手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」

◎プライベートから漏れ出てくるもの
米山淳一

私的解剖実験5-関わりの捏造」公演チラシ以前から気にはなっていたのだが、まだ見たことのなかった手塚夏子作品を、今回ようやく見ることができた。その舞台は、一瞬も目を離せないほどに、見入ってしまうものだった。それがどんな作品だったのか、また何がそれほどまでに面白かったのかについて、少し考えてみたい。

[0(ズェーロ)]

、、胃が、、、
締め付けられる、、、
重心 右足に移動、、、
こめかみが、、、ゆるむ
両膝が固定
のどが、、、
右肩にオレンジ色
ぉおっ ぉー ぉおっ ぉー
さがる
右手親指と人差し指の間が、、、
尻の穴がゆるむ
せばまる       ぉおっ ぉー ぉおっ ぉー
右手小指、、、 先に、、、
まぶたが重い
しびれ、、、

スピーカーから「0(ズェーロ)」の掛け声。その後、舞台上の3人によって、ぽつぽつぱらぱら放たれた言葉を、紙の上で再現してみた。とは言っても、あくまで擬似的に。

アゴラ劇場のいつもなら下手舞台寄り客席にあたる位置に、2メートル四方、高さ50センチ程の黒い壇が設置されている。客席はそれを三方向から囲む。
客席の合間の通路を通って舞台に上がった出演者3人は、その三方向を一辺ずつ陣取り、客席に向かって直立。スピーカから流れる「0(ズェーロ)」の掛け声をきっかけに、ぶつぶつと、上に挙げた類いのつぶやきを始める。その声は胸元のマイクで拾われ、スピーカから増幅される。しかし客席では、それでもなんとか聞き取れるかどうかの声量。体にもわずかに動きが見える。頭がかすかに揺れたり、肩からだらんと垂れる右腕が、軸を動かさずに、瓶を開けるときのような回転を、程よい速さでしていたり。

それにしてもやはり、つぶやきが気になる。これは予め決められた台詞をしゃべっているのか、それとも自分の今の状態を述べているのか、はたまた「光あれ」のような創造の言葉なのか。胃が下がるとか、体のある部位にオレンジ色やしびれが、と言われたところで、彼らの体を外から眺める私たち観客には、いくら凝視しても、そこにある言葉と体の関連を突き止めようがない。それでもひたすら凝視する他に術はない。

そうこうするうちに、3人のつぶやき方の違いが耳に入ってくる。中央の男性、篠原が発するつぶやきは、体の中の重心がここからここを経てここに移動していくなどの比較的息の長いフレーズが多い。それらはあたかも詩や文学作品を朗読するかのように、落ち着いた声色ですらすら流れていく。それと対照的なのが、上手に位置する小柄な女性、若林。彼女は、一つの単語を発した後に、次の言葉を自己の体内で探し求めているかのように、そうでなければ、既に発してしまった言葉が適切だったのか、今更になって自問しているのかのように、微妙な間に陥りながら、途切れ途切れに言葉を紡いでいく。そしてこの微妙な間には、のどの奥から発せられる低い奇妙な音(それは何とも文字にはできないものなのだが、上では仮に「ぉおっ ぉー 」とした)も交じり込む。間(ま)とノイズにまぎれた彼女の言葉は、時として観客の意識の上に、もはやセンテンスを構成しない。若林越しに、背後しか見えない小口の動きとつぶやきは、私の座った位置からはよく見えないが、二人に比べるとニュートラルな線をいっているようだ。

見続け、耳を澄ましていると、つぶやきの性質に気づく。そこには自分の欲求や感情のようなものは含まれていない。それは感覚や意識に限定されている。また、どうやら各人は舞台上の他の2人を意識してつぶやいているようではない。3人のつぶやきと動きが全体として何か一つのものを構成しているようでもない。

時間の経過の中、体の動きもわずかながら変化していく。「右腕があがる」のような体との関係が視覚で確認できる言葉がいくつか出てくると、おそらくこれらのつぶやきは自己の体の内部で生じていることの表出だろうと、推測が可能になる。突然スピーカーからの掛け声「1(ワン)」でシーンは終わる。

すると3人はステージ上に椅子を用意し、今度は内側に向かい合うように座り、会話を始める。話の内容は、「やっぱ公演は緊張しますね」だとか、「今日は蒸し暑いですね」といった、何のとりとめのないところから始まる。稽古の休憩のくつろぎタイムのような雰囲気だ。体もゆったりとしていて、話しながら無意識に行われているかのように見える、腕や足などのちょっとした動きは、私たちが普段生活の中で行っている何気ない所作とたいしてかわりない。しかしそれにも関わらず、ステージ上で繰り広げられる、この普段の何気ない動きのあちらこちらに、何故か見ている意識は向かってしまう。

