◎チェダーチーズと涅槃像-阿藤智恵の新作『曼珠沙華』を観る-
間瀬幸江
劇作家の阿藤智恵が、会心の作を世に送り出した。Pカンパニー番外公演その弍「岸田國士的なるものをめぐって~三人の作家による新作短篇集」(2011年9月30日~10月5日)の三番目の演目となった『曼珠沙華』である。二人の男の対話で構成されるシンプルな30分の小品であるが、心地よい驚きに、観劇後はしばし席を立てなかった。
この9月は、ポツドールが『おしまいのとき』で、チェルフィッチュが『家電のように解り合えない』で、人と人とが「分かり合う」可能性をめぐる希望と絶望のテーマが扱われて話題になった。しかし、『曼珠沙華』は、この二本の話題作では解決されていなかったかあるいは解決できないことじたいがメッセージとして提示された問題を、あっさりと飛び越えてしまった。阿藤は、人と人との「分かり合い」に期待しないどころか、その可能性を想定さえしない。けして諦観でもニヒリズムでもペシミズムでもない、何かもっと別の思想体系に根ざしたそのことが、ひとつの「救い」として差し出されている。
開演すると、舞台中央に、長辺を縦に置かれたクイーンサイズのベッドを思わせる大きさの黒い直方体が置かれている。その黒い台座の上に、若い男(長谷川敦央)が一人、正面を向いて座っている。焦点がどこに合っているのか分からぬ不思議な眼差しに、穏やかな表情。そこに、少し年齢が上の男(林次樹)が登場、若い男に親しげに話しかけながら持ってきた弁当を勧める。チェダーチーズ入りのサンドイッチ、切り込みを入れて食べやすくしたりんご、じゃがいもがゴロゴロと入った具だくさんのクリームスープ、そしてコーヒー。折詰弁当よりもむしろピクニックのランチに近い「ハレ」の食事が、一枚の手ぬぐいを使っての見立てで表現される。彼は献立を丁寧に説明しつつ、落語家のように音を立てながら、実にうまそうに弁当を「食べて」いる。若い男は、年長の男に倣って食べる振りはしているし、終始穏やかな笑みを浮かべているのだが、どうも本当には「食べて」いないらしい。
若い男には記憶らしい記憶がない。夏の後に秋が来ることも、次の夏が一年後であることも、うろ覚えである。雪が白いということも知らない様子である。年長の男による風景描写の終わりの数語を発語することで、イメージ化はできるらしい。
「白いさ。眩しいくらいにね」
「眩しいくらいだな」
ただしそのイメージは彼の脳裏に可視化されたそばから消えてしまう。だから、アップルパイのレシピを説明されても全部は覚えられず、聞き返すはめになる。
「ああ、シナモンをね」
「ナツメグも悪くない」
「そうだな、ナツメグも悪くない」
「両方使うことにしようか」
「うん…何を?何を両方?」
「シナモンとナツメグ」
「ああ…そうしてくれ。シナモンとナツメグ」
かくして二人には、同じ記憶を共有するということがない。つまり、「分かり合う」ということがない。
若い男が唯一記憶しているのは、「いつもの角」を曲がったところに群生する曼珠沙華であり、そこから想起される死者たちの存在である。
台座の縁のところには、彼が摘んできたおびただしい数の曼珠沙華が飾られているのだという。今度は年長の男のほうが、咲き乱れているというその花がどこにあるのか分からないらしい。花もまた見立てで示されるので、もちろん観客にも「見えない」。「見えない」と答える年長の男に対し、若い男はなんら焦ることもなく、まるで「見える」との返事が帰ってきたかのように、曼珠沙華の開花と人の死との間の密接な関係について語る。咲く花が多いほどに、死んだ人の数は多く、したがって悲しんでいる人がその何倍もいるのだと。若い男は年長の男に訪ねる。「J、君は、悲しんでいるかい」と。Jと呼ばれた年長の男は、「いいや、悲しくはない」と答える。若い男は安堵して続ける。
