ワンダーランド200号記念鼎談「2010年、超新星は小劇場を更新するか?」(前半)

徳永京子(演劇ジャーナリスト)× 藤原ちから(編集者)× 日夏ユタカ(ライター) (発言順)

ロロ「旅、旅旅」公演チラシ■今回取り上げる劇団・作品
ロロ旅、旅旅』作・演出:三浦直之 @王子小劇場
マームとジプシー『しゃぼんのころ』作・演出:藤田貴大 @STスポット
バナナ学園純情乙女組『アタシが一番愛してる』作:月並ハイジ 演出:二階堂瞳子 @ART THEATERかもめ座
ジエン社『クセナキスキス』作・演出:作者本介 @日暮里d倉庫


■現代口語演劇はもう伝説?

徳永京子さん徳永 このところ、新しい面白さを持つ劇団が立て続けに出てきた実感があります。個人的にはロロ、マームとジプシー、バナナ学園純情乙女組、ジエン社。この4つを5月、6月と続けて観たのが衝撃でした。これまで演劇を観てきた中でもこんなに集まる時期はあまりなくて、何かの萌芽にも思えるんです。先日の岸田戯曲賞の最終候補の顔ぶれで、世代がガラッと変わった印象はありましたし、最近は「テン年代」とも言われます。ただ、今日取り上げたい4つの劇団は、それとはまた別の文脈で捉えたい気がしています。
日夏 僕もその4本とも観ていて、いずれも新鮮で刺激的な作品だったので、「何かの萌芽」という感覚はとてもよくわかります。ただ、ジエン社の作者本介さんだけ少し歳上(83年生まれ)なこともあって、そこはちょっと別扱いにしたいですね。というのも、作者本介さんとほぼ同世代の「キレなかった14才りたーんず」の演出家たち(6人中5人が82年生まれ)と同様に、まだどこか、平田オリザさん(青年団)の現代口語演劇からどう先に進むか、あるいはどう逃れるかという意識が作品に漂っているように思えるんです。だけどロロ、バナナ学園、マームとジプシーはそこを全部あっさり通過していて、当然のように受け入れている。上の世代への反発や、演劇史的な対立軸を起点に何かを生み出すといった感じではまるでないんです。
藤原 残念ながら僕はジエン社を見逃してしまったので、少し詳しく知りたいです。

ジエン社「クセナキス」公演チラシ
ジエン社「クセナキス」公演チラシ

日夏 ジエン社の特徴はですね、というほどじつは詳しくないんですけど、とりあえず最新作の『クセナキスキス』だと、セカイ系的な閉塞感に溢れた物語を背景に、現代口語演劇が主流となった小劇場の中でこれから自分たちにどういう演劇ができるか模索しつつ、そこに主宰の作者本介自身の悩み、苦しみ、生きづらさなどを思いっ切り重ね合わせてぶちまけながら、救いを求めて祈りつづけるような芝居でした(笑)。多様な文脈を巧みに織り込んだ戯曲だったので、観る人によってはかなり違う物語が立ち上がっていた可能性もあります。
徳永 ワンダーランドでお馴染みのカトリヒデトシさんにお聞きした話になりますが、作者本介さんは御自身のお芝居を「現代口語演劇2.0」って呼んでいるそうです。平田オリザさんの現代口語演劇を仮に1.0として「みんなが一斉に喋ってるから聴き取れない状況」を表出させるとしたら、ジエン社は「みんなが違うことを考えていて伝わらない心象風景」をノイジーに描く。状況ではなく心境で、しかも絶望から入っている感じですね。
日夏 大きな物語を語れなくなったという前提の中で、どうやって物語を作るかの葛藤がありますよね。例えば2、3年前の柿喰う客では、「物語をうまく終わらせられない」、あるいは「すんなり終結する物語を描くのは格好が悪いんじゃないか」といった意識が見えました。突然、観客を巻き込んで合唱して芝居が終わったりしてましたし(笑)。その問題意識は今回のジエン社にも重なります。
藤原 なるほど、その絶望はホームページの文章でもなんとなく感じます。主体のズレ、SF的想像力、諦観。まるで円城塔の短編小説みたいに面白い。「作者本介」という名前も匿名の記号みたいだし。
徳永 ロロやバナナ学園がいろいろなものをミックスしていくとしたら、常にゼロに向けてスライドしていくのがジエン社です。最後の最後に希望を一瞬だけ持って来るけど、それまでの絶望の並べ方たるや凄く強固で。それって平田オリザさんが方法論を作って、目を入れてない現代口語演劇に…。
日夏 目を入れてない?(笑)
徳永 最後の仕上げは後人のアレンジで、という余白は残しているんじゃないかと思います。でもジエン社は、その目に穴を空けて空洞にした感触があります。今回なぜこの世代の微妙に異なる4つの劇団を並べてみたかというと、まさにその平田オリザさんとの距離感が気になったんです。青年団直系の松井周(サンプル)、岩井秀人(ハイバイ)、多田淳之介(東京デスロック)あたりはもっと近しいですよね。柴幸男(ままごと)もまだ近い感じがします。でもこの4団体は、平田オリザが直接引いた線の続きではなく、もっと先から始まってる感じがする。
日夏 多田さんが1年くらい前に、「りたーんず」の面々と世代的な断絶を感じるという趣旨の文章をブログに書いてましたけど、あくまで現代口語演劇を起点とした観客目線では、僕はそれほど違いはないと思ったんです。でも今、ロロやバナナ学園やマームを観ると、間違いなく切り離されたものが生まれている感じはします。
藤原 うーん、僕はいわゆる世代論にはやや慎重でありたいんですけど、平田オリザに直接薫陶を受けたかどうかで当然距離は変わるでしょうし、もしかすると「現代口語演劇っていうものがあったらしいよ」的な伝説なり神話なりが今は出回って、何かを自己生成し始めているのかも、とは思います。
徳永 もう伝説? 時間の流れが速い!

