スミイ企画「日常茶飯事」

◎すれ違うことで出会い直す
柳沢望

今回上演された『日常茶飯事』に限らず、佐々木透によるテクストが2010年の日本における劇作のひとつのエッジであることは紛れも無い。リクウズルームを主宰する佐々木透は、既に堤広志氏が注目し(注1)、川崎市アートセンター・アルテリオ小劇場のクリエイション・サポート事業に抜擢されたことさえあるものの、まだ評価が固まっているとは言えず、未だに「無名」であると言っても誇張ではないだろう。

多くの人にとって馴染みの無いだろう佐々木透のテクストに対する澄井葵の対応には、ある種厳密な距離の置き方があった。それを一種の尊重であると述べてもよいだろう。たとえば、チェーホフの戯曲にまったく新しい解釈を施した「地点」による上演を想起させる作法だとも言える(注2)。

私見では、文字において見る限りで、佐々木透のテクストは迅速なリズムを刻んでいる。それを澄井葵は、上演において、奇妙にも緩慢なリズムに変換してみせた。それはいわば、テクストの相貌をキュビズム的に多面的に描いてみせるにも等しいやり方で、一見穏やかながら、テクストを観客からさらに遠ざけかねないものだったとも言える。

世評がまだ追いついていない劇作のエッジに果敢に応答を試みた澄井葵のスタンスには、何のおもねりもケレン味も無く、軽々と時代を追い越していたと言うべきだろう。以下、大まかに上演の印象を素描しつつ、今回の公演の特質について、述べておきたい。

出演するのは宇田川千珠子、木引優子、鈴木智香子の三人。客入れのときに流されたサエグサユキオによるオリジナルの楽曲が終盤、フェードインして戻ってくる以外には、音楽などは使われない。天井から、細い鎖のようなものがいくつも垂らされており、ある種のリズムを成すように、長短さまざまにずれている。上手奥には同じ鎖が人一人入るほどの円筒のように下げられてアクセントになっている。それ以外には、白い線だけが斜めに流れる映像が冒頭と終幕にそれとなく流される以外に特に目だった装置もなく、舞台奥の階段も含め会場となる春風舎の空間をほぼそのままに生かした空間構成だ。

上演は鈴木智香子によるモノローグからはじまる。その後、宇田川と木引によるダイアローグと、鈴木によるモノローグが交互に入れ替わりながら進むが、これは当日販売されていた戯曲の構成そのままだ(注3)。

上演の冒頭、床に座り込んだ女優(鈴木智香子)が薄暗いステージの奥から手前に、いざるように、座ったまま腰の動きだけで前に出ながら、モノローグを重ねてゆく。良く見ると、その背中にもう一人演者がいて、かかえこむように一緒に前に出てきていることがやがてわかる(宇田川千珠子)。一人で語る女優は、レンズのようなものを持っている。そのレンズは、やわらかいビニールのような材質らしく、円形をゆがめることで、その奥に見える演者の顔や情景が客席に妙に誇張され変形されて現れる。それはあたかも、その後に続く奇妙にいびつな時間の質を暗示するかのようだ。

レンズをゆがめながら進むモノローグは、およそ何を主題に語っているのかはっきりしないようで、といっても特別難しいことを言っているわけでもない。長寿アニメ番組の声優の話から、植木鉢に置かれる卵の話まで、少しずつ話題がずれてさまようような語りで、女優は、すこしパセティックに、誰に向かって語りかけるのでもなく、かといって内省的でもないような調子で、発語してゆく。レンズを舞台の手前に置かれていた台座に据えると、ひとり立ち上がって、舞台上をさまよいながらのモノローグが続く。

やがて、正面奥にある階段に座っていた木引優子が降りてくると、モノローグをしていた鈴木智香子は退き、ステージに留まっていた宇多川と木引とのあいだで間延びしたダイアローグが始まる。

そのダイアローグで語られることは、モノローグに劣らず、意味がずれながら脱臼し脱線し続けていくようなもので、メールの返信が遅れる言い訳にありがちな言い回しについて話していたかと思うと、いつの間にかセリフのやり取りが、対話としての脈絡を保ちながらもしりとりになっていて、そのやり取り自体が自己言及的にしりとりを始めてしまったことについて語るくすぐりになっていたりする。

そうした意味のあるような無いような対話の上演は、対面的に進むのではなく、女優二人が向かい合いながらも、どこか上の空のようで、視線は斜めにすれ違いあい続けるようで、なんだか、寝ぼけてしゃべっているように進む態のものだ。

この、モノローグやダイアローグにおける発話のあり方について、次のような感想が生じるのも、実感として良くわかる。

「なんだ、この、全ての台詞が役者の身体から半径50cmまでしか届いてないっていう感覚は?」(注4)

