◎観られなかった舞台を懐かしむ
堀切和雅
「いま/ここに/在る」ことの演劇
小劇場の歴史のカンブリア紀あたりに、「月夜果実店」が棲息していたことを知る人ももう少ないだろうが、それは全くのところ、「問い」を舞台にするためにつくった集団だった。「時間のはじまりの、前はナニ!?」とか、「宇宙の外側の外側の外側は……」という、誰でも一度や二度は問う問いを、成人しても僕はずっと持ち越していたのだが、日常にそれらギモンを匿している大人は存外多いらしく、劇団は継続的な観客を得た。
宇宙論や時間論の概説書を読みあさりながら、そこに書かれている自然の事実、というか、人智のあまりにかぎられていることに、僕は文科系的に驚嘆しながら台本を書いていたが、ほどなくこういう当たり前の結論に至ってしまった。「科学はそもそも、『なぜ?』という問いに答えるようにはできていない」。
僕らは劇場を出た。喫茶店で喫茶店で起こる物語を演ったり、住宅展示場の一軒を借りて、家庭と、その周囲に拡がる街の芝居をしたりした。極く近距離で空気の温度や硬さの変化するのを伝える、劇の新しい文法をつくる作業は実に愉快で刺激的で、それをしているうちに、僕らは思いがけない鉱脈に近づき、時には掘り当てたこともあった。それは、「いま/ここに/いる」というとても平凡で大切なことの、自己言及的な再発見の瞬間で、演劇という手段は、そのように、この現実を異化するためにある、とさえその時は想った。例えば、「プレゼント/プレゼンス」(1991)という芝居では、タイトル通り、「ただいま現在」「存在するもの」は、この世界に「差し出されたもの」であり、「贈り物」であると考えることもできることが、演劇的に「わかって」、観客ともども我々も鳥肌を立てていた。もちろん「贈る」主体は、無神論的にも、宗教的にも、その人によっていかようにも想定することができる。
そんな昔話をしていて、「存在論的演劇と言えば……」、とある人に言われて「わが星」再演のことを知った(2011年4-6月)。自分の魂をもちあるくだけで疲れはてている僕としては、外部からの余分な刺激を受けたくなくて、ここ数年観劇は敬遠してきたのだが(そういえば、「月夜果実店」の頃も、ひとの芝居はほとんど観なかった。観たよりも、やった数の方が多い)、「これはもしかして自分もまた演劇を使って考え続けてきたことではないか? いまの人たちはどうやっているのか?」と、決意して予約電話をした。
オジサンは、情報を得るのが遅かった
と、席は取れなかった。そのぐらい評判なのらしい。でも、当日券を求めて長い列に並ぶというのは、外出に慣れていない物書きのオジサンとしては、厳しい。自分が演劇公演をしていたときには、性別老若問わず、桟敷席であろうとPAの上であろうと詰め込んでいたものだが……申し訳なかった。
すると、2009年の初演時のDVDが出るという。アマゾンで予約して買う分には出かける必要がないので、そうした。
もちろん、「音」と「映像」だけを知っても、その舞台を識ったことにはならない、ということは分かったうえで。開演前の限られた地灯りに煌めく埃の匂いとか、空気の粘度とか、集った人々の抑えたざわめき。そうしたもの、また開演後の、演者の汗の気配、息づかい、そして観客と演者が「いま/ここに/いる」というその感じと共にしか、演劇体験というものはまず成立しない。だから、僕も、自分の作品のリハーサルを、当時はまだ珍しかったHDムービーカメラで撮ったものなどは持ってはいたが、人に見せるべきものではなかった。それは作品の、一つのスライス面にしか過ぎなかったから。
でも、DVDが出るということは、音と映像でもそれなりに愉しめるぞ、という、制作者の意思表明でもあろう。かどうか分からないが、ともかく選択の余地なく、DVDをプレイヤーに挿す。
