鰰「動け! 人間!」

◎肯定と否定のあいだのあいだで半魚人は愛を叫ぶ
プルサーマル・フジコ

似ている……と安易に喩えるのは失礼で怠慢だけども、鰰の『動け! 人間!』を正面から語るのは難しいのでまずは迂回して搦め手から攻めてみる。長い旅になりそうだけどお付き合いいただきたい。

例えば最初の一歩としてエミール・クストリッツァ監督の『アンダーグラウンド』に寄せてみるのはどうか? この映画は20世紀半ばの東欧に存在したある国を舞台としている。ナチスからの祖国解放戦争は終結したのに、戦災を逃れて地下に潜った住人たちはその事実を知らされず、毎晩流れる偽のラジオ放送の所為でまだ戦争が続いているのだと信じ込んでいた。祖国のためならえんやーこらーと精を出して陽気に武器を密造し、地上で着々とキャリアを重ね出世するマルコに長年搾り取られている彼ら。けれどもある日、深手を負って地下に潜伏していた英雄クロが傷も癒えてついに立ち上がり、混乱したマルコの隙に乗じて勇躍地上へと舞い戻る。ところがすでに「祖国」は分裂していて、クロたちの居場所はもうそこにないのだった…。

15年ほど前に公開されたこの映画はすでに記憶の彼方だが、あの無為な労働を繰り返す地下世界の住人たちのイメージが、この鰰の『動け! 人間!』にはそこはかとなくオーヴァーラップしてくる。しかし『動け! 人間!』を語るうえで大事なことは、クロのように抜きんでた力を持った英雄が見当たらないとゆーことだ。すごくない人たち。誰もがどこか傑出するには足りず、その欠損を埋め合わすべく助け合って生きていこうとゆう協調性や賢さもなければ、何かを強く引き受けようとする甲斐性すらもない。いつもコミュニケーションはチグハグで、自分の居場所にしっくりこないまま不器用に半歩ズッコケているようだ。いや、単に正直なだけなのか? いちおう何か言葉を呟いたり踊ったりして、調子の狂った自分のリズムを取り戻そうと試みてはいるようだ が…。

鰰は魚へんに神と書いて「hatahata」と読む。2人の演出家、神里雄大(岡崎藝術座)と白神ももこ(モモンガ・コンプレックス)が「ダンスでも演劇でもない、よくわからない新しいパフォーミング・アーツを目指して」結成した新ユニットである(*1)。アトリエ春風舎で行われた旗揚げ公演『動け! 人間!』には、《深海魚》《淡水魚》《出世魚》と呼ばれる3つの プログラムがあった。それぞれ詳細は後で見るので、まずはパッと思いつく全体の特徴を書き出してみたい。

「動け!人間!」公演
「動け!人間!」公演

「動け!人間!」公演
【写真は「動け!人間!」『なんとなく「深海魚」と呼ばれている方』公演(2010年4月-5月)から。撮影=北川桃 提供=鰰(hatahata) 禁無断転載】

【特徴1:多様で複雑なプログラム構成】長期にわたるメルマガ配信や往復書簡など、ウェブを使った雑多な情報発信。なぜか年末に俳優スタッフ陣で築地市場まで夜通し歩いたり、お台場レインボーブリッジまでウルトラクイズに見立てて歩いたりしてそれをツイッターで実況中継するイベントとか。さらに手書きのチラシ、おみくじ、などなど作品の上演以外にも企画が多くて全体的に極めてノイズに溢れていた。そもそも3つもプログラムがある時点で情報戦略として決してスムーズとは言えない。

【特徴2:ジャンルを越えたハイブリッドな舞台表現】この原稿では2人を「演出家」と呼ぶが、実際には神里雄大は「演出家・作家」で、白神ももこは「振付家・ダンサー」なのでベースとするジャンルは異なる。俳優に対する演出メソッドはもちろんのこと、シーンの繋ぎ目に対する考え方にもたぶんズレがある。第一、演出家が複数いるのは責任の所在も不明瞭になりそうだしリスキーだけど、このアンバランスでハイブリッドな越境は爆発的に面白い発想を生み出しうる。

【特徴3:その瞬間、その場で起きて体験される出来事】特に《淡水魚》は台本もないまま観客の目の前で稽古をしてシーンを作り、最終的に上演まで行う画期的なプログラムになっていた。それは観客はもちろん、作り手の誰にも次の瞬間何が起きるか分からないスリリングな状況を生んだ。

