◎振付家がつくり出したもの
都留由子
「カタルシス」という言葉がある。学生時代、習ったのによくわからなかったこの言葉の意味を、あ、これか、と思ったのは、ミュージカル『コーラスライン』を見たときだった。まぶしいステージのダンスナンバーを見終わって席を立ったとき、やっぱりダンスにはカタルシスがあるね、と後ろの席から声が聞こえた。ああ、この快感がカタルシスなんだ! 本当にそれが正しいのかどうか、実は今でもわからないのだが、しかし、筆者の中では、ダンスを見る快楽とカタルシスという言葉はこのとき結びついてしまった。生身の人間の身体が動く。シンプルなそのことの、ぐいと心をつかむこの力の強さはどうだろう。それ以来、筆者にとってダンサーや振付家は、カタルシスをもたらすという特別な力を持った、神様に祝福された人になった。
などとえらそうに言うわりには、実際にダンスを見た経験は貧弱で、手塚夏子の『私的解剖実験-5 関わりの捏造』は初めて見るコンテンポラリーダンスであった。コンテンポラリーダンスなんて、自分にもわかるものなのだろうか?開演前の客席には、とても普通の観客とは思えないようなオーラを発する人があちこちに座り、お客同士で会釈し合ったりしている。場違いなところにいる感が満ちてくる。
三方を客席で囲まれたほぼ正方形の舞台。一辺は2mくらいだろうか。その三方にひとりずつ、それぞれ客席を向いてダンサーが立つ。ふたりは女性(小口美緒、若林里枝)、ひとりは男性(篠崎健)。三人ともラフな普段着といった格好で、裸足の人も、靴下だけを履いている人もいる。靴を履いている人はいない。
「0(ゼロ)」というアナウンスが入り、三人が何かつぶやき始める。てんでにばらばらの方向に向いてしゃべるので、全部を聞き取ることはできない。「胃と腸の間がしぼむ」とか「膝から下がこわばる」など、どうやら自分の身体の状況を探り、実況中継のように言葉にしているらしい。立ったまましゃべりながら、身体が動く。女性のうちのひとり(若林理恵)は、さかんにげっぷのような音をさせている。この人はみぞおちや背中の真ん中(あそこは胃のツボだ)を押したりぐりぐりやったりしている。胃が悪いんだ。だけど、舞台に上がってもそういうことをやるのか。げっぷとか。
「1(ワン)」のアナウンスで、舞台に椅子を持ち出して、三人は話し始める。「普段、どんな音楽を聴くんですか」とか、「この間、おかあさんが楽屋に来たでしょう」とか、友人同士の普通の会話といった内容。ところが、アナウンスのカウントが「2」「3」と増えていくにつれてだんだん普通の会話とは思えなくなる。カジュアルな雑談をしながら、三人の身体は会話の内容とは無関係(そう)に動き始めるのだ。それはとても変な感じで、見ているこちらはだんだん居心地の悪い気分になる。話しながら、さっきの女性はやっぱりさかんにげっぷのような音をさせている。
この変な感じはさらに妙になっていき、話の内容は和やかなのに、三人の緊張がどんどん高まっているのが感じられる。げっぷの女性はとても具合が悪そうだ。
カウントが「10」となって、小柄で華奢な女性(手塚夏子)が出てくる。この人は客席をすたすた歩いて舞台に上がり、立ち上がった先の三人に囲まれるようにして立つ。ドラムが響く中、三人に囲まれてまるで護送される捕虜のようだ。兵馬俑の真ん中に立ったみたいな手塚は、動き始める。三人も手塚を囲んで、動く。痙攣しているみたいに。にらみつけているみたいに。緊張はますます高まる。
もう一脚椅子を出してきて、今度は四人でさっきのように雑談(としか思えない)を始める。大あくびを繰り返したり、鼻をかんだり、げっぷもする。手持ち無沙汰なままに雑談を続けているかのようだ。カウントは「9」、「8」と減り始め、そしてまたさっきのように、話している内容とは関係なく(あるのかもしれないが、どういう関係なのかよくわからないので、関係ないように思える)身体が動く。「0」まで進んで終わりかと思ったら、今度は「-1」「-2」と減っていく。それにつれて、椅子からずり落ちそうになったり、立ち上がったり、相手を襲うような動きがあったりする。動きはだんだん大きくなって、カウント「-10」で、最大になったところで作品は終了した。
さて。「劇評を書くセミナー」の課題でなければ、「よくわかんなかったけど、ちょっと何だかすごかった」でよかったのだが。これでは書けない。
別の日に、もう一度アゴラ劇場に出かけた。二回見てよかった。二回の公演で、話された内容は全く違っていたし、四人の身体の動きも同じではなかったから、話す内容も、具体的に身体がどう動くかということもあまり問題ではないらしいこともわかった。予想はしていたけれど、常識的な意味での(土居甫が『UFO』を振付けたような、ベジャールが『ボレロ』を振付けたような、藤間勘十郎が『鷺娘』を振付けたような)「振付」はなく、身体の動きという点では公演ごとに違っているらしい。
では、いわゆるハプニングみたいなものか?そうも思えない。チラシにも「振付 手塚夏子」と書いてあるし。土居甫ともベジャールとも勘十郎とも違うようにだけれど、手塚夏子が振付けた作品に違いない。とすると「振付」ってなんだろう?