これは、この舞台の一側面についての、一種忠実な形容と言っても良いだろう。台詞自体が奇妙なすれ違いを内包するものであり、台詞と身体の間にもすれ違いが仕込まれている。そのずれは、客席との間にも、ある種の疎隔をもたらしたはずだ。

この上演では、様々な質感がさりげなく衝突しあっている。案外、レンジが広いというか、いろいろな質感を見せているのだけど、それが、単に折衷的という風には見えない。ある種の飛躍を内に含んではいるのだけれど、しかし、どこかで一種の調性が一貫しているようにも思える。

問題は、そのような質が、どのような経路でもたらされ、テクストに対して、そして現代演劇の上演史に対して、どのように揺さぶりをかけるものであったかということだ。

ダイアローグのやり取りは、少し離れて向かい合うように進むこともあれば、二人の間にコンタクトが生じる場合もあり、ほとんど絡み合って床にもつれるような姿勢でセリフが緩慢に交換される場面もあるが、そんな身体の絡み合いは、言葉の流れとは直接の関係が見出せないもので、ある言葉の流れに対して、身体の動きの流れが独立にあって、それがたまたま、二つの身体の間につかの間の渦巻きを生み出しているかのようでもあり、あるいは、表面で交わされる言葉の論理的な関係よりも別の次元に、無数の連想の複雑な絡み合いのなかで、身体の底から交歓が自ずと生じているその現れであるようにも思える。

ここには、構成や統御がフォーカスされ、そこに帰される中心的なものがない。作家の署名が作品と直接結びつくような、ひと目で核とわかるようなものがない。そのような核心の見えなさは、確信の欠如ではなく、むしろ慎重に選ばれたものだろう。

この公演で初めて澄井葵の作品を見た多くの評者が、慎重に判断保留しているのももっともだ。おそらく、選択の痕跡さえまるで感じさせないことすらも綿密に選ばれている。そこまで、この作品自体から感じ取るのは、いかに敏感で慧眼の持ち主であったとしても、困難だろう。意図を読み込むことをもって作家の確信めいたものを享受する習慣をどこかで身に着けてしまった観客にとっては、なおさらだ。

この舞台には、ひとつひとつの演技や場面が、誰の作為であるとも感じさせないような上演の質感があった。刻々とゆらぎ、あるいは飛躍して、絶えず様式化を逃れ続ける動きや言葉は、単調なロジックに回収して解釈されるままにはならない。そこで賭けられていたのは、生まれて初めて動きや言葉と出合うような新鮮さの印象を持続させることだったと喩えてみても良い。そして、このような質感は、テクストに刻まれた可能性に忠実であろうとする姿勢から生まれたのだろう。中心を欠いた言葉の流れを、そのまま構造変換するように、凝り固まった基点とは無縁な演技の流れとして舞台に生起させる作法が、そこにある。

ある場面で、木引優子が床に腰を下ろし、弓反りになった姿が強く印象に残っている。身体のあり方は、何かのポーズを狙いすましたようなものではないが、しかし、ゆらぎ震えながら、その揺れに留まりながら、どこか迷い無くひとつの輪郭を帯びて、舞台に精妙な線を描き続けていたように思う。

そのような、しなやかでゆるぎない身体の質を生み出す上で、カワムラアツノリが果たした役割は大きかったようだ。「振付」とクレジットされていたが、ひとつひとつの身振りや動きをカワムラアツノリが固定して演者に与えたのではないのだという。むしろ、身体のコンディションや可動性を再調整するような作業がカワムラアツノリの手で行われたと聞いた。

それを振付と呼ぶのは、初期条件を設定し直すような作業を振付と呼んでみることで、振付という言葉自体を再定義するようなものだ。そこから形が生まれる、いわば発生的な概念の定義を行なうように、振付ということの実質を捉えなおすに等しい。だとすればそれは、振付ということが今日ありえる条件を還元的に示す作業だったと言ってしまっても良い。実態としては、ほかに言葉も浮かばずに、振付という言葉が性急に選ばれたのだとしても、だ。舞台に向けられる視線は、そういった条件に、もっと鋭敏になっても良いだろう。

この舞台の一つの焦点は、「テーラヤマッ、テーラヤマッ」と声をかけながら、組体操のように一体になって、演者の三人が前にせり出してくる場面だったろう。そこだけひとつ異質な時間を作っていたように思う。このひときわ目立った場面は、作品の中心ではなく、むしろ例外的な場所にあるが、それもあくまで作品全体を貫く同じ作法のもとに成ったと見なせることを、注記しておこう。