こうして箇条書きで整理してみると、あたかもこの公演が「演劇」の枠組みを捉え直す大がかりな実験だったようにも見える。まあ実際そうした実験的な側面は間違いなくあった。けど別に鰰の2人が「演劇」の枠組みにそこまでこだわっているとも見えないので、もっと大きな(または小さな)もののために彼らはこれをやった気がする。…しかし一体どうして2人はこんな混沌とした公演をやってしまったのだろう? もっとシンプルに洗練された作品をクレバーに上演すれば、より多くの観客の評判とか、今後のキャリアに繋がりそうなその筋の評価とかをもっとスムーズに得られたのではないか。でも鰰の2人はそれをやらないし、やれない。そこが鰰の魅力でもあり弱点なのかもしれない。

あえて不器用かつ野蛮であること。それを未だ自分にしっくりくる場所(方法)を確立できてない未熟さの露呈であると見ることもできる。でも鰰の2人のそれは単に若さや性格の問題として片付けられるものでもなくて(とわたしは思っていて)、むしろ正直に誠実に生きようとした結果そうなっているのだ、おそらくは。彼らにも野心がないわけではないだろう。けれども大事な部分に対して嘘をつかないこと…。わたしはこの2人の正直さや誠実さを全肯定はしないが、かといって否定する気にも全然ならない。肯定でも否定でもないところにこそ大事な、信頼に足るものを感じている。そもそも成功とは何か? 観るわたしも作る彼らも息を吸って吐いて生きてそのプロセスの中にたまたま「演劇」があるので、その呼吸・生存のプロセスを通じて初めて作品も一瞬の輝きを帯びるのだから、単に方法論やスタイルだけを云々したり状況論的にマッピングしたりすることに今のわたしはさほど興味を持てない。だからわたしの劇評はそこを目指さない。といって別に演出家でも演劇人でもないただの素の人間としての彼らに興味津々といったわけでも全然ない。あくまで舞台とその周辺に関心の焦点があるし、そこに横たわる不器用さ・野蛮さ・正直さ・誠実さといったものに興味を掻き立てられる。だから○×や点数はとりあえずどうでもいいかな。

「肯定と否定のあいだにはあいだがあるのか。」

これは神里と白神のあいだで交わされた往復書簡から引用した言葉である(*2)。この往復書簡をトレースしていくと彼らが最初からこの公演について明確な答えを用意していなかったことが窺えるし、台本を用意せずその場でキャストに当て書きするようにエチュードを重ねて各シーンを作っていったのだと分かる。特に1月20日の往復書簡にはある絵が掲載されていて、今あらため てそれを見ると軽く衝撃を受ける。初稽古の時に俳優たちがクレヨンで描いたイメージ画をスキャナーで取り込んで重ね合わせた絵であるらしいが、実際『動け! 人間!』はこの絵のような公演に仕上がっていたように思えるのだ。密度の中にも隙のあるそれ、暗くも明るくもあるそれ、複数のレイヤーを含んだそれ…。

トップダウン方式で俳優を従わせるのではなく、俳優と共に徐々にイメージを膨らませて各シーンを醸成していく、そしてその断片を最終的に演出家がその感性と技術によって切り貼りする。こうしてひとつの流れ(ストーリー)に頼らず、断片から全体を立ち上げていく手法をわたしは総じてアッサンブラージュ(立体的なコラージュ)と呼んでいるのだが、例えば建築家ガウディの遺したサグラダ・ファミリアを思い起こしてほしい。設計図は存在しない。なの にガウディの亡くなった今でもまだ建築が続けられている…。それはある意味、もはやどこで終わっても構わない永遠に未完の建造物である。

今回の『動け! 人間!』はまさに設計図のない公演だった。2人の演出家が(結果的にであれ)採った方法は、話し合いによって明確な設計図を作り俳優たちに提示することではなく、むしろ演出家同士のコミュニケーションのズレを含んだまま公演に臨むことだった。とりわけ《淡水魚》のプログラムはその要素が顕著で、プロセスも含めて公開するとゆーかなりチャレンジングな企画になっていた。航海に喩えるとすれば、船乗り(俳優)たちに船を漕がせているにも関わらず、2人の船長(演出家)は目的地どころか舵を取る方向さえ告げないで漂流していたようなものだ。それでも漂ううちにどこかには辿り着くはずだとゆうヘンな確信と、最終的な責任は我々がとるとゆう覚悟がこの2人にはあったのだと思う。彼らに根拠がないわけではない。航海のための海図も設計図もなかったとはいえ、あの絵を持っていたのだから。クレヨンで描かれたあのカラフルなイメージの重なりは、彼らにとって心強いコンパス(方位磁針)になったことだろう。