むかし、「いまからだいたい50億年後には赤色巨星となった太陽がぶよおおんと地球の軌道のあたりまで膨らんできて、地球は溶けて消える」ということを知ってから、それを識る前とは生きている意味が変わってしまった。もちろん、宇宙そのものも、究極的には「なくなる」(ビッグ・クランチ説の場合)とは「知って」いたし、より最近では宇宙の膨張は無限に加速しっぱなしという説得力ある説も出てきていて、その場合宇宙は「なくならない」のだろうけれども、膨張速度が光速に達すればそこにはあらゆる意味での観測可能性も、人間の意識の存続の余地も「ないだろう」ということも分かっている。
しかし、宇宙の究極の形態(?)の問題以前に、その「太陽が地球を呑み込む50億年後」というのは、「わりとすぐじゃん」という感じがして、「じゃあ地球も太陽系も中年というか、人生後半じゃん」という理解がみぞおちの辺りにどすん、と来て、僕は自分の中年以降の明るい発展のイメージも同時に喪ってしまった。
というのは誇張であり、問題のすり替えですけれども、この「わが星」の作者の柴さんという若者も、「地球がなくなる」ことの確かさはけっこう気になったらしく、それがこの舞台のひとつのテーマとなっている。
登場人物は「属性なし」
こういうテーマの場合、月夜果実店では、「自分の発見しつつある事実に気がくるいそうになりながらも、正気を鼓舞して人智や人間的安心の領域を遙か離れた、宇宙物理学的な真理を解明しようとし、でもやっぱりちょっとくるってしまう理系の学者」という戯画的な人物像をすぐさま設定し、彼ら彼女らが、「数学」という「科学の長い腕」で、「無限」や「光速を超えると時間は逆行することに数式上では綺麗になっていて、でも、その意味するところは何!?」といったことを探り、悶え苦しむさまを見せ物にしてみんなで泣いたものだが、柴さんはそんな濃ゆい設定はまるでしていないし、泣いてもいない。これはもしかして、作者は理科系の頭脳なのかな、と僕は思った。そしてもちろん、くるっていない。ちなみに、僕は一時大学教員もやったが、外から見ていたときの予想通り、「くるった学者」というのは、わりといた。まあ、あくまでこれは、ちなみに。
団地の、4人家族+おばあちゃん、の、下の女の子を「地球」に見たてる、というのが柴さんの設定である。その、ちょっと前の「平均家族」像を別に政治的に気にせず採用したところにも、作者の、「これはみんなの話なんだよ」という優しい語り口がすでに発生しているように思う。
で、これはもうよく知られているのだろうが、円形の舞台を、演者たちがラップ式に喋りながら、女の子の一生に見たてた、「わが星」の一生が展開される。その間、時報の形で、台詞の形で、リズムがずっと通奏している。そうか、やたら演者のテンションを上げるんじゃなくて、この手があったか……。美男美女俳優など一切必要としないストーリー。清潔で賢い演出。リズムからは次第に、低音のメロディが生まれてくる。ベーシストでもあった僕としては、ここでもう、「きぇええーっ! きもちいいっ!」。で、あとで、この演奏を作者の柴さん自身がなさっているとDVDのエンドロールで知って、「うわ、かっこいい!」。
まあ、これで心配なのは、柴さんがここまで世界を「手の内」にしてしまうと、劇団形式では役者はツラくなるだろうな、ということ。うちの役者たちにも、そういうことがあったから。でも、この舞台で行われること自体は、役者の身体的・発声的挑戦として、すごく心地よいものに違いない。役者は交換可能な「駒」ではあるけれども、ここでは、この舞台では、誰でもありうる、でも「誰か」として燦然とする。この栄光こそ、演者にとっての麻薬だ。
宇宙が消える、という歓び
とにかく驚いたのは、結果としてこの作品が、「宇宙も、みんなも消える」ということを、怖れるのではなく、悲しむのでもなく、歓喜の極みのごとく歌い上げていくこと。これは柴さんと僕の資質の違いによるものか、興味深かった。僕の2本目の戯曲は、「宇宙の零下に抗して」という、いま思えばベタなもので、僕は「なくなる」ことを「怖がって」しかいなかったのだから。
「死者の眼差し」で世界を見つめることは、逆に生の歓び、平凡のかたじけなさを最もよく強調する。いずれ終わりが来るのは間違いないのだから、すべての現在は愛しい。その構造を気取りも構えもなく創り出してしまったことが、この作者の多彩な才覚を示している。