その後もカウントは、2、3、4…と続くが、それは会話の流れにおかまいなしに挿入される。時には、これはあまりにも間が悪いんじゃないかというタイミングで。カウントの度に、照明は数秒暗くなり、それまでの会話も体の動きも中断される。明かりが戻り、次のフェーズが始まると、中断された会話の内容は緩やかに引き継がれていくのだが、しかし3人の関係性は徐々にどこかしら不穏を帯びてくる。お互いに対するちょっとした質問や話の振り方、眼差しに、悪意の色がひそみ始める。そして最終的には小口が若林を威圧し、それに対して篠原がなんとかしようとするが何ともできない緊張状態に至る。

小口の「そうですね」っといった控えめな相づちなど、最初のうちは何の敵意も持たないように見えるのだが、それがトーンを変えずに何回か繰り返されていくと、次第にその色合いは変化を帯びてくる。その間、小口はほぼ終始一貫して目の前の若林を見つめ続けている。上体はあまり動かず、足先だけが、ゆっくりあおぐうちわのように、床から離れたりくっついたりを繰り返している様は、獲物にじわじわとにじり寄り、相手がおびえたり、苦しんでいるのを、冷静沈着に楽しんでいるようにもみえる。小口が当てつけるそんな負のエネルギー反応して、若林は椅子の上にあぐらをかいたり、その足を揺らしたり、更には床を蹴り出したりと、次第に平静さを失っていく。篠原は下を向いたままになりながらも、小口に若林をいびっているのが楽しいんだろうと指摘し、彼女を守ろうとするが空しくおわる。かなりの緊張状態が生じているのだが、ここで取っ組み合いが始まることはない。三人ともに、それぞれの椅子からは離れない。

カウントが10に至ると、それまで客席に控えていた手塚が舞台に上がる。舞台正面に立ち、3人に囲まれる中、うごめく。民族音楽のような、不思議なコトコトした太鼓の曲をバックに、一気にカウントダウンしながら。そしてフェーズ0が今度は手塚も加えた4人で行われ、これで終わりかと思いきや、カウントは更にマイナスへと進む。
プラスの極みの過酷な状態からカウントダウンし、0を経たフェーズ-1は、フェーズ1とほぼ同じ、和やかでくつろいだ場面から始まる。それこそ本番を終えた後の楽屋でのやりとりといった雰囲気だ。カウントが進んでいくと、これまでとは逆に緩み具合が増幅し、体も更に弛緩し、最終的にはまるで酒に酔ったグループかのように、じゃれあい一つに解け合っていくかのようだ。

とにかくこの作品に見入ってしまったのだが、何にそんなに引かれたのか、何がそんなに面白かったのかをもう一度振り返って考えてみたい。

まず、この作品が舞台として上演される他の作品と異なる最大の点は、そもそもその原理からして、見せる=魅せることを意図しては全く作られていないということだろう。言い方をかえれば、ここではリプレゼンテーションということが、全く行われていない。通常、演劇やダンス作品と言えば、観客に見せるということを大前提とし、では何をどう見せるのかという意図の下、観客にはどう見えるのか、どう感じられ得るのかを問題にしながら、出演者の舞台上での具体的な発話や動きのかなりの部分は、予め台本や振付けにより、決められ、構成されている。俳優やダンサーは、その予め与えられた台詞や身体動作を稽古を通して、自分の体に落とし込み、それを舞台上で、一回一回その場で今まさに生まれているものとしてみせながらも、再現という行為を行っている。そこでは、その日その日の自分自身のコンディションや、客席の雰囲気、劇場の環境といった、常に変わる諸条件にさらされながらも、パフォーマーはそれらに左右されずに理想にできるだけ近いリプレゼンテーションを行うことが基本的には求められる。

しかし、この作品では、そのような方法は全くとられていない。見せ物として、観客を楽しませたり、驚嘆させようと、彼らの目を意識して構成されたものは何もない。それでも、表面上それに一番近いものをと言われれば、フェーズ10から1へのカウントダウンの手塚の身体が挙げられるだろう。痙攣的な動きを伴い、激しく動く彼女の身体は、あたかも何かに取り憑かれて勝手に動き出しているようで、宗教儀式のようなものをも思わせる。しかしそれとて、これから言及するこの作品全体の原理から見れば、見せ場として予め構成されている動きというよりは、むしろオートマティスムの類いと思われる。

それでは、『私的解剖実験 -5』では一体どのような手法がとられているのであろうか。この作品は、外から、また内からの刻々と変化し続ける様々な影響にさらされながらも、その人自身にしかアクセスできない体の中、つまり体についての感覚というプライベートな領域に向かう意識と、作品を遂行していくためのルールとして設定されている各フェーズごとの身体への何らかの指令・指示とのせめぎあいの中で、自ずと出てくるものによって、いわばインプロヴィゼーション的に、成り立っている。

従って、そこに出てくる動きは、基本的に身体の部位の僅かな揺れや震えといった類いのものや、日常的な動きでしかなく、フェーズの進行の中で生じる状況によっては、それらが何らかの方向に増幅されているものに過ぎない。舞台上でなされる発話内容にしても同様である。