そろそろこの劇評も中盤に差し掛かる。具体的に各プログラムを見ていきたい。まず《深海魚》は一般的な公演形式にもっとも近いもので、何をするのか確定された芝居を上演するプログラムである。全19回。おそらくは制作過程がこれもアッサンブラージュ的であった所為だろう、ストーリーは混沌としていて、三角関係があるかと思えば懸賞ハガキを書き続ける女がいたり、戦争シーンや自己啓発セミナーが登場、「男とは…」とゆう哲学的な考察の開陳、果ては突然ウルトラクイズになったりする。また最大の見せ場は全員が半魚人になってシブがき隊の「スシ食いねェ!」に合わせて隊列を組んで踊るシーンだ。今思うとそれらは、お台場の自由の女神像のレプリカや、築地市場といった彼らがフィールドワークによって採取したイメージによって生まれたシーンかもしれない。結局すべて断片的なイメージのまま繋がれていて、全体としてのまとまりを欠いたようにも見えるのだが、公演が終わってしばらく経った今もなお、個々のシーンや俳優の迫力が未だ強度を持って脳裏によみがえるのは不思議なことだ。確かにオーディションによって選ばれた俳優陣がとても魅力的で、特に主役級のキャラクターを演じた宮崎晋太朗はセリフがほとんどない役にも関わらず、感情を抑制した表情で多くを物語り、独特の説得力を持って舞台に立っていた。他の面々も例えばほとんど狂人のごときアウラを発していた太田緑ロランス(目からビームが出るかと思った)など見所満載で、武谷公雄や兵藤公美といった経験豊富な俳優がバランサーの役目を果たした所為もあってか、少数精鋭野郎Aチームとでも呼びたくなる一体感もあった。描かれる役人物の関係こそチグハグだが、彼ら自身はいい座組を形成していたと思う。

《出世魚》は朝から夕方まで様々な出し物を盛り込んだ一日がかりのプログラムで、全公演期間中わずか2回だけのちょっとプレミアムなエンターテインメントショウである。まず朝公演では「スナック斎藤」を舞台に起きる殺人事件の真犯人を探し求めるのだが、なんと実際に観客も劇場を出て駅周辺までぞろぞろ歩いて手がかりを追っていく。まあ結局適当に事件はめでたく(?)解決されるのだけど。続く「51歳の国」では51歳にして俳優の道にのめり込んでしまった真田真による実際かなり感動的なエピソード(おそらく実話)が披露される。この企画はトレンディ・タイムと呼ばれる時間になると派手な音楽が鳴り響き真田の胸ポケットに小銭をねじ込む「投げ銭制」になっていて、まるで場末のスナックの流し芸人のショウに居合わせてしまったような奇妙な気分 になった。さらに出し物は「池田義太郎のでぶ学講座」「武谷公雄の一人ものまね王座決定戦」「高須賀千江子のゆるゆるストレッチの会」「宮崎晋太朗の新川崎コーラスセンターの歌会」などと続き、神里の傘芸や白神のダンスなどもあってストレッチで身体も緩んでぽっかぽか、大爆笑して盛りだくさんの一日だ。面白かったのはお昼休憩で各自弁当を買ってきて輪になってみんなでランチを食べましょうとゆーほのぼの企画のはずが、俳優と演出家のあいだで《淡水魚》の方向性に関して少々激しい応酬があり、それに過敏に反応した中林舞が思わず声を震わせて「あたしは…でも、なんか…いいと思う、これが正直てゆうか、普通のことなんだと思う」みたいなことを言ってシリアスで緊迫した展開が生まれもう誰か泣き出すんじゃないかとゆうくらい刺激的だったのだが、そこにトシちゃん(田原俊彦)の真似をした武谷公雄が颯爽と現れて「アハハー、なんかみんなさ、ムズカシイこと話してたみたいだけどボクのモノマネを楽しんでいっておくれよアハハー!」とそのまま白石加代子からオノ・ヨーコまでノンストップの爆笑モノマネオンパレードショウを縦横無尽に繰り広げたのだった。これが、顎がはずれそうな面白さ。まあ要するに《出世魚》はヘンな出来事にたくさん遭遇できる一日がかりのピクニックだったわけだ。