「でも、柴さんも、ホントは喪失は怖いのでは?」「だからこのように描いたの?」それは直接聞いてみなくてはわからない。便宜的/一時的解決として演劇的感動を置くのか、素朴に「ほんとうのほんとう」にそう思っているのか、これは、いろいろな姿勢が、ありうる。
と書いたところで、マガジン・ワンダーランドの240号を目にすることができて、「わが星」を二人の評者が取りあげていた。「後出しじゃんけん」みたいでずるいが、それらを参照しながら上記のことをもう少し考えてみる。
西川泰功さんという評者は、「80分という上演時間の間、一定のリズムが刻まれるという、ほとんどトランスを促す劇場空間の中で、『イッてしまう人』が多いのは当然というべき」と書き、その「煽動効果を受け入れるわけにはい」かず、「20世紀の偉大な演劇人が苦心して創作に織り込んできた演劇自身への批判を、演劇史の先端にありながら、また岸田戯曲賞という権威を携えながら、引き受けないというよりは忘れてしまったというような態度を、容認するわけにはいきません」と書いている。
これはとてもまっとうな批判で、それ自体は当たっている。だがやはり、「陶酔もしながら批評性をうしなわない」という、現代の観劇作法の、より絞っていえば演劇批評というものの困難さと息苦しさも、同時に感じる。
西川さんは、「セカイ系批判の文脈でも批判しておきたい」と表明し、「時間を意識的に扱いながら、無時間の空間をつくりあげてしまう感性が、この作品の本質的な内容と矛盾している」と締める。
これも当たっていると思う。「セカイ系」の物語をつくる人たちは、核戦争のサブライムを現実に人々が生きてきた冷戦時代をそんなふうに引き継いで大丈夫なのかよ、と僕も思う。また、最後に挙げた分析は、この作品の実に本質に関わるもので、というか、後に挙げる二番目の評者の懸念とも通底するのだが、「答えの出ないものに、答えを出す姿勢を技術的に実現してしまいました。いいんですか?」という問題を指摘しているのだと思う。
だけれど同時に、「答えが出ない」ことに踏みとどまることは、弁証法を便利に取り込んだ、いつまでも暫定的な、戦後民主主義的な優等生の回答、という感じもして、それも、「いいのかよ?」と思ったりする。
というのは、例えば僕より少し上の世代の、評論家の三浦雅士は、知的探究の果てにあるのはもしかすると「断念」であるのかも知れない、と、「答えられないというのが答え」であることを表明したことがあるから。
しかし、そこからまた連想すると、柴さんが舞台で提出した「明るさ」「肯定を肯定すること」が、「早すぎる断念」である、という観方もできるわけで、すると、また西川さんの留保に賛成したくもなる。
神なき宗教
第二の評者は片山幹生さんという人で、この人の批評文には、「明朗さへの違和感、宗教劇としての『わが星』」という小見出しが打たれていて、まずは初演時の感想が述べられるのだが、そこには、「その日常性の賛美はあまりに無邪気に感じられることもあり、ある種の新宗教に対して抱くような警戒心を持った観客も少なくないはずだ」「ちょうど読経したり、聖歌を歌っているときに感じるような宗教的な法悦感」「観客をマインド・コントロールしかねない巧妙な仕掛け」といった指摘が見られる。
ところが、その同じ片山さんが、今回の再演時にこの作品を改めて観た時には、「『わが星』のまばゆいばかりの日常性の賛美のむこう側に現実への乾いた諦念がある」と、別の見解を抱くことになる。
お二人の評を引きながら自分の感想をそこに練り込もうとして気づくのだが、ここにはほぼ同型の理路が現れている。つまり、「わが星」の構成・演出には少なくとも腕力があって、観客は否応なしに感情を揺さぶられてどこかへ連れて行かれるのだが、着地して、観客は「ここは何処だ?」と想うことになる。そこが、「早すぎる断念」なのか、「日常性の賛美のむこう側の、現実への乾いた諦念」なのかは肝心なところで、それは、柴さんというクレバーきわまりないクリエイターの、さて、そのメッセージはどれくらい深く考えられ、感じられたことなのか、が問われるポイントになっている、と思う。それは、さきほど僕が書いた、「便宜的解決」と「ほんとうのほんとう」の間の深い谷の、どの地点に作者が浮いているのか、ということとも、もちろん関わる。