■横つながりの小劇場演劇ネイティブ

日夏ユタカさん日夏 実は去年、小劇場ばかり年間400本以上も観る人からマームとジプシーを猛プッシュされたんです。「これからは桜美林の時代だ」と言われて。何年か前だと本谷有希子さんに象徴されるように、2年制の専門学校のENBUゼミを出た人が、小劇場のシーンとして面白く見えた時代があったと思うんです。でも今は例えばマームもバナナ学園も桜美林出身だし。ロロは日大芸術学部の演劇学科ですよね。要するに4年制大学で演劇を学んだ人たちが活躍している。それも大学というとかつてはどこも新劇寄りな授業だったと思うんですが、桜美林には少し前まで平田オリザさんがいたし、日芸だと中フラの中野成樹さんや劇団ショーマの高橋いさをさんがいたりと、いわゆる小劇場系の演劇に寄るようになった。以前主流だったサークルで先輩から教わるスタイルではなく、もっと専門的に大学で演劇を学べる環境があると思うんです。もちろん最近急激に面白くなっている小劇場を実際に観て育っている面もあるだろうし。そして、この状況を僕は勝手に「小劇場演劇ネイティブ」と呼んでます。歌舞伎役者が2、3歳の頃から舞台に立つのに比べればまるでネイティヴではないかもしれませんが、やはり10代という感覚の柔らかい時期に吸収できるものの差は想像以上に大きい。
藤原 出自や育成方法にこだわるあたり、さすが競馬予想家ですね!(笑)確かに実際、桜美林と日芸の存在は随所で感じます。日芸に『演劇創造』という学生雑誌があって面白かったんですけど、ロロのメンバーもそこに関わっていたりして。でもロロは自分たちでも雑誌を作りたいと公言してますね。
日夏 不思議なくらい、ずっと言ってますね(笑)。あれだけ演劇でしかできないことを舞台に軽々と上げられるのに、今さらなぜ? とも思いますけど、あの活字へのこだわりというか信頼感が、逆にロロの舞台を支える背骨になっているのかも。
藤原 『旅、旅旅』でも編集的なセンスを感じました。コピペとかサンプリングとか全然できちゃう情報摂取時代の申し子って感じ。
徳永 柴さんも日芸出身ですね。
藤原 まさに柴くんはヒップホップ的なサンプリングを超得意としてますけど、彼の場合はまだ手法や構造に対してかなり意識的な作家だと思うんです。ロロはその点、もっと天然というかデフォルトというか。
徳永 横つながりの劇団は、10年ちょっと前から多く増えているんです。モダンスイマーズやONEOR8、少し先輩ですがTHE SHAMPOO HATなどが、上下関係が明確な旧体制の劇団とは違う成り立ちです。一時期、その自由さが新鮮ではあったんですけど、技術的なメソッドを教わる人がいないから基礎を習得するのに時間がかかったり、メンバーの成長の速度にバラつきが出てきた時に微妙な空気が流れてきたりと、問題点もいろいろある。でも今日名前を挙げている劇団なりユニットってそのあたりをクリアしている。楽しそうです。
藤原 楽しそうですねー。例えば快快も、多摩美の同級生でずっと来てますよね。彼女たちの先生だった鈴木志郎康さん(詩人、映像作家)は「遊ぶことしかボクは教えてないよ」って仰ってましたけど(笑)。たぶん誰ひとりメンバーの正確な数を把握してない。あの集団形成の仕方は後続のカンパニーにも影響してるのかも。
日夏 ロロは確実に、快快の同級生感を意識してますよね。ただ、それを意識的・戦略的にやろうとしてしまう段階で、すでに快快的ではなくなる、という矛盾もありそうですけど。

