◎《演劇LOVE》の照らし出す未来
プルサーマル・フジコ
前回、ワンダーランドに寄稿した文章(*1)は未来の誰かに宛てて書いたのだけどそれは或る制作者Nさんが「僕は、20年後の未来に向けて作ってますね」と力強く小田急線の下北沢駅の改札入ってすぐのとこで語ってくれたのがズシンと胸に刺さったからで、それ以来「未来」とゆー言葉が凄く具体的なイメージを持ってしまって浮かんで消えない。
では演劇の未来、と考えてまず最初に思い浮かべるのは《演劇LOVE》というユーモラスな標語で、意味はストレートに「演劇を幸せにする」とゆーこと、その提唱者の多田淳之介(東京デスロック主宰)は今年の4月から埼玉県富士見市のキラリ☆ふじみに、日本で最も若い公共ホールの芸術監督として就任した。これは画期的な事件だが、この文章はその多田が芸術監督就任後キラリ☆ふじみで最初に演出した『LOVE The World 2010』とそのベースである東京デスロックの『LOVE』について書くことから始めて、後半はかなり飛躍して《演劇LOVE》と小劇場の未来について語る。
『LOVE』は凄くアモルフ(不定形)な作品で、上演する各劇場の特徴とか制約とかを貪欲に吸収して成長する怪物みたいなところがある(*2)。例えば横浜のSTスポットで上演された『LOVE 2010 Yokohama ver.』では冒頭から「よ~こ~はま~♪ ひかる~まち~♪」とウェルカムな音楽が流れて観客をリラックスさせるいっぽう、これから何かが始まるぞ的な期待感を醸し出していて、STスポットの狭い空間を最大限利用した静寂と爆音のメリハリ効いた舞台が俳優たちのリズミカルな躍動をビシバシ伝える。
もちろん、俳優に極端な負荷をかけて運動量で魅せる手法は別に今に始まったものではないし過去の演劇史を紐解けばもうすでにやられていたことなんだよね的なことを言う人もいたし、仰る通りかもしれないけどわたしが思うに過去ではなく今この時代を生きる彼らの身体には、まさにこの時代や社会やアーキテクチャによって複層的に張り巡らされたコード(規則)やハビトゥス(慣習)が幾重にもインストールされているわけで、そうした目に見えない力に縛 られクリシェ(紋切り型)をつい反復してしまう、無くて七癖、動物化、ゾンビ化、自動ボット化、とゆーのが非常に現代ナイズされた若い身体の常識(デフォルト)だが、しかしそれが熱量を帯びていくことで一気に沸騰し、爆発し、フィクションとしての死と再生を繰り返すといった『LOVE』の彼岸的様相は単なる多幸症的な空騒ぎでは全然なくてまさに今この時代にこそ観るべき演劇なのだ、少なくともわたしにとっては。当然今の記述は現代を生きるすべての若い演劇的身体について言えることだけど、特にデスロックの俳優たちのそれは稽古や本番を通して死と再生、拘束と解放、静寂と爆発のあいだを繰り返し行き来することで生きているようにも感じられた。だがそれが一度舞台を降りてしまうと、ごく普通のどこにでもいるオッサンに戻るのだ(夏目慎也を見よ!)。こうした身体こそ現代演劇の醍醐味のひとつだとわたしは思う。
さて今のはSTスポットという港町横浜の繁華街のど真ん中にある小劇場での話だが、 いっぽう今回の『LOVE The World 2010』となるとかなり雰囲気が異なっていて、副都心線と東武東上線とバスもしくはタクシーを乗り継いで到着する、でも行ってみれば意外に近いのどかな田園風景に取り囲まれたあのキラリ☆ふじみというLOVEなホールで上演されたのだから、土地柄も空間構成もまったく異なるのは当然で、さらに『LOVE』の最大の見せ場とも思えた「あー、いいですねー」とゆー相槌を符牒にして言葉を一斉に解き放つ感動的なシーンもバッサリ大胆に削除、しかも韓国人の俳優4人を迎えての日韓合作とくれば全体の印象はガラリと転換する。横浜STバージョンが熱や音の質量と波動で魅せるものだったとするなら、キラリ☆ふじみの今回のバージョンは光と色彩すなわち視覚的に訴えかける要素が非常に強かった。