そして問題の《淡水魚》である。最も印象に残ったこのプログラムについてわたしは多くを語りたい。これは10人の俳優がその場で稽古から上演までするプログラムだ。全8回。ある回で生まれたシーンは取捨選択を経て次の回に受け継がれていくので、回を追うごとに上演作品の全体像は変容していく。ゴールは見えず、さっきも書いたようにまるで大海を当てもなく彷徨う不安な航海そのものだった。じゃあ最終回の完成品だけ観ればいいじゃないかとも思えそうだけど、さにあらず。その途上には様々な感動がある。例えばわたしが最初に観た2日目では、「ジャリ野郎の歌」の歌詞がうまく浮かばなくて悩んでいた神里が、突然閃めいたのかスラスラとパソコンで神懸かり的に歌詞を書き始めた瞬間があり、まるで急に天からフレーズが降りてきたように感じたものだ。あの時、観客の誰ひとりとしてあのシーンに対して助言も発言もしなかったずなのに、あの瞬間に居合わせたとゆーただそれだけで、わたしはまるであのシーンの誕生に貢献したかのような不思議な感慨を抱いたのである。観る客によってその種の感動を覚える箇所は異なったと思うけど、《淡水魚》を楽しんだ人はみな何かしらそうした瞬間を目撃したのではないだろうか。いわゆる観客参加型の演劇とゆうと、観客が舞台に上がったり演じたり発言したり客いじりだったりになりがちだけど、実は舞台を観ているだけで観客は演劇と共犯し ているのだ…と感じることのできた瞬間だった。

あるいは最終回の8日目はどうか。2人の女が温泉の話をするシーンを冒頭部に追加することになり、新たなエチュードが行われている。出番を与えられたのは中林舞と今井理恵だ。トンチンカンな反応をする聞き手役になった今井は、演出家に相槌の仕方をディレクションされるも一向に飲み込めず、一生懸命メモまでとっているのに疲労のためか口を突いて出るのはバリエーションの乏しい語彙の反復ばかりで、次第に今井にも焦りの色が見えてくる。しかし天性のユーモアの為せる業か、例えば「山だね!」と言うはずのところで「海だね!」になってしまったり、「ふんふん♪」と楽しんで聞いているかと思えば突然タイミングのズレたところでブチ切れてしまったりとかで謎のテンションへと加速度的に突入し、バランスを欠いたシュールなエチュードと化していった。一方温泉に行ってきた話をする女役の中林も素晴らしいパフォーマンスを見せていて、「あのぉ、あたしが…だと思って…それって…そうそう…じゃなくない?」みたいな喋り方は、彼女が普段所属している快快(faifai)でもよく見せるような過去の回想と現在の気持ちが合わさった、そして独白と誰かへの語りかけの混じった、特異な語り口である。台本もないのに「じゃ、温泉行った話をして」とゆーディレクションひとつで瞬時にアドリブでそうした言葉の連なりがスラスラ淀みなく(とはいえトンチンカンな相手への躊躇いなどもしっかり含みつつ)出てくるのは、青年団の現代口語演劇やチェルフィッチュの話法が模倣され普及・咀嚼されたことの証明でもあるだろうけど、なにより中林舞の俳優としての経験値の蓄積・進化や、演出家との信頼関係を感じさせる一幕でもあった。