ワンダーランド200号記念鼎談
【写真はワンダーランド200号記念鼎談から。撮影・提供=ワンダーランド 禁無断転載】

藤原 マームとジプシーも劇団形式ではないけど、すごく仲が良さそうで、とはいえその緩いつながりの中から、召田実子は岡崎藝術座やFUKAIPRODUCE羽衣、青柳いづみはチェルフィッチュ、成田亜佑美はハイバイとかに出演していて、演劇的な刺激は常にあの周辺にあると思います。この緩いリンクの持ち方は今の小劇場ならではのものかもしれないですね。あと不思議なのは、さっきチラッと「合唱」の話が出ましたけど…。
日夏 ええ。去年の「りたーんず」の6作品の中で半分以上が合唱を使っていたのは印象的でした。リアルなものを志向して、ミュージカルのように突然役者が歌いだすような芝居を封印した現代口語演劇の文脈に沿う形で、演劇的・論理的に不自然じゃない場所として合唱を使ったんじゃないかと。もちろん、「14歳」がキーワードの企画だったので、中学生の多くが体験している数少ない共同作業ということで選択された側面もあるんでしょうけど。
藤原 あの頃に比べると、歌や踊りの使い方も違うかも。例えばマームとジプシーでソロで歌うのも、バナナ学園がもう後半完全にライブになるのも、ロロのミュージカルも、演劇的構造に囚われていない。モジモジした衒いや恥ずかしさがないというか。
日夏 今は前向いて大きな声出すのはそれはそれで楽しいよねっていう、元々演劇が持っている娯楽的な要素をストレートに出してくる感じでしょうか。
徳永 最初から自分の中に歌や踊りがセットされている印象ですね。20代の役者さんを見てて思うのは、見られる、見せることへの抵抗の無さです。生まれた時からお母さんやお父さんにビデオで撮られ、子供の頃からカラオケで歌いまくり、プリクラはいかに可愛く写るかに凝った。そうして育ったことで、歌や演技に抵抗がない。そこそこ上手いし、特に上手くなくてもコンプレックスが感じられない。
藤原 最近のカンパニーの稽古場ブログとか見ると、あられもない飲み会の風景とか普通にアップされてて結構びっくりします。
徳永 ロロが始めたUstream(ロロ1)とか(笑)。
藤原 ああー(笑)。アレも普通はもっと作り込んでから人前に見せそうなもんだけど、思いつきでポロッと出してしまう。缶ビール100本用意したっていう伝説のロロ1初回はご覧になりました?
徳永 観ました。警官が来たという時間帯は見逃したんですけど。
日夏 ほんとうはその場で戯曲を書くはずだった三浦さんが、泥酔して吐いたりとかね(笑)。
藤原 それで反省したはずが2回目でまたさらに反省っていう(笑)。でも失敗しながらもどんどんやってくバイタリティが気持ちいいです。
日夏 王子小劇場代表の玉山悟さんが言ってたんですけど、下北沢のoff-offシアターでさえ半年先や一年後でないと小屋を借りられないと。本多劇場とかスズナリだったら仕方ないけど、off-offみたいな小屋は、本来、シモキタの居酒屋で飲んでて、盛り上がってじゃあ芝居やろうかーってなったらその勢いで1週間後にやるような場所じゃないのって(笑)。ロロはそのくらいの感覚で芝居をやろうとしてるんじゃないでしょうか。実際、昨年は毎月公演すると宣言してほぼ月刊で芝居していたし、ロロ1も、もともとは毎週1本作品を作ることが目的だったみたいです。

■作為性の後退した新種のリアリズム

徳永 今日名前を挙げてる劇団に、それぞれ特定のメソッドを感じますか?