しかし、そのような舞台上で繰り広げられる動きが、一時も目を離せないほどに引きつけるのは、まず一つには冒頭に置かれた0というフェーズの機能によるのだろう。手塚は公演期間後、劇評サイト「ワンダーランド」の劇評セミナーで設けられた席で、次のようなことを語った。冒頭の0のシーンは、出演者が、その日その時の自分のコンディションで、そこにいる観客を前に、これから公演=実験を始めるにあたって、意識を自身の体に向け、自分の現在置かれて在る状態を確認するための場であり、そこでのつぶやきは出演者にとっては、そのために自分の体を見つめることができる距離を手に入れる手段でありながら、それは同時に出演者と観客をつなぐためのインターフェースである、という趣旨のことを彼女は語っていた。しかし、それに加えてまた、次のようにも言えるだろう。このシーンは、観客にとっては作品全体への糸口であると。つまり、ここで僅かにしか動かない身体と、その身体に対応するつぶやきの関係を見ることによって、観客の目と意識には、日常生活の中で見えてはいても、もはや意識には上ってこない身体の動きへのアクセスが与えられる。

そして、そこで開かれたフェーズ0の地平で、以後展開されるものは、自分の身体へ内的に意識を向けるパフォーマーが、フェーズごとの指令・指示という負荷に自らをさらし、それに対してできる限り受動的な状態になりながらも、自分の体についての感覚・意識というプライベートなところから、その負荷に対する反応もしくは抵抗として、どうしても抑えきれずに、意識や意図を越えて出てきてしまうもの、そこから否応なく漏れ出てきてしまったものによって成り立っている。もちろんそれは、フェーズが進むにつれて増大する負荷に影響を受け、色濃くなっていくのであるが。

確かに、自己の身体を解剖学的に微細に見つめる、それも視力によってではなく、意識によって見つめるという行為においては、その人の内で生じている感覚や意識が、結局のところ思い込みや自己暗示に過ぎないのではないかという疑いは、どこまでいってもぬぐい去れない。しかしまた同時に、それは他人が思い込みや自己暗示だと簡単に断言してしまえることでも決してない。たとえ、痛みに苦しむ人に、その痛みの根拠となるような体の外的、物理的異常はなんら存在しないことを証明しようとも、単にそれだけではその人の痛みが消えることは決してないように。

今回の手塚の作品は、このようなプライベートな領域を出発点、土台としてそこから立ち上げられた作品だと言える。そしてプライベートから漏れ出る故に、目の前で繰り広げられるものへのリアリティなり、切迫性といったものは、そのようなものとしてそのままに、見ていて感じることが出来たのかもしれない。

また、この作品は、そのようなプライベートな領域から、その時その場でインプロヴィゼーション的に成り立つ故の、リアリティなり、切迫性を持ちながらも、やはり最終的にはフィクションとしてある。現に、作品の前半と後半では、後半に手塚を加えたとはいえ、同じメンバーで、ほぼ似たフェーズ1とフェーズ-1から始めたのに、最終的には全く異なる対照的な状況が立ち現れた。舞台上で実現されたこの二つの現実は、『私的解剖実験 関わりの捏造』という作品タイトルが示すように、実験操作によって捏造されたものだ。(舞台で生じていることの流れに関係なく挿入されたカウントによる中断は、生じている事態があくまでも実験という捏造によって出来上がっているということを、暗に示し続けていた。)今ここで生成しつつある、プライベートから漏れ出るもののリアリティ、切迫性に根付いた動きなり、展開に、私の目は釘付けになっていたと同時に、そのような捏造を、自己の身体を意識によって解剖的に微細に観察するという、極めてプライベートな地点から、漏れ出てくるものによって実験的に生成していくという、この奇妙な「ねじれ」にも、また面白さを感じていたのかもしれない。つまり、こうしてプライベートな領域から漏れ出てくるものから逆説的に見えてくる、その領域自体のあやふやさや、定まらなさ、不思議さに。
(劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作)
(初出:マガジン・ワンダーランド第202号、2010年8月4日発行。購読は登録ページから)

【上演記録】
手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」
こまばアゴラ劇場(2010年6月25日-28日)

出演:篠原健 小口美緒 若林里枝 手塚夏子
スタッフ: 音響 牛川紀政
前売:2,500円 / 当日:3,000円 (全席自由)

【関連企画】
▽Workshop Workshop「からだストーミング」~体ごと巻き込まれたり遠巻きに眺めたり~
6/21(月)~23(水) 19:30~21:00、定員 30人 参加・見学 800 円
▽スペシャル カラダカフェスペシャル ~自分という感覚の境界~
6/27(日) 18:00スタート ワンドリンク 1,500 円

企画制作:手塚夏子/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成:財団法人セゾン文化財団
平成22年度芸術文化形成拠点事業


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