アタマが変にならないと「ほんとうのこと」はわからない
「ほんとうのほんとう」は、あるのだろうか? あるとも、ないとも言える、というのが僕の現在の答えで、それはひとつには、「人間は、人間の理解できる形式でしか、世界を理解できない」というカント的な信念を青年期から抱いてきたことによる。とはいっても、唯心論とか、本気なのか冗談なのか悲鳴なのか、宇宙論にある「人間原理」に立つのでもなくて、宇宙はやっぱり何らかの形で、実体として「ある」、という直観がある。つまり素朴実在論で、なおかつ不可知論で無神論なのだ。それは「論」というよりも、僕がこうして何とか毎日を送れることの前提になるもので、理屈の遊びではない。
一方で、事態を複雑にしているのは、僕が「ほんとうのほんとう」を、いままでに二度、体験したことがあることだ。それは、時間が有限であることと無限であることの間に区別はなく、自分と世界の間にも区別はなく、すべての事物がそのままに、限りなく豊饒で同時に意味はなく、そのことが「解った」という感覚。たぶん般若心経の世界になっちゃった、ということなのだが、これはこれ以上なく解放されて幸福な感覚で、「悟り」というのはこういう状態が続くのを言うのだろうな、と「解った」。ただ、僕のその感覚変容は各々30分くらいしか持続しなかったのだが。
たぶん脳内に麻薬物質が出ていた、と解釈することもできて、それをメソッド化したのがオウムの求心力の正体だったと思うのだが、これが「ほんとうのほんとう」「世界のありさま」だと「解った」というのはいわゆるアルタード・ステーツにおける体験で、すなわちその時僕は普通の人間の神経じゃなくなっちゃったから「解った」ので、なので、「人間は、人間の理解できる形式でしか、世界を理解できない」という命題は引き続き保持される。人間理性と近代が呼んできたものを護る限りは、回答は得られない。
世界を理解する、とは?
上記のようなことが、二人の評者をして、すくなくとも一旦は「引かせた」原因だと思う。近代理性というのは業が深くて、僕も、世界の「ほんとうのほんとう」を識りたい、と思っているのは本当だが、いざこの芝居で、「これがほんとうですよ」と答えられてしまうと、「ちょっと待って下さい」と、うろたえてしまう。
科学まみれの理性と、直観的理解を結ぶ方法は他にもある。「宗教者は世界を『答え』の形で理解するが、文学者は世界を『問い』の形で理解する」ということを書いたのはたしかミラン・クンデラだったと思うが、「文学者」を「芸術家」一般に置き換えても、これはもちろん成り立つ。
「人間は『物語』の形式でしか世界を理解できない」と心底思ったことも僕にもあって、そのころ、演劇をやりながらの編集者として村上春樹さんと河合隼雄さんの長い対談を準備して進行役を務めたとき、一日目の対談に「『物語』で人間はなにを癒すのか」という標題を僕はつけた。「癒し」とはおそらく「理解」のことである。そんなことを想いだしながら、3月の震災で崩れたままの本棚からたまたま落ちてきた、むかし読んだ谷川俊太郎を深夜読み返していると、ふと「人生を物語に要約することに逆らって」という詩句に再会して、詩人というのも病気だなあ、と思ったりする。
音楽は「時間の外」から来る
すごく長くなってきちゃったのでそろそろ止めにするが、DVDで舞台芸術を観るというのはどんな具合なのか、というのもこの文章のテーマであった。
「わが星」については、それがもともと円形舞台で、無方向的に見せるものであったせいか、おどろくほど違和感がなかった。円形舞台の円周上の行進と、円の中心部分での個別の場で舞台が構成されているわけだが、画面を引いて全体を見せるのと、個別の場にズームアップするというカメラワークなので、これは、生の舞台に対して観客が眼と耳と心でフレームとズームの具合を変えるのと同じことになっているせいだ、と思った。流れ続ける音楽によってテンションがずっと持続している、という構成上の特性も、モニター画面への集中を助けている。