バナナ学園純情乙女組「アタシが一番愛してる」公演チラシ
「アタシが一番愛してる」公演チラシ

日夏 例えばバナナ学園は、「戯曲レイプ術」という手法は謳ってますが、台本をもとに役者がいくつか演じてみて面白かったアイデアを採用、みたいなシステムらしいので、エチュード作りから特にかっちりしたメソッドがあるわけではないと思います。
藤原 でも見栄の切り方とか話法とか、柿喰う客の影響もありそう。
日夏 バナナ学園はもともと、中屋敷法仁さん(柿喰う客)に台本を依頼してましたからね。当然、柿喰う客を経由して、劇団☆新感線や惑星ピスタチオ、さらに溯って、つかこうへいあたりの演劇遺伝子は受け継いでいるように感じます。ただ、実は柿喰う客の『露出狂』を前後して観たので結果的に比べる感じになったんですけど、正直、今回はバナナ学園のほうが面白いと思ったんですよ。内緒ですけど(笑)。よく「バナナ学園はセリフが聞こえなくてフラストレーションが溜まる」とか言われるますけど、僕なんかは逆に集中して前がかりな観劇姿勢で見続けられる。でも、柿喰う客みたいに高速なセリフでも全部聞こえるしキャラも立ってるし展開もしっかりしてるし、ってなるとあの手の芝居は単調で飽きちゃう部分があるんですよね。親切で完成度高いから逆に。
徳永 私はバナナ学園はノーストレスで途中から気持ち良くなって、アドレナリンが出ました。目に入って来るものも、肌で感じるものもノイジーですよね。水もバチャバチャこぼすし、役者さんが走ると何かがフワーッてかかるし。通常の演劇の体感ではありえないことです。あれだけ情報を過剰に供給されると、その中から選び取れた時の「やったー!」みたいな感じがいい(笑)。
日夏 僕は初日に観劇したんですけど、その時は主宰の二階堂瞳子さんの前説の声もノイズにまみれて半分くらいしか聴き取れない。つまり聴き取れない状況を最初に作り出すことによって、前説自体が芝居全体のありようを表現している、なんて凄いんだろうと思ってた。でも、公演の後半は背後の音楽の音量を下げて聞こえるようになってたらしいんで、意外と普通に聞かせたい気持ちもあったのかも。「菊池」と名前の貼られた体操服姿でうろうろする浅川千絵さんも、後半からはマイクを使ってたみたいだし。
徳永 私は聞こえなくて全然いいと思いました。あの前説はチェルフィッチュの「これから演劇をはじめまーす」っていうのと同じだと思います。浅川さんのマイクは、彼女だけ劇世界から外れている存在で、リアルな世界を中継しててカッコイイと思いました。いわば生身のメタ演劇。
藤原ちからさん藤原 演劇の最大の弱点って、役者が台本を喋らされている事実が露呈する瞬間で、作為が見えてしまった瞬間に興醒めしてしまう。だからハイバイやチェルフィッチュはその演劇の「嘘」を意識して舞台を作ってきてますよね。バナナ学園もそうなのかな? と思いました。虚構のストーリーの内側と外側が全く等価で、そのフラットな情報を浅川千絵が狂言回しとしてうまく繋いでるのが素敵キモイ感じで最高!
日夏 マイクがなかった時も彼女の絡みのタイミングは絶妙で、常に何かを邪魔するように喋ってるんだけど、それが単なる本編のオマケ、添え物じゃなく、掛け算としてうまく機能している感じがして楽しかったんです。
藤原 普通は情報量を仕分けてシンプルに削減するところを、逆に過剰にすることで人間の処理能力の限界を超え、混沌の中から浮かび上がってくるものが快楽に転じる。あの制服姿のスタイル自体はアキバ系地下アイドルの模倣にすぎないと思うんですけど、あんなに過剰にしてまで今を生きていかなくちゃいけない生身の肉体に、なんか切実なものを感じました。徳永さんがアレを観てツイッターで「滅私」と仰っていたのも腑に落ちます。
徳永 圧倒的に戦ってる感じがしましたね!
日夏 実は去年の5月にバナナ学園を観た時は印象が全然違っていて、同じようにノイズは多いものの、舞台上の情報量は少ないし、キャラもストーリーももっと分かりやすかったんです。当時は脚本がなまじしっかりあったからこそ、例えば「制服女子高生」つながりでいうと月触歌劇団とかその前身の演劇舎蟷螂みたいに、役者が単に訓練されていないから台詞が聞こえないように感じられてしまった。それが今回の『アタシが一番愛してる』だと「聞こえない」ことが圧倒的に有効な武器に思えて。正直びっくりしましたね。
徳永 何があったんでしょうか?
日夏 やっぱり、中屋敷戯曲ほど台本がしっかりしてないからでしょう、いい意味で(笑)。がっしりした骨組みがあるとそれに寄りかかってしまって、書かれた台詞をそのまま舞台に上げさえすればいいみたいな感覚になりがちですが、今回は空間や時間を埋めていくエネルギーで舞台を作ってる感じがしました。
藤原 僕が観に行った回は、W杯の日本代表の試合と被ってて、「こっちを選んでくれてありがとう!」みたいなメッセージも織り込まれてて感動しました(笑)。そういうバナナ学園のカオス感とはまた違うけど、ロロの『旅、旅旅』もやっぱりたくさんのマテリアルを舞台の上に乗せてきてましたよね。両者とも、なんでも全部ターンテーブルの上に載せて回してしまう感覚がたぶんある。
徳永 雑食系ですよねー。

