世田谷パブリックシアター「モリー・スウィーニー」

◎端正に、人懐こく、予想外の仕掛けで形に
 徳永京子

「モリー・スウィーニー」公演チラシ 世田谷パブリックシアターという大きな劇場を使いこなせるつくり手を、劇場自らの手で発掘・育成しようという世田パブの取り組みは、同じ08年に「ネクスト・ジェネレーション」と「日本語を読む」の2つの企画をスタートさせたことで、地道ではあるが大きな歩みをスタートさせた。脚本の完成度を主な選考基準とし、若手の団体を対象とする「ネクスト・ジェネレーション」。前者の卒業生、あるいはそれに近い活動年数を持つ演出家に、劇場サイドが指定した戯曲で演出手腕を奮ってもらうリーディング「日本語を読む」。この2本で、若手と準若手、劇作力と演出力のいずれをもカバーできるからだ。

 とは言え、2つの内容を精査すれば、世田パブが力を入れているのは、どちらかと言えば演出家の育成だということがわかってくる。「ネクスト~」の審査対象は上演済みの脚本と指定され、執筆にかける労力は演出に使うという方向が定められているし、「日本語~」は戯曲も出演者も劇場主導で選ばれるという点で、一定の制約の中での演出力が問われる仕組みになっているからだ。

 その理由としては、同劇場が学芸部を持っていること、芸術監督の野村萬斎が非・劇作家であることなどが、まずは関係しているだろう。だが、3階席まである天井の高い世田谷パブリックシアターを満たせる空間構成力、約600席を一定の日数埋められる動員力(出演俳優がそれを持っているとして、その俳優を演出できる力量があること)が求められる点を考えれば、自分が生み出した小さな世界に没頭する危険性の高い劇作家兼演出家よりも、演出家に軸足を置いたリクルートを行うのは当然とも思える。

 この目的に続く次のステップとして、「日本語~」で出会った才能と、海外の優れた戯曲を上演するシリーズを今年から稼働させた。『モリー・スウィーニー』は、その第一弾。アイルランド人劇作家ブライアン・フリールが94年に書いた戯曲で本邦初演という。谷は今回、翻訳も手がけた。客席数約200のシアタートラムでの上演ではあったが、主演が南果歩で12ステージというプロダクションは、一般的にはほぼ無名の29歳の演出家・谷賢一にとって大抜擢であったことは間違いなく、同時に、世田パブにとっても英断を伴う船出だったはずだ。ちなみに谷が大抜擢された理由は、昨年の「日本語~」で三島由紀夫の『熱帯樹』を演出した際の成果だが、安いメロドラマに仕上がる危険性を孕むこの小説を、谷は緊張感の手綱を緩めることなく走り切り、シンプルな人物の動線で、膿んだ家族劇をトラムのステージ上に再現して見せた。

 そして船出は、まず順調な滑り出しを見せたと言っていいだろう。谷は、3人の登場人物のモノローグ(ダイアローグもごく一部あるが)で書かれた、つまり、一般的とは言い難いこの戯曲を、まずは端正に、次に人懐こく、最後に予想外の仕掛けで形にした。それはクチコミで広がり、当初は動員に苦労したとも聞くが、私が観劇した中日は、立ち見が何人も出る盛況ぶりだった。

 『モリー~』は、幸福についての絶対性と相対性の物語だ。ある人物にとってのパーフェクトな幸せは、その人物以外のパーフェクトな幸せと、絶対に一致しない。つまり完璧な幸福とは絶対的な価値観と評価の上にしか成立しないのに、多くの人はそれを相対的な価値観、その基準とされている常識に求めようとする。

 生まれて間もなく盲目となった四十路の女性モリー、彼女に夢中の中年フリーターの夫・フランク、彼女達が住む田舎町に流れ着いた、かつての花形眼科医ライス。物語は3人の胸の内の言葉で進んでいく。それぞれの言葉から窺えるのは、彼らが3人とも非常に聡明で自分自身をよく把握し、また一方で、直感の部分も人より発達しているということだ。定職はないが常に好奇心と知識欲に突き動かされ、納得のいかないことがあると図書館で片っ端から書物を読み漁り、「モリーは絶対に手術で目が見えるようになる」と確信して医師に掛け合うフランクも、子供っぽい我の通し方はしても、盲目のモリーの内にある深遠で美しい世界を知り、敬意を払っている。よきライバルだった友人と妻に駆け落ちされてから、半ばアル中のようになっているライスも、自暴自棄になることはすでに止め、モリーの手術で再び手に入れた自分の医師としての才能を冷静に把握し、数年ぶりに会った妻の仕草からメッセージを読み取ることができる。世間からはみ出し、あるいは、社会から落ちこぼれたふたりの男は、だからこそ、モリーの視力回復を願い、それが現実となると大喜びしながらも、うっすらと破滅の予感を抱いている。それでも彼らがモリーに手術を受けさせたのは「見えないより見えるほうがいいに決まっている」という健常者の常識、奢りに他ならない。理性よりも、本能よりも、事態をねじまげてしまうこの相対的価値が、幸福のバリエーションを減らすばかりか、不幸を招く。

