青年団「革命日記」

◎「内なるオウム」の視座なく
  鈴木励滋

「革命日記」公演チラシ舞台は一昨年の公演ではマンションの一室であったが、今回は一戸建てだという。
赤を基調とした調度品、調度品と言っても正面奥に天井まで延びた7列9段の棚があるくらいなのだが、上から三段目辺りが下手側に、その上の段は上手側に伸び、それぞれが梁のようになっている。上手側にのみ壁がありこれもまた生々しい赤で塗られている。棚や梁にはマトリョーシカやエッフェル塔やベネチアのマスクなどが全集とともに並べられ、間接照明が配され、洗練された部屋を表していた。

本棚の手前にソファと、床のあちこちにいくつかのクッション、床はコンクリートの冷たい感じで、中央にはラグマットがひかれてその上にテーブルがあり、酒や料理が並んでいる。
下手の下に伸びる階段の先に玄関、上手の壁の裏側にキッチンや別の部屋があるという設定になっていた。

二組の男女の会話から、ここが潜伏し後方支援する増田夫妻の住む組織の「アジト」であること、若い二人の男女は空港占拠を目論む前線部隊であることが浮かび上がる。

作戦の実行を目前にした会議であるが、なかなかメンバーが揃わない上に「支援者」や近隣住民が訪れて話が進まないどころか、大使館との同時襲撃という計画の変更に強く反発する者もあり、そこには私情が見え隠れする。

15名の登場人物に関しては、隅々まで丁寧に書き込まれ、解れもない戯曲はいつもと同様に見事である。

たとえば、小坂信子という比較的若く、元革命家の田中との遣り取りから、組織歴も短そうな女性が現れることで立ち上がる情景。
大使館襲撃計画の杜撰さを指摘する立花に、横柄なもの言いで応じる小坂。手羽先に齧り付きながら流していたリーダーの佐々木は、仕方がないなというように桜井との私的な関係をやんわり責めることで立花を押さえ込もうとするが、思いのほか反発される。うまく諭せない苛立ちにまみれた佐々木が、空港と大使館を同時に襲うことが組織の威力を見せ付けることだと、自らの権威を誇示するかのように虚しく演説する中、上気することもシラケることもままならず人々は彼を仰ぎ見ながら魂が抜けたように固まっている。傍らでは、増田の義弟でかつては「三里塚のオオカミ」と呼ばれる活動家でありながらすでに組織を抜けている田中が、目線を落として黙している。ここでも、小坂だけはグラスを手にしたままである。

「革命日記」公演
【写真は「革命日記」公演(2010年)から。撮影=青木司 提供=青年団 禁無断転載】

立花役の鄭亜美の演技があまりに爆発的で意識を持っていかれ、見落としてしまいそうになるが、佐々木に桜井との関係を揶揄された彼女が、佐々木と小坂の関係には踏み込めず増田と千葉の不倫関係への言及で自らを保とうとしたところには、組織の強固なタテ関係が示されている。杜撰な大使館襲撃計画が、小坂の入れ知恵であるとだれもが疑いつつ、そこに異を唱えられない閉塞感も伺える。

平田がこの戯曲を書いたのは十数年前、オウム真理教の一連の事件が影響しているらしい。
地下鉄サリン事件が起き教団が連日テレビの報道で叩かれていたとき、わたしは学生であった。上九一色村のサティアンに閉じこもる若者たちに「こっちへ帰っておいで」と呼びかける人々を見てえも言われぬ不快感が湧いていた。

もちろんテロリズムを擁護する気はさらさらない。けれども、「こっち」が揺るぎなく正しいとどうしていえるのか。なぜわたしは疑いも持たずに「こっち」にのうのうといられるのか、いやむしろそんなわたしがおかしいのではないか…
そんな釈然としないものを抱えながら十余年を生きてきたが、一昨年に続き今回の『革命日記』でも当時のテレビの報道に通じる違和感が生じたのだった。

「劇団という、若い俳優たちの生活の、ある一定部分を預かる仕事をしている以上「私たちはオウムでないのか? 違うとしたら、どこが違うのか?」という問いかけ」が平田には常にあったらしい。つまり、自分たちがいかにオウムではないかという問いだ。そこには、ピカートの「われわれ自身の中のヒトラー」を模した大澤真幸の「われわれ自身の中のオウム」という視座が決定的に欠けているように思う。それは、新興宗教の教団とのあらぬ関係を吹聴されたこともある自分たちの集団が、いかにカルトのようにならないであり続けられるかという過度な志向のよからぬ影響ではなかろうか。

この絶対的な他者への視線は、革命家だけに向けられたものではない。罪滅ぼしのように社会問題と連なるべく「支援者」として関わる商社マンや、NPO職員としてエコや子供との交流をしてきた過去にすがる自治会副会長も、わたしと断絶した他者である。わたしたち観客は「へー、いろんな人がいるんだねぇ」と棚の上から舞台を覗き、そしてまた日常生活に戻っていく。

田中“かつてオオカミ”英夫は義姉に、預かっている甥の存在が夫婦の関係を保たせてくれていると吐露して、明かりは落ちていくというラストもそれを助長した。奇天烈な人々に食傷気味となっていたところに、「こっち」に戻って生きている田中の凡庸なる言葉、そこに漂う余韻はようやくわたしたちの日常と地続きなものが現れたと感覚されたのではないか。

だが、異常な組織から抜けた彼にホッとさせられている場合ではない。清算しきれない闇を孕むかのような田中英夫も含めて、登場人物はことごとく欺瞞に満ちている。言うまでもなく、わたしたちの中にもある「生きることに伴う欺瞞」なのである。それだけではない。佐々木の虚勢も立花の打算も小坂の横柄も増田武雄の小心も坂下の偽善も、全てわたしの中にある。異常な他者の物語ではなく、わたしたちの中にある異常性として、違うことではなく違わないということを描ききっていれば、痛くて可笑しい喜劇の傑作となっていたのではなかったか。異常な他者を嘲笑うことでカルトを否定するのではなく、わたしたちの異常性を自覚的に笑うことから、そんなわたしたちがカルトにまで至らない道が示されるはずなのである。
劇評を書くセミナー2010こまばアゴラ劇場コース 提出作品から)
(初出:マガジン・ワンダーランド第194号、2010年6月9日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
鈴木励滋(すずき・れいじ)
1973年3月群馬県高崎市生まれ。栗原彬に政治社会学を師事。地域作業所カプカプの所長を務めつつ、演劇やダンスの批評を書いている。「生きるための試行 エイブル・アートの実験」(フィルムアート社)やハイバイのツアーパンフに寄稿。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/sa/suzuki-reiji/

【上演記録】
青年団第62回公演『革命日記』
http://www.seinendan.org/jpn/info/info100310.html
こまばアゴラ劇場(2010年5月2日-16日(日)
作・演出:平田オリザ

出演
能島瑞穂 福士史麻 河村竜也 小林亮子 長野 海 佐藤 誠 宇田川千珠子 海津 忠 木引優子 近藤 強 齋藤晴香 佐山和泉 鄭 亜美 中村真生 畑中友仁

スタッフ
舞台美術:杉山 至
照明:岩城 保
衣裳:有賀千鶴
演出助手:鹿島将介 玉田真也
宣伝美術:工藤規雄+村上和子 太田裕子
宣伝写真:佐藤孝仁
宣伝美術スタイリスト:山口友里
制作:木元太郎

チケット料金 一般:3,500円 学生・シニア(65歳以上):2,500円 高校生以下:1,500円
■主催    (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
■企画制作 青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
■助成   平成22年度芸術文化拠点形成事業

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