さて、この劇評もそろそろ終盤に近づいたようだ。わたしはこの《淡水魚》を観た直後に、「遊星からの刺客野郎Bチーム~火星婦は見た! 温泉とタラちゃんと恋愛をめぐるささやかな考察」などとゆーふざけたタイトルを余興で付けてツイッターとかでひとり呟いて悦に入ってみたのだが、それは他に言い表す言葉が見つからなかったからでもあるし、不思議とBチーム感漂うこのメンバーの凸凹ぶりが愛おしいものに感じられたからでもあった。彼らは「くせぇ!」と言い合って音頭をとったり「このジャリ野郎!」と罵ったり恋人を目の前で横恋慕されたり、宇宙人のお相撲さんになったり「ダルマさんが転んだ」をしたりする。アサガオになったりもする。結局それらの各シーンの重なりは、この文章の冒頭でも少し示唆したように、微妙に世の中の流行とか社会的要請で調子の狂ってしまった自分自身のリズムをどうにか取り戻すための、各個人の正直さや誠実さを賭けた闘いだった……ともわたしは思うのだ。それはパッと見た感じB級のうだつの上がらない人たちの、欲しいものが手に入らない人たちの、陽の当たる場所では生きていけない人たちの孤独な饗宴としてわたしの目の前に立ち現れていた。もちろん実際の彼らの人生が幸福なのか不幸なのかわたしは知らない。実はもの凄い裕福な家庭とかで育っているのかもしれない。それはどうでもいいことだし、たぶんそうでもないだろう。舞台の上でわけの分からないシーンを作っては壊し続ける彼らは、ルーザー(負け犬)ですらない、そもそもそんな勝ち負けの土俵とか共同体とかにすら乗れない半魚人だか宇宙人だか妖怪だかとしてわたしの前に存在していたのである。要するに人間として半分足りない存在。しかしそんな彼らこそが人間なのだ、とゆう矛盾した想いもわたしの中には同時に芽生えた。ゾンビみたいに何かに操られ、流行への反射神経だけでせせこましく言い訳しながら生きていくのが人間だとしたら、正直かつ誠実に生きようとして不器用で野蛮になってしまう彼らもまた人間なのだ。

そうだ、彼らこそが人間なのだ。…そう思ってみて初めて『動け! 人間!』とゆータイトルがわたしの中で明瞭な像を結ぶ。最初このタイトルを聞いた時、「神」の文字をその苗字に含む「神」里雄大と白「神」ももこが、下界の人間どもを操って何か面白いことをしでかすのだろうとゆー程度の平板な発想しか抱かなかった。それでも充分、世間に評価されるような刺激的で新しく前衛的な作品を彼らなら作れると浅はかにも考えたからである。しかし結果的にこの公演はそうゆう方向には進まず、関わった人々の内部に眠る「人間」をチクリと、でも忘れられない形で一刺しすることになった。《深海魚》で来る日も来る日も懸賞ハガキを書いてポストする女も、《淡水魚》でペットボトルを頭の上に乗せてバランス取りつつ結局男を袖にしてしまうひどい女も、《出世魚》で51歳にして突如俳優として覚醒してしまったおじさんも、物語として誰かに拾ってももらえないような救いがたい「人間」の精神の、孤独だが 愛おしい現れだったのではないか?

世の中には意気揚々と太陽の下を大手を振って歩いていける表現もあるし、愛情に満ちた幸福に包まれた楽園像もあれば、世間を切り裂く勇ましい宣言もある。それはそれで良いのだが、人生は多難だし偶然不運に見舞われることもあるし、いつも調子よく青写真通りにホップステップジャンプで事が運ぶわけではない。「落選…か…」とゆう《深海魚》で男がさらりと呟くセリフが象徴するように、誰もが一度や二度は挫折を味わい苦杯をなめるものだ。別に 不幸だとか疎外されて差別されているとゆう強い排斥を味わわなくても、「誰にでも分かるように」との名目で一般化された「恋愛」や「家族」の物語とか流行りの歌とかでは、到底救われないものがこの世には偏在している。それら様々な人間模様や出来事や感性や生き方、その怨念と言わないまでも他に行き場のない感情や精神といったものが、『動け! 人間!』にはあった。いや、これではネガティブな方向から語りすぎかもしれない。単純に、正直で誠実であろうとすること…それはまったく大げさでも大がかりなことでもなく、生きている人間誰しもに与えられたささやかな存在証明だ。愛でたいものを愛で、好きなものを何の要請にも縛られず大事にしたいとゆう、ただそれだけのことなのだ。

何かが欲しい、でもそれがうまく手に入らない人たちがいたとして、『動け! 人間!』はそれを短絡的に全肯定はしてない。しかし少なくとも無碍に切り捨てたりはしない。ただ世の中とゆうものが、ゼロかイチかの二元論や消費社会の暗黙のルールとやらに乗っかって闇の中に無駄や無意味なノイズとして葬り去ってきたものが数多くあるとするなら、その囚われたものたちの残余と言える部分を、舞台の上に乗せようとしただけなのだと思う。別にことさら何かを救おうという強い意図も2人にはないだろう。ただ肯定と否定のあいだにはやっぱりあいだがあるのだ、きっと。2人はそこに何かしら大事なものの匂いを嗅ぎ取ったのではないか?

