連載「芸術創造環境のいま-小劇場の現場から」第9回

 松島規さん(あうるすぽっと 支配人)、小沼知子さん(同プロデューサー・広報担当)
◎人を再生させる力を持つ演劇の役割を求めたい

 東京・池袋の「あうるすぽっと」(豊島区立舞台芸術交流センター)は、都内で舞台芸術中心の活動を展開している数少ない公共劇場です。しかも高層ビルの中にある都市型劇場でもあります。3年前にオープンしてから、ストレートプレイを中心にしながら、先端的実験的パフォーマンスも大胆に取り入れたプログラムが評判を呼んでいます。いま舞台芸術の創造環境をどう考え、どのような方向を打ち出して活動しているか、また芸術監督制や劇場法などについて、率直なお話を聞かせてもらいました。(編集部)


||| 文化の力で社会を活性化

-あうるすぽっとのオープンは2007年です。池袋に新しい小劇場がオープンすると事前に聞いていたのですが、100人規模だと身軽なのに、300人規模では運営が大変ではないかと危惧しました。どういういきさつで300人規模になったのですか。
松島規さん松島 そのあたりは実はよくは知りませんが、ここができる前のことをお話ししますと、私は当時、東京芸術劇場にいました。(東京大学名誉教授の)小田島雄志先生が館長の時代です。豊島区は「東京芸術劇場と一緒にやろう」という考えからいろいろ連携を取っていた。「文化で経済を活性化する」という高野之夫区長の発想でした。普通は、文化では飯は食えないと支持者に言われてしまいますよね。しかし高野区長は絶対にそうじゃないと主張した。当然それには小田島さんも賛成した。それと当時、東京都写真美術館の館長で豊島区文化政策懇話会座長を務め「豊島区の文化政策に関する提言」を纏めた資生堂名誉会長の福原義春さんも支持しました。私は芸術劇場に来る前には東京都写真美術館にいて、福原さんを館長として迎えた立場だった。ですから、小田島さん、福原さんのお二人とも私はご縁があったわけです。
 もともとここは再開発ビルで、その4フロアー、2階から5階を豊島区が購入した。最初はそこを図書館にするつもりだったそうです。ちょうどそんな折、2004年に豊島区が東京芸術劇場と共同で「としま文化フォーラム」を立ち上げたんです。これは、顧問に福原さん、塾長に小田島さん、副塾長は高野区長で、芸術劇場の会議室を会場に1クール4人か5人の著名人を講師として、年間に2~3クール開かれ区民のみなさんに安い会費で聞いてもらうという講演会ですね。それはいまも続いていて、間もなく100回になります。そういうことで、かなり文化人も出入りしていた。そこで、じゃあそのフロアーの一部を劇場にして、図書館とともに文化芸術の拠点としようと区長が決断したと聞いています。
 劇場にするに当たって、最初はロビーに当たるところをもうちょっと客席にするつもりでした。そうすると400席くらいになる。もっと前には500席という案もあったらしい。でも、小田島さんからこの劇場は大人のお客様も迎えられるようなゆったりとした劇場空間と座席にするべきだというアドバイスもあって、ちょっと少なくなって400。ロビーを展示スペースとしても使いたいという区の意向があって、また減って300になったと聞いています。東京芸術劇場の小ホールのキャパが300、いまは閉館しましたけどお隣の文京区の三百人劇場なども身近にあった。そんなことで、300がいい数字じゃないかというのが区長や豊島区の担当者にはあったようですね。それで結果として立派なホワイエができたわけです。池袋、ひいては豊島区のイメージを、文化の力によって高めたいという考えがあったのではないでしょうか。

-池袋と芸術文化というと、いまのフェスティバル/トーキョー(F/T)も池袋の演劇祭からスタートしたと言ってもいいのでしょうか。
松島 フェスティバル/トーキョーと池袋演劇祭との関係は違うと思います。両者の間には因果関係というか、関連はないと思うけど?
 池袋演劇祭はもう20回以上続いていますが、これは単独で始まったわけではないのです。その前に、1988年に東京国際演劇祭が池袋でスタートしました。そのとき私は東京都文化振興会(現・東京都歴史文化財団)にいて立ち上げに関わりましたが。
 この演劇祭がスタートした経緯は、その前に渋谷で1985年から東京国際映画祭が始まったことと関係があります。この映画祭は東京都が支援して始まったので、今度は演劇もやりたいと池袋が中心となって東京国際演劇祭が始められたんです。池袋のデパートを中心として、もうスポンサーをがっちり固めてました。1988年に東京国際演劇祭が始まりましたが、隔年開催なので、その間の年に池袋演劇祭という地元の演劇祭をはさんだんです。それなのに、東京国際演劇祭の方は3回目の1992年で終わっちゃった。ところが地元の池袋演劇祭だけはいまだに続いている。これは大したことです。豊島区が支援して、三浦大四郎さんを中心とした豊島区舞台芸術振興会が主催しています。1989年以来地元の方たちが中心になって続けて来たんですよ。豊島区がそれを少しずつ援助して。だから池袋演劇祭も価値あるものなんです。20年以上も続いてるんですから。それも毎年開催しているんです。

あうるすぽっと入り口
【写真は、ビルの2-3階にある「あうるすぽっと」1階入り口。東京都豊島区東池袋】

-地元の人たちもずいぶん参加していますし、なかなかユニークな演劇祭ですよね。東京国際演劇祭が3回で終わったあとは、F/Tの前身につながるんですか。
松島 その辺の知識はないので知りませんが、それは違うし、まったく関係ないと思いますよ。

