹雪が舞ったとき、それは青年のチラチラひらめく妄想の千の断片でもあるという形で、次のいわば幻想シーンへの用意がおさおさなされていたのである。なされていたのだ、たぶん。きっと。

演劇の面白さというものには多種あるが、二つのモーメントが同時に進む霊験のめざましさは、忘れてはならぬ魅力的な要素だろう。たとえばいまの場面で進行していたのは、物語としては「母が膨らんでいくこと」だが、演劇として起きているのは風船の膨らみが代弁する「青年の妄想の不気味な高まり」である。ひとつの出来事が二つの効果となって体験されるくすぐったいようなときめきは、小説ではまず描けないといっていいはずで、映画ならなんとかできそうな気にさせられるもののまさか問屋はおろすまい。実際に目の前で嵩の増えていく「物」と、それに浸食される「空間」がなければ絶対になりたたない芸当なのだ、こればかりは。演劇における「物」の呪術性とはこのことに違いあるまいと私は勝手に決めている。

さて、破裂した母はどこへやら、ベッドを覆っていた黒い布がサラリと取り去られると、そこは女「ああ」とその夫らしき男「いい」の暮らす部屋。まだ砲弾の飛び交う前の時代と見受けられる。「ああ」は一家全員を殺人鬼の魔手により奪われた寝たきりの身で、「いい」はその加害者の殺人鬼らしきことが次第に分かってくる。重大事件の被害者と加害者をともに暮らさせることで、社会復帰をうながす政府のプロジェクトに沿っているのだ。

胎内に渦巻く悲しみと憎悪の濁流に耐えきれず、その苦悶の頂きで彼女は「ああ」と叫び声をあげるしかないから名を「ああ」。無理難題を吹っかける「ああ」のわがままに決して逆らわずいつも「いいよ」とこたえるから男の名は「いい」だ。憎しみと殺意に深く埋もれて二人の日々はすぎていく。 いや、正確にはそうではない。「いい」は「ナチュラル・ボーン・キラー」ではないからだ。いま彼は銃のかわりにトランペットを携えている。この楽器を水平にかまえたときだけ彼には殺意がやってくる。殺意は銃からやってくるのであって、彼の中に眠っているのではないのだ。人を苦痛もなく殺せる魂と武器の二つながらを手にできる自分は完璧に自由だと彼は宣する。なるほどそれはひとまずそうだろう。けれどベッドの上から一歩も動けぬ「ああ」の、その呼吸の一つ一つにジクジクと芽をはやすおぞましい憎しみのありようと並べてみるとき、二人は転倒した鏡像のようにお似合いに見えはしないか。この疑似夫婦は、殺意なき殺人者と殺意にあふれた不能者のグロテスクな戯画なのである。このカップルのフリークな造型と、展開される息苦しいほど鬱屈した「生活の風景」は、スレた私たちのすさんだ美学に、快感として伝わってくる。
もしや、この二人が愛し合うなんて事態が始まるとするなら、そいつはいったいどんな空の下かしらと、そっちへ向かうから樋口の想像力って面白い。それがどんな時かといえば、ふたりの関係が煮詰まってもうこれ以上前へも後ろへも動けなくなり、いっさい物が考えられなくなった時らしいのだ。そんな時ふたりは初めて抱き合う。正直、恋愛オンチの私にはこれ判断しかね、棚に上げたが奇妙な感性であろうことに異論はない。映画「手錠のままの脱獄」でシドニー・ポワチエとトニー・カーティスの間に友情が芽生えたようなものか。まるっきり違うな、きっと。

そんなことを考えているうちに一年が過ぎ、いや舞台でだけど、ふたりの間にはひとりの赤子が誕生する。そう、その赤ん坊こそ、萎縮マザーと悪戦苦闘していたあの忘れられないトッポい青年でなくて誰だろう。ずいぶん遠回りしたが話はそこへクルリと繋がる仕掛けだったのだ。登場するや初めまして父さん母さんと相変わらずトッポくご挨拶する彼を見るにつけ、やっぱり人間なかなか変われない。

青年はいまみずからの妄想の中でまだ見ぬ父母との邂逅をとげた。ぜひご堪忍たまわりたいのは、いたく重要な登場人物をもうひとり紹介しそこねていることだ。「ああ」と「いい」の隣人めいたつきあいをしている農婦を抜きにしては劇全体の構造を歪めてしまう。彼女のセリフにこんなのがある
「私が確実に知ってることは、いつ種を蒔いて、いつ実がついて、いつ収穫するか。自分が考えてすることくらいしか、分からないじゃない。自分が知ってることなんか、これっくらい」