例えば、舞台手前から当てられる照明が2人の俳優のシルエットを奥の壁面に大きく映し出し、それがスッと重なるシーン。あるいは、舞台の奥で背を向けて乱舞するも極私的に閉じていて、同時に世界と直結しているような身体の少女(間野律子)が遠近感(パースペクティブ)をもたらすシーン。あるいは、日常にありふれたアイテムの中に隠された様々な赤い色が、照明に照らし出されて鮮やかに現れ舞台の上を凌駕してしまうシーン。あるいはその赤が消え、青く鎮まる壁には「LOVE」の白い4文字が投射される……。
特に赤が印象的だけどその魔術的とも言える光を当てているのは岩城保で、この人のクレジットを「照明」の項目に見かけるたびにわたしはまたあの過剰な色彩への愛に溢れたファンタスティックな仕事が見られるのかーと思って嬉しくなるのだが、それはともかく問題は赤で、その赤のイリュージョンに彩られたクライマックスでは日本と韓国、それぞれの国旗を模した服を互い違いに着た2人の日韓両女優が言葉を交わすこともなくサッと別れる鮮烈なシーンが あり、それは今でも一枚の写真みたくわたしの網膜に映っている。敵も味方も希望も絶望もないこんな清々しい別れはあっただろうかと今ふと思い浮かべてみるのは、成瀬巳喜男監督の『稲妻』のラストでおいおい泣き濡れる母娘を照らす一瞬の稲妻の閃光や、同監督の『乱れる』で温泉街で担架によって連れ去られていく加山雄三を走って追いかける高峰秀子の唐突なる大写しとか、かの有名なゴダールの『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグの衝撃的な唇が言い放つ「最低って何のこと?」とか、またはベタだけど名作『ルパン三世 カリオストロの城』のラストのなんて気持ちのいい連中だろう的な……?
そうした過去の様々な名場面に匹敵するこのシーンの意味するところは何か、その解釈の「答え」をたぶん演出家は持っているのだろうけど多田は当日パンフレットに次のように書いている。
「僕は作品を使って僕の答えを伝えようとは思いません。それは不可能なことです。残念ながら人は他人の事を本当に理解することは出来ません。だからこそ、何かを共有したと信じられる瞬間が貴重なのだとも思います。しかし、皆さん自身が感じたことは幻でもなく本物です。」
多田は毎回必ずアフタートークを行うし演出の意図もどんどん喋るけどもそれは「答え」を開陳したいからではなく、そうした場を観客に向けてひらくことで《演劇LOVE》の裾野を拡げようとしているのだとわたしは思う。例えば『LOVE the world 2010』のアフタートークにはゲストとしてキラリ☆ふじみに縁の深い劇作家や俳優それに地元の学校の先生や陶芸作家、さらにワークショップに参加していた中学2年生の女の子まで呼ばれて1936年生まれから1996年生まれというなんとも幅広いオールスターズな年齢構成になっていた。年齢差が半世紀をゆうに超えているが、世代や、ジャンルや、生まれ育った環境の違いを乗り越えて誰かと誰かが会話することが実現できたのは、その背景にキラリ☆ふじみの地道な活動がある。2008年度から東京デスロック、田上パル、モモンガ・コンプレックスの3団体をキラリンク☆カンパニー、つまりいわゆるレジデンス・カンパニーとして確保して稽古場やホールを無料で提供、さらにイベントやワークショップを通じて地元の子供たちとの交流も積極的に深め、ニュースレターの発行や地域の作家の展示会さらには地元のドラ焼きの販売など、地域と演劇との関係構築に力を注いできた。このあり方はこれからの劇場にとってひとつのロールモデルになるだろう。