「しゃぼんのころ」公演チラシ

藤原 一方のマームとジプシーは世界観自体はもっとシンプルだと思います。ただ現代口語演劇との違いで言うと台本が少し奇妙で。とにかく読点が多くて、セリフが読点に埋もれている。つまり言い切りの言葉はまったくと言っていいほど存在していなくて、全てが曖昧なまま、ほとんど「音」として周囲の風景に溶け込んでいる。これは戯曲の書き方として非常に斬新だと思います。『しゃぼんのころ』のイメージCDに「擬音語についてクタクタ語る」というトラックが収録されているんですけど、それを聴くと、日本語の母音と子音を組み合わせた言語体系では決して文字化できないような「音」としての言葉を、彼らが大切にしていることが分かります。そこからさらに稽古の中でも台本は変化していくし、他の人のセリフとも重なり合って曖昧になる。
日夏 でもセリフを重ねるってのは平田オリザメソッドでもありますよね?
藤原 いや、あえて同時多発的にセリフを重ねる「あざとさ」をもはや感じないというか。
徳永 作為性が消えてますよね。現代口語演劇が「りたーんず」とかを経てこなれて、消化されて、彼らの身体の中に入ったんでしょうか?
藤原 青年団だけではなく、チェルフィッチュの喋り言葉もかなり模倣されたと思うんです。最初は形式的・表面的でしかなかったその模倣が、広がってデフォルトになり、伝説化・神話化される中で突然変異が生まれたのかも。
徳永 ニューバージョンが立ち上がった? 役者さんも最初からそれを出来てる感じがします。彼らの少し上の役者さんにはない自意識の低さというか。イヤらしくない感じはなんでしょう?
藤原 非常に素晴らしい実力のあるベテラン俳優が『しゃぼんのころ』を観て、「これをこの若さで出来てしまっていることに、俳優としていい意味で危機を感じる」と言ってました。でもこれは「りたーんず」世代のさらに下が出てきたというような単純な世代交代論・発展論ではないと思うんです。演劇の、口語の、リアリズムのバージョン更新のスピード自体が上がってるというか。

■何を、どう物語るか?