まず感じたことは、ダンサーたちが自分の内側を注視しているということだ。最初の、ひとりひとりが自分の身体の実況中継をしながら、ゆるゆると、また痙攣的に動く場面はもちろん、その後の、雰囲気がだんだん異様になっていく場面でも、会話をしながら同時に自分の内側に耳を傾けているように感じられる。身体が水の入った袋になっていて、身体が動くと内部で水がちゃぽちゃぽ音を立てる、その音を聞いているみたいだ。
しかし、ただ内側へこもっていくだけでもなさそうだ。身体の状況を実況中継するためには、身体の内部に耳を傾けつつ、同時に外から冷静に観察する必要があるだろう。身体を対象として外から見る視点は欠かせない。また、自分の身体を観察しながら、ダンサーたちは相手に対して反応もしている。ただ、その他者への反応は、わたしたちが普段慣れ親しんでいる反応とはどうも様子が違っていて、それが筆者に居心地の悪さをもたらしたのだろう。ごく普通の言葉がやりとりされているのに、それにともなう身体の動きの方は、その言葉に対応していない。対応していないばかりか、その反応は痙攣とか反射とかチックとかそういった類の不随意運動のようにさえ見える。そういえば、ダンサーがくり返すげっぷもあくびも不随意だ。
舞台の上でやり取りされるこの反応は、外からの働きかけにそのまま応えるのではなく、いちど身体の内部の水を通して、ちゃぽちゃぽ内側から動く水に身体を任せることから生まれているように感じられる。水は意外なところに反射して波を作り、その波が干渉しあって最終的には身体の持ち主にとっても思いもよらない部分を動かすように思われた。そういう「思いもよらない反応」を制御せずに舞台に乗せているために、筆者の見た二回の公演ではダンサーたちの動きが全く違っていたのだろう。
手塚夏子の「振付」は、身体の動きや手足の位置や形を指定することではなく、身体の(たぶんココロも)状態を指定することのようだ。その指定した状態からどういう動きが生まれるかは、身体に任されていることになる。とすると、土居甫やベジャールや勘十郎の振付けたダンスは、振付けと違っていたら、「振付けと違う」とはっきり分かるけれど、この作品の場合は、どうなのだろう? 相手の身体はどこまでも相手の身体であるが、いったん「振り」という形で表現されれば、その「振り」を捉えることができる。しかし、身体(たぶんココロも)の内部のあり方や状態を、そこから出てきた動きで捉えることができるのだろうか?そして、それが振付家の「振付」と違っているかどうか分かるのだろうか?「振付」の通りかどうかは問題ではないのだろうか?身体のあり方や状態を指定するところまでが振付家の仕事で、それが舞台の上でどういうものとして現れるかは、振付家のコントロールの外にあるのだろうか?その場合、どこまでを振付家の作品と呼ぶのだろう?
日常生活の中では、身体の動き自体にこんなにも注目することはない。普段の身体の動きには、たいてい言葉によって意味が貼りつけられている。だから、舞台の上の、意味とは切り離され、ずれた身体の動きを見るのは、異様で不安な経験だった。もちろん、手塚夏子が関心を持ち実験しているのは、観客を不安にすることではなく、意味とは切り離された身体そのものなのであろうし、そこに生まれる、意味の貼りつけられていない身体の動き・関わりなのだろう。それを追求するのは楽なことではないに違いない。きっと孤独な試行錯誤の連続であろうその追求を「私的解剖実験」と名づけたのは、よく内容を表していると思う。ただ、筆者には、それを追求することと作品としてお客に見せることの間には、ちょっとした溝があるように感じられた。手塚夏子がその溝を飛び越えられた理由は筆者にはよくわからない。
そうそう、カタルシス。『コーラスライン』を見てあの日感じたカタルシスを、『私的解剖実験-5 関わりの捏造』で筆者は感じることができなかった。ちょっとポカンとしてしまった、というのが本当のところだ。しかし、身体とそのあり方、外部との関わりをあのように追求することができる振付家は、すごい。祝福されているのかどうかはわからないけれど、(だって、踊る喜びに溢れているようには見えなかったもん)きっと神様に見つけられてしまった人なのだと思う。初めて見たコンテンポラリーダンスが神様に発見されてしまった人の作品であったことは、自分で選んで見に行ったわけではないから決して筆者の手柄ではないのだが、この先、人に自慢できることになるのかもしれない。
(劇評を書くセミナーこまばアゴラ劇場コース課題作)
(初出:マガジン・ワンダーランド第202号、2010年8月4日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
都留由子(つる・ゆうこ)
大阪生まれ。大阪大学卒。4歳の頃の宝塚歌劇を皮切りにお芝居に親しむ。出産後、なかなか観に行けなくなり、子どもを口実に子ども向けの舞台作品を観て欲求不満を解消、今日に至る。お芝居を観る視点を獲得したくて劇評セミナーに参加。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tsuru-yuko/
【上演記録】
手塚夏子「私的解剖実験5-関わりの捏造」
こまばアゴラ劇場(2010年6月25日-28日)
出演:篠原健 小口美緒 若林里枝 手塚夏子
スタッフ: 音響 牛川紀政
前売:2,500円 / 当日:3,000円 (全席自由)
【関連企画】
▽Workshop Workshop「からだストーミング」~体ごと巻き込まれたり遠巻きに眺めたり~
6/21(月)~23(水) 19:30~21:00、定員 30人 参加・見学 800 円
▽スペシャル カラダカフェスペシャル ~自分という感覚の境界~
6/27(日) 18:00スタート ワンドリンク 1,500 円
企画制作:手塚夏子/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成:財団法人セゾン文化財団
平成22年度芸術文化形成拠点事業