 誰よりも破滅の予感を感じていたのはモリー本人で、手術前夜、ホームパーティで狂ったように、それでも椅子ひとつ倒すことなく踊り出したのは、不安から来る高ぶりというよりは、自分が築いてきた完璧な世界が間もなく壊れることへの最後の抵抗だった。盲目の状態が彼女にとっていかに調和のとれた、視力を持つ人間には想像もつかない優雅な広がりを持っているかは、モリーが水泳について語る短いシーンだけで充分にわかる。プールに仰向けで浮かんだ時の感覚を説明するモリーの言葉は、オルガズムを語るそれである。微細な動き、判然としない光、水の感触と温度、それらによってモリーが運ばれる恍惚の境地──。これを照明の斎藤茂男は、センシティブに明かりに還元した。この作品で照明が重要な役割を果たすことは、戯曲上からも明らかではあるが、斎藤の仕事はその要求に有機的に応えていたと思う。

 物語の後半は、それまで触覚によって世界を認識していた回路をゼロにしなければならないモリーの苦痛のほか、“見える”ということに付随して流れ込む、周囲の期待や興奮、それらによって新しくポジショニングされる自分への違和感などが描かれ、やがて彼女は精神の安らぎ、さらに命さえも奪われてしまうところで終わる。

 この戯曲を、谷は奇をてらわず視覚化する。先に「端正に」と言ったのはそのスタンダードな手つきを指す。舞台上手に、バーのカウンターにも図書館の一部にもなるセットがあるフランクのゾーン、下手に、診察室にも自宅にもなる椅子と机を置いたライスのゾーン、中央に姿見のあるモリーのゾーンをつくる。それぞれの空間は、時折り交わされるダイアローグと並行して緩やかに混じり合う。第一部の幕切れ、手術によってモリーの眼球の濁りが取られたと同時に、モリー役の南によって引き下ろされる巨大な白いビニールのカーテン。第二部、カーテンの先に広がっていたのは、数本の電線がぶら下がる、特におもしろみのない風景だ。美術は尼川ゆらだが、おそらく谷の意向も反映されているだろうセットは、登場人物の関係性や戯曲の世界観を、舞台上に素直にトレースしている。これは決して悪いことではなく、具象の道具を使って抽象の空間をつくる舞台の魔法は、シアターゴアーと演劇ビギナーのいずれにもアプローチする。

 俳優で言えば、ライス役の相島一之は「端正」を受け持つ。独白の部分ではシニカルになりつつも、患者との会話では根っからの優しさと責任感を感じさせる“天職・眼科医”の男を、丁寧に、時に枯れた表情も織り交ぜて好演した。

 それに対してフランク役の小林顕作は「人懐こさ」担当だ。観客を巻き込み、専門的な用語はホワイトボードを使って説明するなど、明らかに戯曲の指定外だが、彼によって風通しの良さが生まれた箇所がいくつかあるのは確か。アドリブ満載でラフ過ぎるきらいはあったが、ハイテンションだが憎めない、絶え間ない好奇心が徒労へと回収されてしまう明るく不幸な男性は、小林以上の適役を、私は今、思い付かない。

 モリー役の南は、多くの人を魅了する盲人という点においても納得のいくものであったが、ラストシーンの完全暗転の中、鈴のような笑い声を立てて客席中を風のように走り回る運動神経において、谷の演出意図を完璧に形にしたという点で大成功のキャスティングだったと言える。このシーンこそ今作の予想外のクライマックスで、モリーが見えることから解放され、再び手に入れた彼女にとっての完璧な世界で圧倒的な自由を満喫する楽しげな様子は、彼女と共に暗闇を体験した観客が「モリーの幸福を自分は決して味わうことができない」と痛感する10分間だからだ。

 これまでに観た谷の作・演出作品は、わかりやすい記号で飾られた露悪が目についたが、この作品で成功したように、今後はスタンダードな作品の深みを舞台上に乗せることにもエネルギーを注いでほしいと勝手ながら願う。こんなことを聞けばかえって過激なことをしたくなるのかもしれないが、中劇場、大劇場を演出できる次の若手として名乗りを上げるのも、なかなか悪くないと思うのだ。

【筆者略歴】
 徳永京子(とくなが・きょうこ)
 1962年、東京都生まれ。演劇ジャーナリスト。小劇場から大劇場まで幅広く足を運び、朝日新聞劇評のほか、「シアターガイド」「花椿」「Choice!」などの雑誌、公演パンフレットを中心に原稿を執筆。東京芸術劇場運営委員および企画選考委員。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/tokunaga-kyoko/

【上演記録】
世田谷パブリックシアター『モリー・スウィーニー
シアタートラム(2011年06月10日-19日)

[作]ブライアン・フリール
[訳・演出]谷賢一(DULL-COLORED POP)
[出演]南果歩/小林顕作/相島一之

[美術]尼川ゆら
[照明]斎藤茂男
[音響]小笠原康雅
[衣裳]前田文子
[技術監督]熊谷明人
[プロダクション・マネージャー]勝康隆
[プロデューサー]穂坂知恵子

[料金]一般 5,000円 高校生以下2,500円 ★=プレビュー4,000円

[ポストトーク]
6月13日(月)19時の回終演後 出演者:谷賢一/南果歩/小林顕作/相島一之
6月15日(水)19時の回終演後 出演者:南果歩/小林顕作/相島一之
6月16日(木)19時の回終演後 出演者:長塚圭史/谷賢一/小林顕作

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