単に古い歌謡曲の作詞家という連想から寺山修司の名前が浮かび上がり、そしてテラヤマ、テラヤマと連呼されるに至るその転換は、テクストにおいても、一種の飛躍をなしている。戯曲を見直しても、話のついでに思いついたみたいなセリフの流れから、筆の勢いにまかせて悪ふざけしているみたいなテラヤマ連呼という印象だが、その指示が、そのまま忠実に舞台化されたようでもある。どこか奇妙な儀式めいた雰囲気は、意図してか、意図せざる符合としてか、寺山修司の舞台作品の何かの場面と通じ合うものとして、示されたのかもしれない。ともかく、ここにはもちろん、演劇史への意図的な参照がある。
だが、「テーラヤマッ、テーラヤマッ」という掛け声は、戦後の日本のマスカルチャーや演劇史のなかから固有名として取り上げられながら、その固有性が脱文脈化されるというか、意味合いを欠いた響きの中へ救済されていくかのようでもある。まるで、寺山修司もろとも、演劇史から自由になることが志向されているみたいだ。
と言うよりもむしろ、この舞台のすべての言葉が、すべての身振りが、特定の文脈の中で位置付けられてしまう意味合いから自由になって動き出す、その野放図な萌芽性を束の間、わずかでも、開放することに向かっている。儀式的な大仰さは、寺山という固有名の重たさに応じるために要請されただけであるようでもある。
テクストにおいてすでに目指されていただろうその自由が、舞台においても、演者達から発するように厳しく設定されていたのではないだろうか。その条件の厳密な調整にこそ、澄井葵の神経は傾注されていたと見るべきだろう。それもまた、演出という言葉を再定義するような営みに他ならない。

この上演は、いわば、作品の感触が、その姿において、現実の捉えがたさそのままに、何かを捕らえようとしてやまない観客のまなざしの手触りを逃れ続けるようなものだった。そして、そのすれ違いにおいてこそ可能な一種の出会い直しがある。舞台に示された『日常茶飯事』は、ひたすらその改めての出会いを促すドラマだったと言えるのではないか。そのこと自体において、未踏の劇的な領域へと上演の場が開かれていること、それが重要なことだったのだろう。それは、比較を許さない未知のものであろうとすることに他ならない。つまり、ある舞台を既存の演劇の様式の次に来るべき新しい様式として語るような評価軸はあらかじめ棄却されている。
だから、もちろんそれは、新しいことでもなんでもない。精密で、まっとうなことだけがなされている。そのことを正しく評価できれば、それで良い。

この文章を用意していて、佐々木透の次の言葉が目に留まった。

「将来に不安しか持てないこの時代に、なにか希望めいたことが提示できるとしたら、迎合する姿勢などではなく、極限まで自分自身を信じぬくという、ある種の勘違いパワーだけなのかもしれない」(注5)

「極限まで自分自身を信じぬく」という姿勢だけを、澄井葵も佐々木透と共有していたのだろう。そうして初めて実現できる価値は、日常茶飯事のなかに、思いがけなく隠れているに違いない。

(所見:7月31日マチネ)
(初出:マガジン・ワンダーランド第204号、2010年8月25日発行。購読は登録ページから)

注1 堤広志氏による佐々木透インタビュー http://kawasaki-ac.jp/th/cs/reqoo/interview/

注2 その点で、プルサーマル・フジコがこの上演を語るのに「地点」を引き合いに出したのはもっともだと考える http://pulfujiko.exblog.jp/11667273/#11667273_1

注3 戯曲は、ダイアローグにモノローグが脈絡無くさしはさまれる形で構成されており、ダイアローグの「役名」は「男1、男2」と指示されている。ト書きの類は無い。

注4 TOKYO FRINGE ADDICT 小劇場中毒 7月29日の記事

注5 http://kawasaki-ac.jp/th/cs/reqoo/after/

【筆者略歴】
柳沢望(やなぎさわ・のぞみ)
1972年生まれ長野県出身。法政大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。個人ブログ「白鳥のめがね」。
・ワンダーランド寄稿一覧:

【上演記録】
青年団若手自主企画 vol.43 スミイ企画『日常茶飯事
アトリエ春風舎(2010年7月28日-8月1日)

作:佐々木透(リクウズルーム)
演出:澄井葵
振付:カワムラアツノリ(初期型)

出演:宇田川千珠子 木引優子 鈴木智香子

スタッフ
音響:サエグサユキオ
照明:山岡茉友子
舞台美術:長内香苗
宣伝美術:深谷莉沙(高襟)
制作:スミイ企画
制作協力:小手川望(yonn)
料金 前売:1,800円/当日:2,000円

芸術監督:平田オリザ
企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場

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