ユニットえりすぐり「乙女の祈り」

◎乙女のあいのり
 岡野宏文

「乙女の祈り」公演チラシ
「乙女の祈り」公演チラシ(表)

 乙女の祈りとはなんだろう。いや、それではいい方が違う。正確に言えば、祈っている乙女とはいったい誰だろうとどなたかにたずねたいのだ。
 乙女なるものの祈りときた日には、憧れと絶望が猛烈に混濁して、クラインの壷のように胸中をでんぐり返っているのではあるまいかとわたしには思える。

 あの手放しにロマンチックなピアノ曲「乙女の祈り」を作曲したのが、18歳の女性だというのを聞いた時は、よくできた嘘でやがると思った。ほんとはガサガサに肌の荒れた中年のお父さんが、サケ弁かっ込みながら一晩ででっち上げたに違いないのに。だってその証拠に、あの音符のはしばしには荒らかな鼻息の気配が漂っているでしょう。

 わたしが「乙女の祈り」にまとわって思い浮かべるのは、泉鏡花の戯曲「夜叉が池」に登場する百合という手弱女の面影なのである。日照りと夜叉が池の祟りとの板挟みになり、村人たちの威容を胸苦しく呑み込んだ形で彼女が自害の刃をひらめかせたせつな、水はさっと乱れて洪水となって里を襲うのだが、この氾濫は実は彼女の心の中の逆波でもある。

 いとしい男を山深い四阿に足止めし、ばかりかほとんどどこかほの暗いなま暖かな場所へ引きずり込んだまま、いつまでもただの鐘撞きにすぎぬデクノボーとして飼っておきたいと望んでいるくせに、しかし同時に誰よりも凛々しくめざましい男であってほしい願いがしとどに狂い、八千の村人を殺すばかりの「乙女の祈り」になってあらわれた、そうやって「乙女の祈り」の組成をあばいた、あれはそういう戯曲だろう。

 などと縷々ほざいておきながら、無責任にも、渡辺えりがおんなじような想いでこのタイトルを選んだかどうだか分からないので、いささか恐縮しながら、だけどコーイング・マイ・ウェイで、そろりと話を進めさせてもらいます。

 映画ではたびたびお目にかかるものの、演劇ではなかなかめずらしい、オムニバスというスタイルでこの公演はできあがっていた。「乙女の祈り」渡辺えりひとり芝居だ。劇作家が四人、それぞれ短編を書き下ろし、渡辺が構成・演出・主演を手がけた1時間半である。その四人がみんな女性でありますから、そりゃ確かに「乙女の祈り」だなとそうも納得しつつ、「乙女の相乗り」っていったらきっと叱られるだろうな、言いかえよう「乙女の愛の理」を描いた一幕だって。付け加えるなら、四人の戯曲のインテルメッツォをフランスの劇作家ジャン・ジロドゥの名作「オンディーヌ」からのフラグメントで繋いでゆくのを、光文社の古典新訳文庫版で語るのだが、その翻訳者・二木麻里もやっぱり女性で、念が入ったという次第。もういっそ、ジロドゥに性転換させたい気分になる。

 実は本作、2010年の11月にひとまず初演されていた。ただ諸般の事情から満たされた形態の上演とならなかったため、仕切り直しての再演の運びなのである。なお、初演時の演出は唐組の久保井研であったのを付け加えよう。

 さて舞台は、半円の演技スペースをかこんで、人の生活の名残を感じさせるさまざまな家具たちが、ひそかなさざめき声でも聞こえてきそうに優しく肩を接して並んでいる。薄青い照明がさらに静けさを投げかけ、時間は親しげな顔つきで空気をすり抜けていった。

 中央に置かれた、おそらく水から伸び上がっている巌と思しき扉をすり抜けてオンディーヌに扮した渡辺が現れると、三度名を呼ばれれば記憶をなくし愛する人のことも永遠に忘れると、悲しい運命をうったえて、場面はシームレスに第一話にすべり込んだ。これ以降エピソードの転換のたびに、彼女は大車輪の早替えを見せてくれることになる。

