青年団「砂と兵隊」

◎女優・村井まどかの微妙に歪む唇に、平成のロマンチック・アイロニーを見た
 高橋 英之

「砂と兵隊」公演チラシ兵士・西川 「いや、そりゃ、まあ、砂漠ですから」(閉じられた唇)
新婚・妻  「同じ砂漠じゃん」(開かれた唇)
家族・次女 「全部、砂漠じゃん」(微妙にゆがんだ唇)

 うっかりしてた。日本がイラクに派兵をしたことなどすっかり忘れてしまっていた。いや、もちろん、うっかりなどという表現は不適切だろう。正確にいえば、「忘れていた」わけでもない。その単語を聞けば、「思い出す」ことなどさりげなくやってみせることはできたはずだった。2003年12月、専守防衛を憲法に刻み、世界10傑に入る軍事予算を持つ組織をあえて「自衛」隊と呼んでいたにもかかわらず、小泉劇場と呼ばれた当時の政治が一大決断をしたはずのイラク派兵。首相が「自衛隊の活動している地域は非戦闘地域」という冗談のような答弁をした翌年に発表された『砂と兵隊』が、そうした日本の時代的状況を背景にしていることは疑いもない。ところが、かくも重大とされたことが、記憶としては存在していても、問題意識としては淡くも消え去ろうとしていた。劇場の席に座って、当日パンフレットに目を通しながら、そのことに気づいてやや愕然とした。しかし、それは仕方のないことだ。なぜならば、自分は、派兵が決定された当時も、そしていま現在も、歴史の傍観者にすぎないからだ。いや、少なくともこれは自分だけではない。何よりも、舞台の上の登場人物たちがそうであった。

 
 砂が敷き詰められた舞台。天井からは砂が降ってきている。下手から現れる兵士たちは「D地点」なるものを目指して上手に去ってゆく、ほどなく、いなくなった母を探す家族連れが登場しまた下手に去ってゆく、更に新婚旅行のカップルがまた下手から登場し、従軍しているはずの夫を探す女が現れ、また兵士がやってくる。言ってしまえば、その繰り返し。敵も現れる。カップルの夫は敵に撃ち殺される。それでも、物語としては、人びとが次々と通り過ぎてゆくだけ。一見すると不条理劇のように見えなくもない。舞台にあふれる砂は、安部公房の『砂の女』のイメージをも喚起し、進んでも待っても目的に届かないような虚無感はカフカの『城』やベケットの『ゴドーを待ちながら』さえ容易に想起させる。人によっては、戦場ののんきな雰囲気に、アラバールの『戦場のピクニック』だって呼び覚ますかもしれない。しかし、舞台上に現れる人物たちは、そうした古典的な不条理劇の登場人物たちよりも、もう少し現実感があるように見える。

 それは、いまの日常生活が、「戦略」だの「作戦」だの「生きのびる」だのといった戦争用語にあふれて、不条理感を増してきていることもあるだろう。しかし、それ以上に、この作品が奇妙な“リアル”感につつまれているのは、この不条理なる世界に生きる人びとがより巧妙な方法でその状況をやり過ごすしぐさを身に付けてきていることが大きいのではないか。かつて、森鴎外は小説『かのように』の中で、そのような<ウソとして意識しつつ、あえてそうではない“かのように”生きる>いわばロマンチック・アイロニーとしての態度を表現してみせた。哲学者ジャンケレヴィッチが「多元性の発見が惹起するいささか陰鬱な陽気さ」と呼んだアイロニーの態度をより積極的な意味でとらえるロマンチック・アイロニーの世界。不条理感がウソである“かのように”やり過ごす人びとのリアル感を今回の作品で絶妙につないで見せたのは、役者の「唇」。特に、女優・村井まどかの唇だった。

 先に白状しておく。自分は、この作品を観終わって、村井まどかのファンになっていることに気がついた。いままでそれを意識したことはなかった。これまで「青年団はどうも役者の名前が覚えられない」と公言したりもしていたので、書いている自分が少し驚いていたりもする。しかし、彼女の絶妙にゆがんだ唇に出会うとき、そこには何か深い意味が付されているのではないかという期待が増幅される、そんなことは一度や二度ではなかったのだ。『一月三日、木村家の人々』の妹役、『青木さん家の奥さん』の謎の双子、『サンタクロース会議』の議長、『カガクするココロ』の霊長類研究者、『北限のサル』の言語学者…村井まどかの唇は、どの作品でも微妙にゆがんでいた。今回の作品では、その微妙なるゆがみが顕著であって、自分が村井まどかの唇に惹かれていることを自覚的に発見したという意味では、個人的に貴重な発見をしたエポック・メイキングな作品になってしまった。だから、「唇」を軸にこの作品を語ることは、ややトリッキーであることを認識しつつ、どうしようもなくそこが気になった事実をあえて共有させてもらおうと思う。