しかし特筆すべきキラリ☆ふじみの強みは、なんといっても多田淳之介とゆー或る種前衛的と呼んでもいいアーティストを芸術監督として召し抱えたことだ。芸術監督は上演ラインナップの決定に関与し、どんな劇団や作品をプッシュして観客に見せるかをディレクションするのが仕事の中核だ。その意味で芸術監督就任後、最初に自身で演出した『LOVE The World 2010』は今後のキラリ☆ふじみの方向性を指し示すものだったが、その多田に全くの手加減は見られなかった。おそらくあれは日本屈指の演出家の最前線の作品だし、単なる啓蒙や教育や商売や助成金をどう使うかという狭い意味での「公共」の枠として演劇を捉えていない。芸術としての独自の批評性を持った不可解な力強さを孕んだ作品であり、それが「公共」に反するものではまったくないとゆーことを多田は『LOVE The World 2010』で示した。
この広い世界には、意味を理解する、物語を起承転結で解釈するとゆー国語教育の成果か何か分からないが日本人に染みついたそんなモードとは別の見方や読み方を要求する作品もたくさんあって、それに触れていくことで人間の感性は解放される(こともある)。日常の言語コードの要請する境界、すなわち分かる/分からない、簡単/難解、意味/無意味、常識/異常、娯楽/芸術、エンターテインメント/アート、イチ/ゼロ、そういった薄っぺらい二元論の 線引きの列を引っぺがして突き放してただ迫ってくるものを畏怖する、捉える、受け取る、感動するとゆーことが人間の感性には可能なのだ。当然作品によって好き嫌いや相性の合う合わないはあるにしても、毒にも薬にもならない如何にも「演劇でござーい」的な保守本流を模倣したレプリカ作品より、はるかに絶対観てしまった人の心に何かを残すのは不可解で力強い作品で、だって結局のところ人生において抜き差しならない事態に直面した時、例えば自分にはもう誰も味方がいない未来もない死ぬしかないと追い詰められた状態で救いになるのは、口当たりの良いウェルメイドな作品の癒し効果ではなく、強い衝撃的な意味不明の忘れがたい体験ではないか? 「公共」の意味は「最大公約数」ではない。誰にでも分かるものが「公共」なのではなくて、結局のところは観客ひとりひとりの感性の集積にすぎないのだから、そのひとりひとりに対して何をどう届けるか、どんな関係を結ぶかが「公共」の中で問われる。
多田淳之介には意識的か結果的にか分からないが戦略があって、2008年の暮れに東京デスロックはその「東京」を冠した劇団名にも関わらずしばらく東京を離れて活動すると宣言した。以来、キラリ☆ふじみに拠点を置いて例えば『LOVE』では青森、神戸、鳥取、横浜、それに韓国などを回っている。いっぽう多田自身は劇作家の宮森さつきと組んだ二騎の会や、謎の演出家エンリク・カステーヤを招聘するCASTAYA Projectで暗躍(?)するなど、都内での活動も実は活発に続けている。要するに競争意識の異常に発達した「東京」とゆーどうにも腐乱した言論的磁場から半歩距離をとって相対化してみせつつ、でもいっぽうでは半歩は踏みとどまってその演劇シーンになおも刺激を与え続けている。
「演劇やってるの? へえー。早くテレビに出れるといいね」とか言われないような世の中にしたいと多田はよく口にする。本当にそうなって欲しいとわたしも願うのだが、おそらく演劇がそう言われなくなった時には世の中は革命的な変化を迎えていることだろう。月に人間が住むとかそれくらいの。もちろん俳優が経済的に潤うならテレビに出ても全然いいし、むしろ大いに多方面で活躍してほしいと思う才能溢れる人材が小劇場にはたくさんいる。とはいえそういった金の卵の宝庫的な要素が皆無ではないにせよ、小劇場は表現文化としては中劇場や大劇場といった大きなハコやテレビや商業映画の下部組織に甘んじるものではないし、いわんやマイナーリーグでも単なる技術養成所でもない。