一方から発せられる言葉が、シャボン玉のように宙を舞い相手に届いたとたんに消えていく、ただそれだけの、対話とも会話とも呼びがたいやりとりを終わる。弁当を「食べ」終えると、年長の男はそれを「片づけ」て「明日もまた来る」と言って立ち去る。再び一人残された若い男はゆっくりと身を横たえる。冒頭と全く変わらない、穏やかな表情である。
よく、第三者を思う想像力が必要だと言う人がいる。想像力をもって他者に向きあおうとした途端「私の痛みはあなたには分からない」と切り返されて傷つく人もいる。苦しんでいる人をさらに苦しめる社会構造を嘆き、「そこに苦しんでいる人がいることくらい、ちょっと想像力を働かせれば分かるだろうに」とため息をつく人もいる。こうした思考回路は、想像力という名の正義の仮面をかぶった暴力へと変換される危険を常にはらんでいる。その暴力に加担したくないと願うあまりに他者の悲しみを理解しようとさらにもがけば、それがさらなる暴力を誘発し、他者も自分ももっと苦しくなる。想像力のない己を責める、恥の連鎖である。
阿藤智恵は、二つの手法に訴えて、この悪循環をばさりと断ち切った。第一に、『曼珠沙華』の登場人物には、人格の基礎となり、感情の基礎ともなる記憶という情報の束がない。また、記憶は蓄積もされない。「いま、ここ」で交わされる情報だけが全てである。だから、記憶してもらえない苛立ちも、記憶できないという嘆きも、そこにはない。第二に、悲しみの共有が、二人称の関係性にのみ託されている。三人称の関係性で共有できる悲しみという幻想がそもそもない。「悲しいのが君じゃなくてよかった」「君だとすると……僕が悲しいからね」は、ともすれば、「悲しいのが自分の知らない人でよかった」に変換されがちである。これは、社会通念に照らせば、「非常識」「不謹慎」のレッテルを貼られる発言である。しかしそのレッテルは、想像力のなさを糾弾するロジックによって貼られる。阿藤は機能不全を起こしたこのロジックを廃し、そのかわりに「わたし」「あなた」の関係性において、相手を100%受け入れることを提案する。「分かり合う」のではなく、「受け入れる」。このとき、「あなた」は他者ではあっても、排除されるべき異物ではない。
「食べる」演技の破たんは、こうした関係性の、象徴的な言い換えであった。年長の男が、そこにありもしない食べ物をあると見做して「食べる」振りをすると、それが振りでしかなく嘘であるのだと暴露するような振りでこたえる若い男。演劇の約束事という、これもまた観客の想像力を前提として成立するマジックを廃することで浮かび上がってくるのは、「わたし」が一人称で信じるもののリアリティである。年長の男にとってはチェダーチーズのサンドイッチは必ず存在するのだし、若い男にとって咲き乱れる曼珠沙華は必ず存在する。この、「自分にとっては存在しないが、相手にとっては存在する」という現実そのものが、丸抱えで受け入れられている。
「わたし」が「あなた」に同化するのではない。二人称の関係性は、最後まで崩れない。最後の場面で微笑みながら大きな身体を横たえる若い男は、涅槃像を思わせた。曼珠沙華の咲き乱れる野原で微笑む釈迦のイメージである。そして、一回りか二回り小さな身体を機嫌よくゆすりながら食べ物を持ち込む年配の男は、山に分け入り霊魂に供物を届ける僧侶か野武士を思わせた。年長の男からの語りかけによってはじめて若い男が口を開くあたりは、霊魂が僧侶などの世捨て人との邂逅を経由して姿を現す、能の構造を思わせる。
ただし能との構造的類縁関係は、あくまで結果論であろう。厳格な様式美を持つ全く異なるこの演劇ジャンルを想起させるほどに、舞台を形作る一つ一つのパーツの組み合わされ方が見事だった、と考えるべきである。