 村井まどかの絶妙なる唇のゆがみを際立たせていたのは、ほかの2人の女優の唇だった。

 まず、兵士・西川を演じる石橋亜希子の緊張しながら閉じられた唇。「すいません」と先輩兵士にあやまるときに口をすぼめる、「ありがとうございます」と仲間からの祝辞に応える笑顔でさえ口は小さく閉じられる、水を飲んで多幸感あふれるときも、その口は力を込めて閉じられている。それは、まるで自分の世界が半径2メートルにしかないということを宣言しているかのようだ。D地点への行軍という目標はあるが、それは目的ではない。ましては、自分がここで匍匐前進という面倒な方法で進軍をしなければならない理由でもない。敵はいるらしい。銃声も聞こえなくはない。しかし、軍に所属している彼女にとっての関心事は、いま飲む水のことであり、再婚する母親のことであり、犬を飼うと言ってきた父親のことである。

 実際の戦争状況の中で、兵士たちの関心がそうした矮小化された日々の瑣末なことにあふれてくることは、多くの戦争文学が明らかにしてきていることだが、兵士・西川のこの縮こまり方は、何かそうしたこれまでの戦争日記のものとは異なっている。それはなぜだろうか。一言でいえば、目的がないからだ。なぜ自分がここでこんなことをしているかの大義がない。あるのは命令だけ。それも行軍するだけ。この不条理をまる飲みしてやりすごす方法は、自分のまわりの瑣末なことに拘泥することでしかなかった。それゆえ、半径2メートルで話が完結する。それを、石橋亜希子は緊張しながら閉じる唇で見事に表現していた。
 
 もうひとつは、新婚カップルの妻を演じた堀夏子の開かれた唇。「携帯で呼べば、ヘリコプターとか来てくれるんでしょう」と軽々と言い放って3秒くらいは開いたままの口元。そこには、<当然そうであるはずだ>という主張が力強くにじみ出ている。「そっちが正規の軍人だっていう証拠を見せてください」と、軍相手に市民運動風の喧嘩をしかけようとする威勢のいい口の開き方。彼女には探しているものなどない。すべてを<当然>と主張する自由があるだけである。受け取った肩章を持って逃げ去り、シェーのポーズを決めているシーンは舞台上には出てこないが、その唇が開かれているところが目に映るようだ。極めつけは、もちろん、夫を敵に撃たれて、軍の人間たちに「闘えよ!」と迫るとき。<当然>感満載でその口は大きく開かれていた。
 
 兵隊たちの言い訳「すみません。私たちの任務は、闘うことではないので、」「私たちの任務は、行軍することなんで、」という台詞に、ただ唖然とし、口をあけ、その大きく開けた口を閉じるために彼女は桃缶に空いた穴から桃を引きずり出して食べてみせた。その唇の迫力は、この砂漠のどうしょうもなさに吠えているかのようだ。この女性には目的もなければ命令さえもない。その開かれた唇は、ただ独善的な自由を象徴している。その唇の表現は堀夏子が意図的にやっていたのかどうか分からないが、正しい選択肢だったと思う。