小劇場にはここでしか成立しえない独自の表現文化が育っている。ジャンルを飛び越えて多種多様なカルチャーとハイブリッドに混交しながら独自のサンプリング(引用)によって発展的に生成し、しかも日本語という使用言語に或る程度依存せざるをえないにも関わらず、特殊日本的なハイコンテクストな自己言及に陥ることなく海外文化とも交わる可能性を秘めている。そんな新たな身体芸術の爆心地として小劇場文化を捉えたい。まだそれが未完成で途上であるとしても。
数年前と比べたら観客のリテラシーは明らかに向上していると感じる、わたし自身全然違うし。反射神経的なお笑いにも慣れ親しみ、テレビドラマ的なクリシェ(紋切り型)の演技も見慣れた結果、嘘っぽい演技に毒された身体はもういいだろう、もっと別のものが見たいとゆー欲求が演劇特有のリアリズムを発展させてきたのではなかったか。そしてそのリアリズムは成熟して今は弾けて種を撒き、様々な場所で新しい花を咲かせつつあるそれを舞台の上の虚構(フィクション)として楽しむ文化が今ここに育っているのだとしたら、それはもう高踏趣味とかインテリとか難解とか分かる人にだけ分かるとかではまったくなくて、全然違くて、単に日常的に曇った色眼鏡をサッと爽やかに外して、自由に、携帯電話の電源を切ってただ数十分、暗闇の中から立ち上がってくるものを感じていればよいのだ。そして照明の照らし出す美しい色や、俳優の身体や動きを見て驚いたり泣いたり笑ったりする時、そこにはもはや芸術(アート)とか娯楽(エンターテインメント)とかいった愚かな区分はなくてただそこにあるものが大事。
キラリ☆ふじみの新しい芸術監督に期待するのは、そうした演劇受容の感性の可能性を拡げてそこから演劇の未来の一端を築くことだけども、もちろん未来はキラリ☆ふじみにかぎらず東京にもかぎらず、様々な場所から立ち上がってくるだろう。《演劇LOVE》の真価はこれから問われるとゆー気がする。(観劇:2010年4月27日)
(初出:マガジン・ワンダーランド第191号、2010年5月19日発行。購読は登録ページから)
(*1)拙稿、「〈不在〉の遠心力が生み出すアッサンブラージュ」(鳥公園『おばあちゃん家のニワオハカ』劇評)。
(*2)東京デスロックの全国ツアー『演劇LOVE2009~愛の ハネムーン~』については、カトリヒデトシ「コミュニティの誕生、成熟、崩壊、再生へ 編み直す演出で成長する作品」を参照。
【筆者略歴】
プルサーマル・フジコ
2010年4月よりミニコミなど周縁的ながら徐々に執筆活動を始める。雑誌「エクス・ポ テン/イチ」(HEADZ発行)にも登場予定。藤原ちから名義では編集者として活動している。個人ブログ「プルサーマル・フジコの革命テント」。
【上演記録】
キラリと世界で創る芝居vol.1☆韓国「LOVE The World 2010」
富士見市民文化会館キラリ☆ふじみマルチホール(2010年4月23日-27日)
構成・演出、多田淳之介
出演:夏目慎也(東京デスロック)、間野律子(東京デスロック)、寺内亜矢子、山本雅幸(青年団)
オ・ミンジョン、キム・ソンイル、キム・ユリ、チェ・ソヨン
スタッフ/
構成・演出 多田淳之介
舞台監督 中西隆雄
舞台美術 濱崎賢二
照明 岩城保
音響 泉田雄太
衣裳 臼井梨恵
演出助手 橋本清
通訳 イ・ホンイ
宣伝美術 京(kyo.designworks)
韓国側コーディネーター ソン・ギウン
チケット 一般 2,500円/高校生以下 1,500円
企画・製作/富士見市民文化会館キラリ☆ふじみ
主催/財団法人富士見市施設管理公社
助成/財団法人アサヒビール芸術文化財団
協力/キラリンク☆カンパニー東京デスロック 第12言語演劇スタジオ 青年団