阿藤は、立ち上げからPカンパニーに関わり、新作を発表してきた。Pカンパニーという集団を柔らかな求心力で取りまとめる代表の林と、アルカイック・スマイルと長身とに恵まれた長谷川(阿藤作品の常連役者である)の身体的リアリティが、二人の人物造型に透けてみえたことと、この30分間の心地よい緊張とは、表裏一体の関係にあるのだろう。また、冨士川正美の演出の見事さは、演出家としての作家性を、観客に悟らせないところにある。ベケットとジュネの名を知る人は多くても、その二人の作品を手がけた演出家ロジェ・ブランの名を知る人は少ない。けれども、ベケットもジュネも、ブランがいなければ今日の私たちの記憶にどのように残ったというのだろうか。劇作家、俳優、演出家の仕事が稀有な形で結び合い、『曼珠沙華』は生まれた。握った手のひらがふっと開かれたかのように現れた逸品であった。
さらに二つほど、いくらか批判的視座から書き添えておく。ただひとつの舞台装置である台座が、クイーンベッドを思わせることには先ほど触れた。しかし黒いその台座は、墓石を思わせもする。そこで出会うのは男二人であり、しかも二人は抱き合うことさえもしない。若い男の「食べこぼし」を年長の男が指で拭き取る仕草のエロチシズムは、『おしまいのとき』における男女の狂おしいまでの性愛や、『家電のように解り合えない』において汗をほとばしらせながら異なるダンスを披露し続ける男性ダンサーと女性の役者の並存のリアリティに比肩するような「みっともなさ」を、引き受けてはいない。体液の交換からしか次の世代が生まれることがない以上、ポツドールとチェルフィッチュには希望があり、阿藤作品には希望はない、と考えることも、当然ながら可能である。そしてもう一つ触れておきたいのは、「岸田國士的なるものをめぐって」で二作目に上演された『はっさく』(石原燃作)と『曼珠沙華』との相関関係である。放射能汚染という現実に直面する中、無脳児を妊娠し中絶した過去に苦しむ女とその夫が、ちぎれた夫婦の絆を取り戻そうともがき苦しむ物語の壮絶さと、『曼珠沙華』が提示する「救い」の世界観のコントラストが、『曼珠沙華』への観客の理解をより深奥なものにしたのは確かだろう。
『曼珠沙華』は、悼む作品であった。悼む行為は、他者の悲しみを受け入れはするが、さりとてそこから「子供」は生まれない。いずれ阿藤智恵が、男ではなく女たちの登場する作品を新たに世に問う日を、私は心待ちにしている。その作品はおそらく、この『曼珠沙華』と対をなすものとなるだろう。願わくは、そこでは、咲き乱れる曼珠沙華の花に見え隠れするおびただしい死者たちの声が、何らかの形で、「生/性」の肯定へと連絡していてほしい。
そんな欲張った希望まで観客に抱かせる、至福の30分だった。是非再演を希望したい。
【筆者略歴】
間瀬幸江(ませ・ゆきえ)
2010年4月から、早稲田大学文学部助教。専門は、フランス両大戦間演出史。ジャン・ジロドゥ研究に軸足を定めつつ、藤田嗣治、寺山修司、ポール・モラン、モリエールを視野に収めて研究を継続中。著作に、『小説から演劇へ ジャン・ジロドゥ 話法の変遷』(早稲田大学出版部、2010年)、「フジタとジロドゥ―知られざる《邂逅》をめぐって」『比較文学年誌』47号(2010年)などがある。
【上演記録】
Pカンパニー「曼珠沙華」
作:阿藤智恵
演出:冨士川正美
出演:林 次樹 / 長谷川敦央
西池袋・スタジオP[ Pカンパニー稽古場](2011年9月30日-10月5日)
(番外公演[その弐]『岸田國士的なるものをめぐって~3人の作家による新作短編集~』から)
ほかに次の2作が上演された。
「果樹園に降る雨」
作:竹本 穣
演出:木島恭
出演:一川靖司/磯貝 誠/横幕和美
「はっさく」
作:石原 燃
演出:小笠原 響
出演:内田龍磨/木村万里
●スタッフ
照明: 石島奈津子
音響:木内 拓
音楽 : 日高哲英
美術協力:松岡 泉
舞台監督:大島健司
企画・制作:Pカンパニー
■料金:前売り・当日共3,500円/学生 2,500円/トリオ割[3名様] 9,500円
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