◎「マッチ売りの少女/象-別役実戯曲集」(三一書房、絶版)
松田正隆
戯曲というものを知ったのはこの本があったからだろうし、今でも、私にとってきわめて重要な戯曲である。「マッチ売りの少女」の場合、舞台に老夫婦が現れて、そのあと、姉弟が入ってきたときに、内にいる人と外から来る人の違いが出るのだということが、ものすごいことに思えてならなかった。ひとまず、そのことがこの戯曲の最大の奇妙さである、と思った。舞台で戯曲を上演するということはこれほどまでの虚構を成立させることができる。そこにそれまで住んでいた人とそこにやって来る人の「差」がたちどころに出現し、なにかがなに食わぬ顔で始まるのである。そのことになによりも驚いたのだった。「家の中の人」も「外からの人」も同じように「舞台のそで」から現れているにもかかわらず、である。
つまり、いつかなされるであろう俳優のせりふによる演技がその「内」「外」の差異を際立たせることになる。この戯曲作品の文学的な解釈よりも、ただそこに、おそらくは上演によって決定的な差異が生まれていることが不思議でならなかったし、それこそが私がその後、演劇に魅かれてゆく理由だった。
ある役柄がリアルさをもって立ちあらわれるというより、この人はその人よりも内側もしくは外側の位置に「ある」という設定の確信がえられるということのほうがものすごいことだと思うのだ。なぜなら、そもそも舞台の上にはなにもないのだし、そのなにもないところから、まるで取り返しがつかないことであるかのように設定がうかんで来るというのはなにか奇跡的なことのように思える。そのような「事の起こり様」を経験する戯曲にはなかなか出会えない。
では、どのような「事の起こり」があったのか。私たちには決して知りようのない外部のことが表象されたのである。現前する人間によって外部のことが代理され再現されたのである。
女 ・・・・・・。(うなずく)
妻 (思いついて)コナ・・・・・・ユキ?
女 え・・・・・・。(うなずく)
しゅんとする。
外のことについて男も妻も何も知りえず、それゆえ彼らは外のことを訊ねるしかなかったのだが、その問いに対してついさっきまで外にいたであろう女がかろうじて外のことについてうなずいている。そして、その了解が、つまり「外は雪であり、コナユキであること」が内にもたらされたとき、一同はしゅんとしなければならなかった。もちろん、これは、嘘をついた(女が降ってもいない雪のことを虚構として成り立たせ、一同がそれを承認した)ということへのうしろめたさにとどまらないだろう。今はひとまずどうあれ、かつて雪は、降ったのである。それゆえ、雪にまつわるおそろしい出来事は確かにあったのだ。
出来事はあった。それ(外)は現在(内)と断絶している。今を生きる私たちは、それを想起することでしか外部との関わりようの術がない、というのが演劇の、そして戯曲の条件である。
尾形亀之助という詩人と出会ったのも、この戯曲集を読んだからである。あとがきにその詩人についての論評がある。
尾形亀之助の詩には、この世の中で私がこの私(私の精神と身体)を生きてしまっていることに気付く時間というのがあるが、そんなことばかりが書かれている。たとえば、知人と世間話をして、帰る途中で私のいるこの光景のもたらす感触がたった一人、私だけのものであると思うときにそんなことになる。それでも、この世界は自分の知らないところで勝手に動き、他人から自分が誰それと言われたり自分も世の中に対してああだこうだ言ったりすることが不思議でならないのだ。
「昼の街は大きすぎる」という題の詩がある。最後に引用したい。
電車位の大きさがなければ醜いのであった
この人は、みもふたもないことを書くのだな、と思うが、そう言われてみればいつか私もそうだったことがあると確かに思うのだった。
【筆者略歴】
松田正隆 (まつだ・まさたか)
劇作家、演出家、マレビトの会代表。1962年、長崎県に生まれる。1990年〜1997年まで劇団「時空劇場」代表を務め、劇作・演出を手がける。 1994年『坂の上の家』で第一回OMS戯曲賞大賞受賞。1996年『海と日傘』で岸田國士戯曲賞受賞。1997年『月の岬』で読売演劇大賞作品賞受賞。 1998年『夏の砂の上』で読売文学賞受賞。2000年には京都府文化奨励賞を受賞。劇団解散後、フリーの劇作家として、青年団、文学座、演劇集団円などに作品を書き下ろしている。舞台戯曲の他、黒木和雄監督作品『美しい夏キリシマ』にて映画脚本を手がけ、『紙屋悦子の青春』は原作として映画化されている。2003年8月より「マレビトの会」を結成し、劇作及び演出活動を開始。マレビトの会の主な作品に『島式振動器官』『クリプトグラフ』『声紋都市―父への手紙』『PARK CITY』『都市日記 maizuru』などがある。現在、京都造形芸術大学 舞台芸術学科客員教授
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