 第一話「日曜日の花ハナ」の作者は、サリngROCK。このけたたましくけったいな名前の持ち主は大阪在住の劇作家で、たぶん一種のパンクといっていいのだろうが、しかし攻撃的な悪意のないパンク、切ないパンク、いつでも道に悩んで迷い、棘はおのが内側に向いて生えている、そうして社会の規範や良識から逸脱したもののみじめさと幸福感みたいなことをおそらく考えていらっしゃる。しかしそれを構築する手つきが、巧みながら名前同様いっかな正体不明なため、暗闇から石が飛んできたごとき驚きを喰らわされ、アタフタと魅了されてしまう注目株ね。

 花江という女性が主人公だ。路上アーティストかどうかも分からぬ、ボロボロのただの布のような服をまとい、顔を描いては石ころを道ばたに並べ、売っている、のかどうか。彼女は過去を回想し、学校の先生をしていた時のこと、もっとほかに何かあるんじゃないかと悩み未開のジャングルの村で長になって獣を獲った時のこと、もうここまでくるとなにがほんとでなにが花江の妄想だか区別はつかないのであるが、なに不自由ない母親だったある日、突然家中を小石で埋め尽くしていったとも語り、どうやらそのせいで家庭が壊れたらしいと観るものに思い当たらせる。そのとき、遠くから子供が走ってきた様子。

「あれは……」

と花江は手元の石に描かれた顔と目の前の子供の顔を見比べねばならない。我が子の顔がすでに分からなくなっているのだ。それでも彼女は、

「……うん、わたしはね、今、楽しいよ。……ドキドキしたりね、するよ。やっと、…たどり着いたなって感じ、してるよ」

と話すのである。この時の花江は実に不気味に可愛い。お分かりいただけると思うが、この作家の凄いのは、たとえば花江が世の中の価値観をすべてうっちゃり投げて手に入れた彼女だけの個的な幻想の、その至福をちゃんとわたしたちに伝えつつ、同時に外界から見た彼女のどうしようもないダメさ加減も見事に造形してしまうところにあるのだ。二つの完璧に食い違った風景を、前を向いたまま自分の背中を幻視するみたいに、ピタリと見せつけてしまう独自な作家性。面白い人である。

 第二話「はるか」の作者石原燃は劇作家だけでできているユニークな劇団「劇団劇作家」に所属する人。現在は大阪在住だという。

 これもやはりひとりの女の幻想の物語、というか、もはやおぞましい妄想といっていいうなりを、緻密に練り上げるミステリー。なんか足の裾から言葉が這い上がってきてはらっても首筋をヒヤリと舐めそう。

 このパートでの渡辺の相手役は、昔懐かしいあの大ぶりのブリキの薬缶だ。

 舞台上に薬缶を見つけた女は、走り寄って親しげに話しかけ、「どこ行ってたのよ」などといいつつ汗を拭いてやったりする。女には、薬缶が我が子、春香に見えているのだ。そこへ人がおとない、刑事が、町内会長さんが、恋人が、別れた父親が、次々とあらわれるうちに、春香が川で溺れて死んだこと、その死に不審な点があり警察が動いたらしいこと、また女の記憶はかなり錯乱しておりある時は春香の行方不明の発見をうったえたり、またある時は殺されたのだと言い張ったりもする。やがて女の目に、薬缶が春香の友だちの貴志くんに見え始めたあたりから、ドラマのスリルはグインと音を立て、決定的な出来事を思い出してしまう女の姿になだれ込んでいく。

 薬缶を我が子に妄想する筋立てはさほどでもないが、ほんとうのことなのか、彼女の頭の中だけで起こっていることなのか、判別しがたい曖昧さがこの作品では特に美しかった。ひとりでダアダア喋っているだけのだと考えたら、その切なさは胸に迫った。ただし渡辺の演出では、人の出入りになにやら重い鉄扉でも閉まる音が響き、拘置所にいるか、ひょっとすると精神の病院に収容されているか、というしつらえになっていたと思う。それはそれで、実に孤独な話ではある。