日夏 それはパソコンのCPUの急激な進化みたいなことですか?
藤原 いや、うーん、確かにロロは都会型のサブカルチャーをリソースにしてるし、音楽や映画や小説や、あるいは思想といったものを併呑していくことで今後も進化すると思います。バナナ学園もたぶん、オタクカルチャーの趨勢と無縁ではないですし。でも単に器用にクレバーに立ち回っているだけではないと思うんです。メソッドありきではなくて。特にマームとジプシーに関しては、田舎の原風景が記憶の奥底に見えるというか。ここ最近の3作品はモチーフが似ていて、火事とか、猫とか、海とか、駅とか、ある意味では同じような物語を変奏している。そこには単なるバージョン更新とは違う原理があると思います。むしろどこかに留まり続けている。
日夏 マームとジプシーを初めて観たのは昨年のこまばアゴラ劇場での『たゆたう、もえる』で、2回目が今回のSTスポットでの『しゃぼんのころ』だったんですが、僕の中では評価が一変しました。『たゆたう、もえる』の時は、作演の藤田貴大さんが見せたい世界をそのまま提示してくる巧さばかりを感じてしまったんですね。たぶんみんな同じように、舞台美術の赤いニットのロングドレスに母娘の血のつながりを感じながら、あの赤い川が見える。それが『しゃぼんのころ』だと、同じようなモチーフなのに、川の向こうにある中学校の校舎、川べりの野宿生活、川から流れて辿り着く海に、観てるこちら側の持っているそれぞれの風景が自然と立ち上がってくる。見せる幅にゆとりができた気がします。それは、表現に省略が増え、観客にもっと委ねたからだと思うんですけど。
徳永 マームとジプシーを何作かご覧になってる方が、「いつも14歳が主人公で同じモチーフばかり。そこから抜け出さないとダメだ」と仰っていて、私は『しゃぼんのころ』しか観てないんですけど、それは間違った指摘だと思っているんです。ある時期の批評には「半径数メートルの人間関係しか描いてない」「家族のことしか扱ってない」とかいう指摘が批判として成り立ったと思うんですね。私自身もその言葉を使ったことがあります。でもマームに関しては、大事なのはそこじゃないだろうと思うんです。何を物語るかではなくて、どう物語るか、あるいは、なぜそこにこだわるかこそが観るべきもので。
藤原 そこしか描けないと見るか、逆にそこに凄く大事なものがあると見るかは際どいところですね。確かにマームは「反復とズラし」を相当高い完成度でやっているから、手先が器用にも見えるけど、実はアレしか描けないという不器用さもある気がするんです。そこがマームとジプシーの作家性を担保してるとも思うんですよ。だからその意味では、どう変奏して語っていくか(HOW)はもちろん大事だけど、意外と、何を語るか(WHAT)も彼らには重要なのかもしれないです。火事がある、生理が来る、動物を殺してしまう、駅から旅立たなくてはいけない、海が見える…。もう何も語ることはない、物語は失効してやり尽くされたと90年代以降うんざりするくらい言われてきたけど、いやいやそんなことはないぞと。廃墟に見えた後にもまだ語ることはありますよって感じが、彼らの強さだと思います。なんせ、今を生きてますからね。それを語りたいという野心はロロの三浦直之にもひしひしと感じます。なぜか今、新たに物語る意志を持った人たちが現れてきた。
日夏 三浦さんはかなりそこは自覚的ですよね。「ロロは奇抜な演出で語られがちだけど、自分はあくまで劇作家で、あえて物語にこだわりたい」と一貫して言ってます。
徳永 『しゃぼんのころ』の河原とか学校とか火事とか猫とかって、凡百と言ってもいいモチーフで、新鮮さという観点では唾棄されてもおかしくないものだと思うんです。でも例えばピアノを弾く時に残音をどこまでにするとか、それこそ魂を込めるとか、一音の精度と強度を高めることによって凡庸な歌詞でも心に響くってことはあるじゃないですか。そこは信じていいですよね、演劇でも。
藤原 一巡して、若い作家が凡庸さを怖れなくなったのかもしれませんけど、精度はかなり繊細になっている。響きますね。
日夏 たぶん一時期、大人計画からポツドールに繋がるあたりでは、とにかく人間の本質的なものを炙りだそうと、人間の醜さや負の部分、タブーなどを徹底的に露悪的に描いて、過剰で異常な状況を設定する中で表現する演劇があったと思うんです。今はそれではなく、共感できる流れをっていうのもあるのかもしれないですね。
藤原 幾らか個人的な印象ですけど、何年か前まではもう語る物語がない、出口なし、みたいな閉塞感や自虐感もあったと思うんですよ。演劇でも。でも今はついにそこを潜り抜けてきた。それを「過去の何かに似ている」と指摘することも可能なんでしょうけど、でもそれはデフォルトで、何か踏み出せば必ず何かに似てしまうので。その絶望をやっと消化できたんじゃないですか? だから観るほうの批評の言語も、アップデートを迫られている感じはしてます。そうでないと、この湧いてきてる創作のエネルギーや意志に全然かなわないと思うし、封じ込めるんじゃなくて、刺激を与えつつ、一緒に未来を見てくような言葉が生まれたらいいなと思います。
徳永 日本の劇作家の演劇論って、鈴木忠志さんや太田省吾さんみたいに難解で哲学的なものから、20年ぐらいの空白があって、いきなり超具体的、実用的な平田オリザさんになるんですよ。つまりこの20年は、演劇の教科書は平田オリザ版が最新だった。さっき、現代口語演劇が伝説になるのが速い、と言いましたが、それぐらいの時間が経てば何かが更新されるのは自然なことかもしれません。今回、取り上げている4組の登場は、劇評が一気に自由度を上げるチャンスかもしれないです。
後半に続く>>


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