何をして生き、いかにして口に糊しているかも曖昧な人物たちばかりの中において、この凛々としたセリフがはかれたとき、私は目から鱗が生えてきたような気がした。もちろん正しくは落ちたような気がした、である。よく分からないけどせっかく気持ち悪い比喩を思いついたのでわざと間違えてみた。それはいいとして、農婦が持つ、大地に根ざしたストイックで力強い生命感は、真の「生活」を生きる人間としてこの作中で際だって輝いている。この輝きは、「ああ」のベッドの脇に置かれた乳母車が、シーンが終わるころには農婦の手であやされているたいへん象徴的な推移により、もっと確かに光ってくる。いうまでもなく、赤ん坊時代の青年が寝かされているその乳母車は、劇の冒頭で彼が母を乗せて現れたあの同じ乳母車である。そして間違いなく彼のほんとうの母の面影は、この農婦の手触りも確かな生き方にありありと刻まれている。今日一日に今日一日だけをしっかりと生きる人。

少しまとめていうなら、「ああ」と「いい」のエピソードを、縮んだ母をめぐる青年のエピソードでくるんでいるのが本作の結構なのだが、そのほかに織り子たちのモチーフ、砲弾飛び交う戦争らしき世界のモチーフ、生きとし生きるものが整然と列を作ってやってくる「パレード」のモチーフ、いくつものモチーフが奔放に編み込まれており、冒頭で書いた樋口の劇世界のステキなもつれ加減とは、そういったアリャリャンコリャリャンが遠近法をなさず、等距離にばらまかれていることにある。それは幾分お芝居の「わかりにくさ」を誘う敷居ではあるのだが、反面、劇の空間を劇場を越えた彼方にまでほとばしらせる野蛮なドラマツルギーともなれるはずだ。

最後に、全編をつらぬくモチーフとして使われている「パレード」の訪れ問題が残っている。「ああ」と「いい」も時にパレードの到来に期待し、それへの参加に願いと希望を語るのだったが、パレードの謂いとは一つにケの日常から離脱したハレの空間にある祝祭性、自由に生き生きと生きられる場所のことであろうし、またもうひとつにはあの白布の上を流れていった動物たちの進化の系統樹が示す、生まれきて死していくことのサイクルのようなもの、暗いが美しい無限の絵のようなもの、なのだったと私は考える。

朝、目刺しかなんかをポソポソと頬ばりながら、小さなちゃぶ台にうずくまってるこの極めて具体性にまみれた私という人間は、人類発生からの600万年の時を繋いできたあのたくさんの死者たちの過ごした時間を思うとき、どうやってそこにいればいいのか分からず、困惑しては慌ててほうじ茶を啜ったりすることがある。もっというなら、誕生から1億3000万年の、人がほとんどいないしひたすら膨らんでいくしヤケにさびしい宇宙というものの中に、毎日の雑多な日常が属しているということがうまく飲み込めなくて、時折、モーレツにむなしくなる。

「照準Zero in」を見て私が感じたのは、そういうときに背中を無遠慮に撫でやがる、虚無感によく似たひやりとした風であった。
(初出:マガジン・ワンダーランド第191号、2010年5月19日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
岡野宏文(おかの・ひろふみ)
1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「せりふの時代」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に「百年の誤読」「百年の誤読 海外文学編 」(豊崎由美と共著)「ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)」(扇田昭彦らと共著)「高校生のための上演作品ガイド」など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
劇団 Ugly duckling 第31回本公演「照準Zero in
作・樋口ミユ 演出・池田祐佳理
出演:出口弥生  吉川貴子  ののあざみ  村上桜子 前田晃男(南河内万歳一座)ハ・スジョン(ロヲ=タァル=ヴォガ) 樋口ミユ+ご当地ゲスト

スタッフ:舞台監督/永易健介
音響/金子進一(T&Crew)
照明/皿袋誠路((株)PAC west)
舞台美術/池田ともゆき(TANC!池田意匠事務所)
大道具製作/浜本浩志  谷雅之
画提供/でぐちやよい
宣伝美術/野田智子
写真撮影/中島仁實(stage-connection)
VTR撮影/武信貴行
制作/植田宏美
制作協力/岡本康子(TRASH2) 木原里佳
専属トレーナー/木原敬司
協力/can tutku  田中恵利子  塚越愛  樽谷朋子  堤久人

2009年12月11日~13日 大阪AI・HALL
2010年2月6日、7日 北九州芸術劇場
2010年3月20日、21日 ザムザ阿佐ヶ谷-第7回杉並演劇祭参加公演

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