 第三話「両の手に」を書いたのは芳﨑洋子。彼女も大阪で活躍するベテラン劇作家で、現実と幻想の往来というか、むしろ幻想の現実への侵犯といったほうがいいような事態を、どっちかといえば見巧者好みのスタイルで、素敵なせりふ使いによって肉感的に空間化させてしまう見事な書き手といえるだろう。

 女がひとり地面を見つめて立っている。彼女はそこに横たわる死体を五年も会っていない「私の子供だよ」と平然と認めたところだ。手のつけられない子だったにせよ、確かに自分は薄情に違いなく、でももう本当に遠いところへいってしまった、と彼女は笑う。次に「誰が笑ってるんだよ」というせりふが口から出た時、渡辺はもう別の人物を演じている。幼い時に子と別れたこの女は、世界のことをなにも知らぬうちに死んでいったあわれを嘆きながら、ときどきその子のことを忘れていることがある自分をたまらないと嘆く。と「たまらないたまらないたまらない」とせりふの出た時にはまた別の女である。こうやって生まれもせず子を流してしまった女。まるで妊娠すらできなかった女。そしてふたたび冒頭の女と、この作品は四人の女を演じつなげいく仕掛けになっている。

 なによりも、人物が切り替わる時に、せりふがゆるやかに繋がっているなんて、これはむずかしい。観ているほうにもむずかしいけれど、やってるほうはもっとむずかしかったろう。だけどもむずかしい分だけ面白さも増量のとこが芳﨑の骨頂であります。ラストにいたって親-自分-子の三代に通じ合う命の響き合いといった視点に物語を昇華させることで、哀切ではあった子を亡くした母の慟哭の連続に、救いに似た足場をかけた技こそ、なかなかのくせ者でありました。

 第四話「街角歌子」の作者は樋口ミユだ。やっぱり大阪出身の劇作家。「ugly duckling」という劇団を運んでいたが2010年に解散、今は次なる活動の場を固めるべく暗躍中である。なにがなんだか分からないけれど豪快なほど面白いってタイプの劇作家が世の中にはいて、むかし野田秀樹とか、唐十郎はもちろん、懐に偲ばせてアタマなでときたい気持ちに失礼ながらさせられるのだけれど、樋口もその風を吸い込む頼もしき、悩ましき作家だ。劇作家ならいやしくとも思いあまった妄想の一太刀くらいふるってほしいもので、彼女はそれがまた丁寧だけど乱暴に切れ味も鋭くさっと一閃二閃、なかなかね、手ごたえがたっぷりと劇場からの帰り道が楽しい手合いという具合で。

 どれほどの未来かパスポートなどなくなって、そのかわり歌を歌って我が身を証明し、たとえば移民宇宙船に乗って他の惑星へ旅立つそんな世界。かつて一世を風靡した歌い手・歌子が、しかし歌っても歌っても「私」をあらわす歌が歌えず、アイデンティファイする機械は彼女にOKを出さないのだ、彼女と接触のあった幾人かの人々の口からは、彼女に関するバラバラの印象が語られ、往時のマネージャーなどは「あたしが知ってる歌子は、あたしが作り上げた歌子だからね。歌子そのものなんて知るわけないじゃない」とまで口走る。

 ついに「私」というものを持てなかった人間の悲しさは、書かれたのが震災の前だったにもかかわらず、故郷をなくして自我にさまよう宛てなしの魂の姿を垣間見せるようで、震災後の今も強い引力を放って立っていた。と油断していたわたしは、じゃあおまえには「私」があるのかと、背中から意地悪く自問自答する声に襲われて、はっと心がとがった。もちろんわたしには「私」なんて上等なものの持ち合わせはなく、おまけにさっぱり歌も歌えないときては、流民どころの騒ぎではない。同じ客席に居合わせた人々が、わたしのご同輩でないことをしっかり祈ったね。