これはちょっと研究しなくっちゃ、と思って、同じ柴さんの作品で、「toi」というユニット名でやったらしい、「四色の色鉛筆があれば」も、DVDを入手して観た(2009年の録画)。
すると、こちらの方は問題が発生する。「無言」という、劇にとって最も特権的な瞬間-〈間〉、を、じゅうぶんに身体に浴びることができない。同じように、〈闇〉も、味わえない。それらは、聴覚や視覚の問題である以上に、全身的な出来事だから。
あと、さいきん芝居を観ていなかった僕は、「toi」の動向もまるで知らなかったのだが、改めて見ると、「わが星」のモチーフはすでにここに現れている。四つのシークエンスで構成された舞台の三番目に「反復かつ連続」だったか、そういうタイトルのものがあったのだが、そこでは世代をこえた日常の繰り返しの中に、たぶんここだけ、音楽が立ち現れてくる。反復の中に音楽が導入されると、そこには無限のズームアウトが起こる。音楽は時間芸術であるにもかかわらず、いや、だからこそ、「無時間」から染みだしてくるものだからだ。あるいは、こういうことか。「音楽的時間の生成を鍵として、その裏側に、われわれは『無時間性』があるのを知ることができる」。
「自分も死ぬ」ことを識ることから
この作者もまたスマートな演出に隠しながら「死」「消滅」というテーマに執着しているが、「自分も死ぬ」ことを識ることからおよそあらゆる芸術は発生するのだから、僕も含めて、評者たちが、「わが星」という音楽劇に、「死や消滅を本気で扱っているのか?」「それを歌い上げられるのか?」と留保をつけたくなるのも当然なのだと思う。そして死はもちろん、無時間に属する。つまり存在しない。存在しない場所からの「死者の眼」を導入してしまうように見えることに拠って、音楽と演劇の組み合わせというのは、ときに危険なのだ。
危険だからこそ、それは感情を揺さぶる。円形の舞台であるによって、取り巻く観客の姿もDVDに映っていて、ひとりの女の人が、ラストの音楽とラップにリズムを合わせ、笑顔で泣くのを、僕は見た。そのひとの感じている「感じ」が、すごく、響いてきた。僕が見たのは、「音+映像」に過ぎないはずなのに。
まちがいないのは、その場にいたら、僕も笑顔で泣いてしまっただろうこと。
オジサンの泣き笑いの顔は、たいてい醜い。
劇場に行かなくてよかった!
(初出:マガジン・ワンダーランド第242号、2011年5月25日発行。無料購読は登録ページから)
【筆者略歴】
堀切和雅(ほりきり・かずまさ)
1960年生まれ。学生の時にはバンド「スーパースランプ」結成。岩波書店入社の年以来、劇団「月夜果実店」主宰。青山学院女子短期大学教員(領域:表現)を経て、エッセイスト。著書に『「30代後半」という病気』(築地書館)、『娘よ、ゆっくり大きくなりなさい-ミトコンドリア病の子と生きる』(集英社)、『なぜ友は死に 俺は生きたのか-戦中派たちが歩んだ戦後』(新潮社)など。
【上演記録】
ままごと「わが星 」(DVD版)
作・演出:柴幸男 × 音楽:三浦康嗣(□□□)
価格:¥2,500(税込)
販売元: play / HEADZ
発売日: 2011年05月04日
ままごと「わが星」-Mitaka “Next” Selection 10th.(初演)
三鷹市芸術文化センター 星のホール(2009年10月8日 – 12日)
□作・演出 柴幸男
□CAST
青木宏幸
大柿友哉(害獣芝居)
黒岩三佳(あひるなんちゃら)
斎藤淳子(中野成樹+フランケンズ)
永井秀樹(青年団)
中島佳子
端田新菜(青年団)
三浦俊輔
□STAFF
音楽=三浦康嗣(□□□)
ドラマトゥルク=野村政之
舞台監督=佐藤恵
美術=青木拓也
照明=伊藤泰行
音響=星野大輔
宣伝美術=セキコウ
当日運営=横内里穂
制作=ZuQnZ
制作総指揮=宮永琢生
総合プロデューサー=平田オリザ
企画制作=青年団/(有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場
主催=三鷹市芸術文化振興財団