わたしが最も好きだったシーンは《淡水魚》の2日目で、半魚人化した今井理恵が暗がりの中で明滅するスポットライトに反応する奇妙な場面だ。最終日の8日目でもこのシーンはコミカルな表現に変化して生き残ってはいたが、わたしが惹かれたのはむしろ2日目の未熟なまま終わったバージョンのほうで、明るい場所では生きていけず、かといって暗い場所も寂しいので薄灯りに反応せずにはいられない半魚人の彼女が、昔のエキセントリックなB級SF映画み たいにヒュル~♪と不気味に流れる音楽をBGMに「ワタシハヒトリ…」と独白するシーンには強く強く心を打たれた。あれは独白ではあるけど確実に観る者の心を捉える何かを発していたのだ。わたしはあの半魚人の孤独の叫びの中に何か過去の、世に認められることもなく消えていった数々の生命体のこと、例えば誰もいない夜のデパートで感電死するグレムリンとか、母親の虐待で畸形になってしまった『グーニーズ』の大男とか、デヴィッド・リンチの描く象男とか、ある朝起きたら虫になってしまった家族思いの青年ザムザとか、飼い主の理想の恋人に変身してしまう『火の鳥 未来編』の宇宙生物ムーピーとか、鬼太郎に成敗される業の深い妖怪とか、あるいは氷の海にひっそり船を漕ぎ出し消えていくフランケンシュタイン博士の作った怪物とか、そうした連中の姿を見る思いがする…。

神里雄大は岡崎藝術座、白神ももこはモモンガ・コンプレックスと、それぞれ自分のカンパニーで活躍を続けている。だから当分先の話になるかもしれないけど、いつかまた鰰には還ってきてほしい。そしていわく言い難い不器用で野蛮な「あいだのあいだ」へと、またわたし(たち)を連れていってほしいと願うのだ。

(観劇:《深海魚》4/19、5/4 《淡水魚》4/20、5/4  《出世魚》4/29 @アトリエ春風舎)

(*1)鰰のウェブサイト:http://hatahata.sitemix.jp/
(*2)鰰の往復書簡:http://hatahata.sitemix.jp/archives/category/correspondence

(初出:マガジン・ワンダーランド第196号、2010年6月23日発行。購読は登録ページから)

【筆者略歴】
プルサーマル・フジコ
2010年4月よりミニコミなど周縁的ながら徐々に執筆活動を始める。雑誌「エクス・ポ テン/イチ」(HEADZ発行)にも登場予定。藤原ちから名義では編集者として活動している。個人ブログ「プルサーマル・フジコの革命テント」。

【上演記録】
鰰[hatahata] 第一回公演 「動け! 人間!」
アトリエ春風舎(2010年4月16日-5月5日)

【構成・美術】神里雄大(岡崎藝術座)×白神ももこ(モモンガ・コンプレックス

【プログラム内容/出演者】
○プログラム「は」・・・なんとなく「深海魚」と呼ばれている方
-往復書簡のように交代制で演出をし、互いに壊しては組み立てていく…という過程を経て作品を構築する-
【出演】兵藤公美(青年団) 太田緑ロランス 櫻隼人 武谷公雄 羽太結子 宮崎晋太朗 米田沙織

○プログラム「た」・・・なんとなく「淡水魚」と呼ばれている方
-創作過程を公開する公演/4時間で稽古~発表までを行う-
【出演】今井理恵 川崎麻里子 斉藤美穂 篠崎大悟(ロロ) 菅田将輝 高須賀千江子(輝く未来) 中林舞(快快) 中村早香(ひょっとこ乱舞) 舘宏大 森下なる美 …ほか

○プログラム「ハタ」・・・「出世魚」となんとなく呼ばれているもの
まったくシークレット

【構成・美術】神里雄大×白神ももこ
【照明】伊藤泰行
【制作】野村政之、宮永琢生、岡崎龍夫、寺田千晶

「は」 なんとなく『深海魚』と呼ばれている方
★(初日ハッピープライス)⇒予約・当日とも1,800円
★(前半ラッキープライス)⇒予約:2,000円 当日:2,300円
★予約:2,300円 当日:2,500円

「た」 なんとなく『淡水魚』と呼ばれている方
★予約:1,500円 当日:1,800円

「ハタ」 『出世魚』となんとなく呼ばれているもの
★予約・当日とも1,300円

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