 とはいえ作中には、気持ちのよいロマンチシズムも流れて、観劇に毒は感じられなかったのだが。

第五話「Blue Moon」も樋口の作品。女子高生の夢子がある朝目覚めると、セーラー服を着たおばさんに変身しているという、SFタッチというか、スケッチ風味のカフカというか、ワンアイデアで突っ走る小気味のいい一篇だ。

 小気味のいいのは高校生の使う独特な言葉が縦横にせりふにはめ込まれているのも、渡辺が喋るというミスマッチもあり、そこはかとなく愉快で、楽しかった。

 自分がなぜ変身したのか悩みながら、自分はほんとうに自分なのかと疑いはじめ、外の世界は変化してないのかと怖くなり、そろそろと窓のカーテンを開けた夢子。そこには夢子の今の状況を演じようとしている稽古場の自分が見える。それは自分の人生の先を勝手に決めようとしている運命だ。夢子は決定された未来を振り切って、「まだ書かれていない空白の向こう側へ」歩き出す。

 渡辺はこれを舞台化するにあたって、たぶん劇団員の中からだと思うが、後ろ姿そっくりさんを三人選び(実はひとりだけはほぼ似ていなかったけど)、あたかも合わせ鏡の中に無限に続く自分の背中を見てしまうというような演出に処理していた。

 しかし、真っ白な自分の未来を歩いて行くというのは、どんなにか恐ろしかろうなあ。カメラだのオーディオだの、考えて見りゃ本もそうなんだけど、私にはどこかものを集めるというくせがあって、ついつい使うより集めることに夢中になってしまうかたむきを見る限り、たぶん野放図な「時間」にたえられず、その「物たち」にすがろうとしてるんですね。まことにだらしない。そんなわたしにとって、この作品が送ってよこしたメッセージは、強い刺激に満ちていた。

 言い落としたが、今回参加した劇作家四人全員が大阪をゆかりの土地とするものだ。東京にいるとなかなか大阪の演劇情報は届いてこぬが、端倪すべからざる実力を備えた才能が彼の地にはたたえられており、ひょっとすると東京より面白いかも知れぬと思ってしまうことすらあるのであって、「乙女の祈り」のような彼女ら彼らの作品紹介のチャンスがもっと増えれば喜ばしく、いうまでもなくご本人たちの来京公演が実現すればさらに最高、その日を待つのがわたしの祈り、だ。




【著者略歴】
 岡野宏文(おかの・ひろふみ)
 1955年、横浜市生まれ。早稲田大学文学部仏文科卒。白水社の演劇雑誌「新劇」編集長を経てフリーのライター&エディター。「ダ・ヴィンチ」「サファリ」「e2スカパーガイド」などの雑誌に書評・劇評を連載中。主な著書に『百年の誤読』『百年の誤読 海外文学編』(ともに豊崎由美と共著)『ストレッチ・発声・劇評篇 (高校生のための実践演劇講座)』(扇田昭彦らと共著)『高校生のための上演作品ガイド』など。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/okano-hirofumi/

【上演記録】
ユニットえりすぐり vol.3 「乙女の祈り」 日本劇作家協会プログラム
座・高円寺2(2011年12月21日-25日)

構成、演出、出演:渡辺えり
音楽:coba
作:サリngROCK、石原燃、芳﨑洋子、樋口ミユ
舞台美術:加藤ちか
照明:宮野和夫
音響:藤田赤目
衣裳:田中洋介
舞台監督:金安凌平
全席指定4500円(税込)

企画・製作:有限会社おふぃす3○○
後援:杉並区
提携:座・高円寺/NPO法人劇場創造ネットワーク

▽兵庫公演 兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール(2011年12月30日)
 料金 全席指定 4,000円
■主催 兵庫県、兵庫県立芸術文化センター
■企画・製作 (有)おふぃす3○○

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