維新派「風景画-東京・池袋」

◎最も東京らしい呪われた風景画を描く
 岡野宏文

「風景画-東京・池袋」公演チラシ
「風景画-東京・池袋」公演チラシ

 「風景は涙にゆすれ」とは、言わずと知れた宮沢賢治の魅力的な詩のワンフレーズであるけれど、涙にゆすれるような飛び切りの風景の発見こそ、いま私たちが力を注がねばならぬ肝要な営みの一つなのではあるまいか。

 「見た目に美しい自然の景観」というのが「風景」というもののとりあえずの謂であると思われる。だが私たちが日々呼吸するぬくもりをまとった時間の中で、風景とは決して霧にかすんだ摩周湖や逆光の空に赤くはめ込まれた富士の肢体なんて洒落臭いしろものばかりではありえない。銭湯の番台に小銭を置く指先から匂う口紅の甘やかな横顔や、夜の裳裾がともしていくざわめく街角の千の眼も、誰恥じることのない風景の風上である。

 風景はなまめかしいページをしまっている。

 明治の大ベストセラーに志賀重昂の『日本風景論』という本がある。日本の風土を子細に点描しながらそこに日本論を織り込んでしまったアクロバティックな著作だが、風景を絵にする行いの本質には、描くものの視線を構造化する宿命が宿っているにほかならないだろう。吐き出さずに描くことはできない。

 もちろん写実主義はある。けれど現実の風景を写真で写し取ったかのようにその光も形も色合いも寸分違わす再現するとき、それをそのようにキャンバスに載せてみせた画家の「視線」はどこにも逃れようがない。「見た」ことは消せないのである。それに第一「遠近法」とはそもそも絵画の嘘ではないか。フレームの対角線にひもを張ったツールで覗きながら、景色を遠近法にコンバートして筆を進める。そんなシーンをピーター・グリーナウェイ監督の映画「英国庭園式殺人事件」でみたことがある。遠くのものがなぜ小さく見えるのか、その謎を解明したものはまだいない。

 維新派の公演「風景画」は、野外を上演の場としながら、その野外の背景である風景をそのまま演劇の風景に描画してしまおう、おそらくそういう試みであったと思う。

 もともと野外劇場というのは、そこを包み込む茫洋とした空間すべてを作品の背景として借景してしまう大胆な装置だが(わたしは空の効用が最も大きいと勝手に理解している)、その空間が持つ息吹自体を作品化してしまおうともくろんだのである。当然、「どこで上演するか」が作品の内容と決して切り離せない、どころか作品の中身をすっかり違ったものにしてしまうことは誰にだって分かる事態だ。

「風景画」公演の写真
【写真は、「風景画-東京・池袋」公演から。 撮影=©Yoshikazu Inoue
提供=フェスティバルトーキョー 禁無断転載】

 「風景画」は2箇所で上演された。違ういい方をすれば、二つの「風景画」が上演された。最初は9月23~25日に岡山県の犬島で。次が10月7~16日に東京・池袋で。

 漏れ聞くところによれば、海を背負う形での干潟を借りた犬島での上演の折は、まず先立って祝詞のごときものが唱えられ観客を含めた一同の体に犬島の地平線がなじんでからパフォーマンスがほどかれたらしい。かえす池袋での冒頭ときたら、黒短パンに白シャツの少年が、なにやら短刀とも思われるものを構えてもうひとりの少年に体ごとぶつかり脇腹あたりを刺し貫くそぶりを執拗に繰り返すという殺伐としたプレリュードなのであった。

 犬島は、神おわす土地なのだ。

 その神に向かって営為は捧げられる。身体(声も含めた)が由来も神さびた土や水に寄り添うようにしてやがて神そのものに同化する喫水線を辿る、そうした上演だったのではないかと、むなしくわたしは空想するのだ。

 池袋におわすのは携帯電話だけである。そこは殺意の街だ、と松本はいわぬばかり。人体が空間をビッチリとうずめて爪の入る隙間もない。だが、なぜこの場(フィールド)を風景画に仕立てようとわざわざ選んだのか、そのあまのじゃくな気持ちがちょいと気にかかりはしないか。

 東京にもかろうじて神の息つぐ界隈がないわけではない。たとえば浅草、たとえば東雲あたりの臨海なら、侘びしさや空っぽやさざめきの残り香をもぐり抜けて、「あっち」へ入り込むだけの風景が充分にあると思う。にもかかわらずあえて池袋を選んだのは、そんな一握りの忘れられた東京にかまけるのでなく、いっそ最も東京らしい場所で最も東京らしい呪われた風景画を描きあげてやろうと企てたからではないか。松本雄吉は、東京を嫌いなのだと思う。嫌いであることに正直に立つとすれば、池袋は自然な射程だ。

 刺殺のイメージから始まったパフォーマンスは、ノイズの中にさらにノイズが紛れ込むような違和感に満ちた音の洪水に包まれて進行した。なによりも印象深かったのは、繰り出されてくる身体の動きと声の波に、こちらがやすやすと憑依されないように、陶然とした夢になまなかに安らえないように、周到に作品はしつらえられていた、と感じたことだ。

 犬島の渚にこと寄せて作られたせいもあるのだろう、「トー、ト、トーヤ」なる船をこぐ合いの手ともいわれるかけ声の他、川の名前、航路を保つための星の名前、ノアの方舟にちなんだ言葉たちが随所に並べられ、そのリズムと、茫漠とした水上を漂流するファンタジーに観客が同調しそうになるや、突如として池袋駅のホームの騒音がスピーカーからほとばしり、ふうっと夢を醒ましていった。東京に住む私たちに潜り込むべき心地よく秘密めいた場所などない、とでもいうように。

 最後には、全員が横一列に並び濁流が流れると歌うのだが、その水は泥の水、糞の水であり、あまつさえ一同いっせいに向こう側を向き便器に向かってだが小便をするそぶりというおまけがつく。西暦を数えながら2011年を超え未来への年号はまたもや巨大なノイズに巻き込まれて消えていったのも、東京のあしたへの想いをあらわしていたごとく見えもした。

 さほど変わらぬといわれるかも知れないが、横浜に暮らしていてほんとうによかったとあらためて確認しながら客席の階段を下りた。




【筆者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
  1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』(ともに豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
維新派風景画-東京・池袋
構成・演出:松本雄吉
西武百貨店池袋本店4階まつりの広場(2011年10月7日-16日)
上演時間 :85~90分(休憩なし)
(出演者、スタッフの記載は、FTサイト、維新派サイトともになし)
料金:自由席 一般 前売 5,000円(当日 +500円)、学生 3,000円、高校生以下 1,000円(前売・当日共通)

▽特別トークイベント
維新派『風景画-東京・池袋』をめぐって-「都市と風景」を語る
日時:10/9(日)19:00-20:30
出演:松本雄吉×ゲスト・写真家 佐藤信太郎
会場:池袋コミュニティ・カレッジ(公演会場隣り)
主催・お問い合わせ:池袋コミュニティ・カレッジ

▽『風景画-岡山・犬島』 公演
 会場:犬島・中の谷入江(岡山市東区犬島/犬島港から徒歩3分)
 日程:2011年 9月 23日(金・祝)、24日(土)、25日(日)
 料金:一般3,000円 高校生以下1,000円

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