-市村作知雄(F/T実行委員長、アートネットワーク・ジャパン会長)さんたちがやっていたのは。
松島 「リージョナルシアターフェスティバル」のことかな? それなら以前に都内の演劇関係の有志が同名のフェスティバルをやっていましたが、アートネットワーク・ジャパンのそれとは名前は同じですが、内容もスケールもかなり違うし、グレードアップしていましたので、以前のものとは違うのでしょうが、これは当事者に聞いてみないと分かりません。

-あうるすぽっとに松島さんが関わることになったのは、高野区長から声をかけられたのですか。
松島 高野区長と小田島さんの推薦だと思うんですが、突然「豊島区が新しい劇場を立ち上げるというんだけど(立ち上げを)引き受けてくれないか」と、小田島さんから話をいただいて。

-小田島さんは当時、東京芸術劇場館長ですよね。
松島 そうです。小田島館長です。管理職は2人しかいなくて、私ともう一人は東京都から派遣された都職員の方です。それでこの話を受けるかどうかっていうことになった。私は定年前だったんですが、区長は、すぐに立ち上げに携わってくれないと間に合わないって言うんです。それが2005年の秋です。ところが、その年の暮れに東京芸術劇場で、グレゴリー・ドーラン演出のロイヤル・シェイクスピアカンパニー『夏の夜の夢』を招へいすることになっていて、それが終わるまでは駄目だったんです、行くことはできませんって言ったんです。
 ですから私は豊島区からの話を東京都にも言ってなかったんですけど、どこからなのか、ぱっと話が広がっちゃった。で、2006年3月いっぱいで東京都歴史文化財団を辞めました。翌日から豊島区に来まして、準備室を立ち上げ、4月から本格的に動き出したんです。小沼知子(現プロデューサー)さんは私のスカウト第1号です。無理を言って来てもらったんです。
 2006年4月から私と小沼と区からの派遣職員の3人で始めて、7月に崎山敦彦(現チーフ・プロデューサー)さんにも加わってもらいました。また、並行して有識者による「アドバイザー会議」を立ち上げ、演出家・制作者等5人を選び、お願いしました。その人たちとアドバイザー会議を月に1回ほど開いて、小田島さんにはオブザーバーになってもらい、最終的にはこけら落とし公演の4演目は全部そのアドバイザーに作品を創ってもらうことになりました。
 アドバイザー会議ですから、みなさんがそれぞれの立場から、いろいろ意見を出してくれる。あのときは本当にいいアドバイザーを選んだなと自分でも思いましたね。青年座の宮田慶子さん、文学座の高瀬久男さん、木山事務所の木山潔さん、ミュージカルの演出で実績のある勝田安彦さん、教育普及プログラムの専門家で(シアタープランニングネットワークの)中山夏織さん、この5人にアドバイザーになっていただいた。会議の席上で小田島さんから「4人に柿落とし公演を創ってもらおうか」と、提案されたんですね。
 そういうことで、スタートは2007年9月ミュージカル『ハロルドとモード』を勝田さんの演出で、次が10月木山事務所公演『駅・ターミナル』、それから11月『海と日傘』を竹下景子さん、平田満さんの主演、高瀬さん演出で、最後は2007年12月三島由紀夫『朱雀家の滅亡』を佐久間良子さん主演、宮田さん演出で上演しました。3ヶ月に4本というのは、いま考えると相当ハードでしたね。
-よほど財政事情がよかったんですね(笑)。
松島 いやいや、財政事情はよくありませんが、豊島区の文化に対する気概はあったと思います。通常、予算はそんなにつけられないんですよ、チケット収入を高く見込まれますから。だけど、制作コストに見合う採算という点では300席というキャパでは難しいんです。でも、何とか(豊島区から)予算を計上していただいて、区長初め、関連各所の尽力もあり、連日満員でした。

-演目を見た私たちの印象は、池袋に大人の劇場ができたな、でした。300くらいのキャパだと、若い人向けのお芝居を作りがちなんですけど、大人向けにしっかりした舞台を見せるというポリシーが最初に打ち出された、そういう印象がすごく強かったですね。
松島 そうですか。ありがとうございます。私の意向もそうなんですが、小田島さんやアドバイザーの方々も同じ考えだったんです。
 小田島さんもそうなんですけど、私の考えも、どちらかと言えば新劇系で、あまり商業的な方向には走りたくない。もちろん商業演劇をやることもありますが、でも、そうじゃなくて落ち着いた文芸路線を求めていたことは事実です。

-あうるすぽっとの方針は一貫してるんですね。
松島 私は、演劇のあり方として、人を蘇生させる、見に来てくれた人たちが、生き生きとして帰っていく、というのが演劇のあるべき姿ではないかと思っていたんです。劇場として、人を蘇生させるような出し物を取り上げていきたいという気持ちがあった。なぜかというと、東京芸術劇場で呼んだロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがそうだったんです。芸術劇場の中ホールで『夏の夜の夢』を上演したとき、本当にみんな喜んで帰っていくんです。嬉しかったとか面白かったとかじゃないんです。演劇の本質に触れて、みんな内面の充実を持って帰っていくんです。見送っていて、それが分かるんですよ。こういうのが演劇の本質だなあと思ったわけです。だから理想を言えば、落ち込んでいる人が芝居を見に来て、よみがえって、生き生きと帰っていく、そんな演劇の役割を、何とか私たちは追求していきたいと思った。そういうものが演劇として評価されるんだと。(続く>>

「連載「芸術創造環境のいま-小劇場の現場から」第9回」への10件のフィードバック

  1. ピンバック: 文化の家
  2. ピンバック: aera
  3. 次のなば缶の会場にして欲しいです!前回は200人規模の会場でチケットがすぐ売れたのでご一考をお願い致します

佐藤敏之 へ返信する コメントをキャンセル

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