 では、われらがロマンチック・アイロニーの天使、村井まどかは、母を探す家族一行の中でどのような唇を見せたのか。村井演じる史子は「ちょっと休む?」と聞くとき、「だって、いないよきっと、お母さん」とあきらめを表明するとき、口元を微妙に斜めにして、どこかに主張しきれないためらいを感じさせる。自分の確固たる意志で砂漠まで来ているのではない。幻想に取りつかれたかのような父と、真剣に探そうとする妹と、家庭事情でついてきている姉の三種三様の状況を感得しながら、あえてついてきている。そして、タイミングを計りながら、「お父さんに言ってみる?そろそろ帰ろうって」と切り出してみたりもする。まるで、あて書きされているかのように、その斜めに微妙にねじれた唇に、吸いついてくるかのようなセリフが次々と張り付けられてゆく。砂漠の真ん中で、姉の結婚生活の破たん状況を詮索しながら、「あんた、なんか聞いてる?」と末っ子の光恵に問いかけるとき、微妙にねじれる唇。そして、この微妙に斜めにゆがんだ唇こそが、母を探しているという家族4人のウソが表出している。ニセモノをにじみ出させる唇。自分たちがニセモノの探し物をしていることを知っているのに、それを続けることの不条理に漂うだけの唇。この微妙なる口元、これは、イラク派兵があったことをすっかり忘れてしまっていたわけじゃないけど、意識したり積極的に考えたりしてきたわけでもない自分を共振させる口元だ。そういう意味では、この作品の中で観客に一番近い存在は史子であろう。不条理な砂漠の中での「微妙な存在」のリアル感というのは、現代を生きる人間に響くものであり、彼女がこの作品の主人公といってもよいのではないだろうか。緊張で口を閉じて流されてしまうのでもなく、口を開けて勝手な自由を叫ぶ存在でもなく、およそ全てを理解しながら「あえて」を選ぶ「微妙な存在」。森鴎外が『かのように』で、明治の変革期に照らし出してみせたねじれた態度“ロマンチック・アイロニー”とは、平成にあっては村井まどかが砂漠の真ん中で示してみせたこの唇の微妙な曲がり具合のことに違いない。
(観劇日=2010年9月30日)
(初出:マガジン・ワンダーランド第213号、2010年10月27日発行。購読は登録ページから)
(劇評セミナー2010こまばアゴラ劇場コース課題作)

【筆者略歴】
髙橋 英之(たかはし・ひでゆき)
1963年生れ。京都府出身。マサチューセッツ工科大学修士。現在、ビジネスパーソン。

【上演記録】
青年団第63回公演/青年団国際演劇交流プロジェクト 2010
砂と兵隊
『Sables & Soldats』(『砂と兵隊』フランス語版)
作・演出:平田オリザ Texte et mise en scéne : Oriza Hirata
翻訳:ローズマリー・マキノ Traduction du japonais : Rose-Marie Makino
『Sables & Soldats』=フランス語上演/日本語字幕つき
【東京公演】こまばアゴラ劇場(2010年9月16日-10月6日)
【伊丹公演】AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)(2010年10月9日-10月11日)

出演 『砂と兵隊』
山内健司 ひらたよーこ 志賀廣太郎 渡辺香奈 小林智 福士史麻 大塚洋 工藤倫子 石橋亜希子 大竹直 髙橋智子 村井まどか 河村竜也 堀夏子

出演 『Sables & Soldats』
クレマンティーヌ・べアール Clémentine Baert、ケイト・モラン Kate Moran、ジャンマルク・エデール Jean-Marc Eder、ジル・グロッポ Gilles Groppo、エミリー・ラム Emilie Lam、ピエールアンリ・ピュアントゥ Pierre-Henri Puente、ギヨーム・セグアン Guillaume Segouin、クリステル・ルグルー Christelle Legroux、福士史麻 Mima Fukushi、河村竜也 Tatsuya Kawamura

スタッフ 舞台美術:杉山至
照明:岩城保
音響:奥村朋代
衣裳:有賀千鶴 マリー・ノエル・ペーテル
字幕操作:齋藤拓
舞台監督:中西隆雄
通訳:原真理子
宣伝美術:工藤規雄 太田裕子
宣伝美術スタイリスト:山口友里
宣伝写真:佐藤孝仁
制作:林有布子 西尾祥子(システマ) 横山優
協力:(株)アレス

 一般:3,500円 学生・シニア(65歳以上):2,500円 高校生以下:1,500円

企画制作:青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
平成22年度芸術文化形成拠点事業

『Sables & Soldats』(『砂と兵隊』フランス語版)
制作:ジュヌビリエ国立演劇センター
共同制作:(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
助成:キュルチュールフランス
後援:フランス大使館文化部/関西日仏学館
協力:全日空


「青年団「砂と兵隊」」への1件のフィードバック

  1. いい調子で始まったけれど(期待したのですよ!)、「唇」の話以下は共有できませんでした。僕は味噌フェチを自認してますが、唇フェチというのもあったのですね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください