サンプル「自慢の息子」

◎移動する主体が<まなざし>の変容を照らす
 西川泰功

「自慢の息子」 公演チラシ
「自慢の息子」 公演チラシ


 なぜ人は自慢するのでしょう。対象に愛情があり、そこに誇りを感じる属性を発見したとき、自慢したくなるとしましょう。自慢したい気持ちを心にとどめて、人に伝えないという選択肢だってあるのですが、そうせずに、人に言葉で自慢する。このとき何が起こっていると言えるでしょうか。自慢をすれば自慢の対象が他人のまなざしに晒されることになるでしょう。それは自慢が真に自慢に値するかを判定されることにもなるはずです。誰に対しても一笑にふされない自慢であるならば、なるほど自慢するだけの何かであり、それは思いきって自慢に値すると言ってもいいかもしれません。

 劇団サンプルの『自慢の息子』の冒頭で、ある母がある男に息子の自慢をします。正という名前のその息子は、自分の国をつくったらしいのです。母は息子を誇らしく思っている。男は話半分で聞いているようにみえますが、話を否定するわけでもありません。この二人の関係に、劇の構築原理の萌芽が凝縮されていると思います。この男は、自慢を判定するだけの視線を、正の母に注ぎはしないのです。戯曲に忠実に書くならば、男は「フォーク代わりにナイフを使って」、果物を食べています。ですから目線と意識をおのずと果物へ向け、母の自慢話に「あ、そう」と返すくらいしかしません。自慢の妥当性は棚に上げられ、判定が先送りにされます。それどころか、男は正の母を正の国へ導くガイドになります。判定者であるはずの男が、自慢の虚構性へ誘う役を担わされている。この劇が現実の妥当性を踏み越え、観客を虚構性へ導くものだということが理解されるかに思えます。

 しかし、観客はさらに混乱させられるでしょう。なぜなら安心できる虚構性へ踏み込むことも許されないからです。舞台に大きく、しかも局所的に投射されるハワイの絵葉書を前に、観客はできすぎた虚構性へも懐疑の視線を注がざるをえません。現実性への通路を閉ざしておきながら、虚構性への回路を整えることもなされていない。正確に言えば、虚構性への通路も巧妙に回避されているという印象です。なるほど演劇をよくご存知の観客にとっては、現実性の基盤とされてきたリアリズムと虚構性の陶酔へ導くとされてきたスペクタクルが、ともに疑われている事態に気づくでしょう。明言されることはありませんが、正の国はニートの男性が自宅をそう呼んでいるにすぎないらしい。しかも母の方はどうやら痴呆老人で、正の国へ訪問するというよりは、帰られなくなった自宅へ帰宅するらしい。観客は、これらいっさいの現実の妥当性を開示されることはなく、あくまで母と息子の妄想を通して劇世界へ誘われるのです。といって、すでに書いたように虚構性は肯定されていないのですから、確固とした妄想として妄想があるわけではない。事態はつねに、現実と妄想の間で宙づりにされたままなのです。


 もう少し具体的に解剖してみましょう。俳優の演技は平田オリザ氏と青年団の系譜である現代口語演劇によるものです。この演技法は、明治以降、近代劇運動の流れで翻訳劇を行うなかから成立したリアリズムの演技スタイル、言い換えれば「新劇」と呼ばれてきた演劇のスタイルを、現代口語というレンズを通して修正した現代の近代劇リアリズムと考えられるでしょう。近代劇が特徴的に持っていた自然主義に基づくリアリズムが踏まえられていると思います。平田氏の現代口語演劇がその線で徹底されているのは、アリストテレスの三一致の法則(時、場所、筋の統一)が厳守されているからです(その意味で、平田氏の現代口語演劇は古典主義でもあります)。これによって科学的で実証的な立場をとる自然主義リアリズムの基盤をつくることに成功しています。むろん現代口語演劇における三一致の法則はすでにチェルフィッチュによって放棄されており、現代口語マジックリアリズムが誕生しています(ⅰ)。また以前、ぼくが批判した柴幸男氏およびままごとの試みは、現代口語演劇でありかつ音楽劇であるという点において、チェルフィッチュとは別の仕方でオリザ式の近代劇を乗り越えている現代口語ミュージカルと考えることもできるでしょう(ⅱ)。

 松井周氏の『自慢の息子』は、現代口語で書かれています。しかし、自然主義に基づくリアリズムでもマジックリアリズムでもミュージカルでもありません。あえて言えば、象徴劇のようにみえなくはないのですが、そう言い切ることにも躊躇いを覚えます。象徴という強い同化や顕現もやはり拒んでいるように感じるからです。

 整理しましょう。俳優の身体はリアリズムです。台詞は現代口語です。しかし戯曲の構築原理がはっきりしない。ですから、独自のやり方で、この劇について考察しなくてはなりません。

 先述したように、事態が現実と虚構の間で宙づりになっているという印象を持ちます。これは戯曲の構築原理が、現実層と寓話層の間を揺れているからだと考えることができます。寓話層では、母が息子のつくった国へ移住するという枠組みがあります。現実層では、気がふれた母がニートの息子の待つ自宅へ帰宅する話と受け取ることができます。現実層は基本的に隠されていますが、例えば、以下のような台詞から読み取ることができます。母が正の国に到着し、息子である正と交わす最初の会話です。

正の母 正! 正!
正 え?
正の母 (サングラスを外して)やっと着いたよ。
正 どこ行ってたんだよ。

 息子が長らく会っていない母親に「どこ行ってたんだよ」とは言わないでしょう。こういった現実性の欠片が付着している台詞から、劇世界の現実層を想像する他ありません。寓話層での矛盾が現実層として開示するわけです。常識的に考えれば、こういう箇所は戯曲の穴であり、完成度を下げるものです。寓話として世界を構築すれば、その方が「よくつくり込まれた作品」として容易に理解されるでしょう。ですが、すでに述べたように虚構性の安住も回避されているからには、裂け目から現実性もみえなくてはならない。この穴はそういう仕掛けだと考えられるでしょうし、そう考えなければ、本作の豊かさはすぐに失われてしまうでしょう。


 寓話層の裂け目から現実層が少しだけみえる。これによって寓話層に傷をつけると同時に、現実層の存在をかすかに知らせています。では、寓話層と現実層の間にとどまりつづけることに一体どんな意味があるのでしょうか。

 ぼくが寓話層と言うのは、本作が国というもののあり方を探っていると読み取ろうとするからです。正の国が変容を迫られるのは、母が男と結婚し家を去ろうとするときでした。正は母に精神的に依存しています。もし正がひきこもりであるならば、経済的にも母に依存していることになるでしょう。母の結婚相手である男は流通の象徴として登場し、正の国へ人や物を届けますし、行商人のように商品を売りつけようとし、自らを「パイプ」と名乗ります。母が男と家を去るということは、正から流通を奪うことになる。国家が資本と結託しているならば、流通を奪われた国は存続できません。もしも自給自足が可能であるなら正の国が崩壊の危機に晒されることはなかったでしょうが、自給自足ができる国ではないのでしょう。ならば別の資源を探さなくてはなりません。

 正は母が去るのと同じ頃、浅沼咲子という女性と結婚をします。咲子は元々、正が何かの企業のカスタマーサービスで電話ごしに知り合った女性であり、仕事を辞め、正の国へ移住しています。正は当初から咲子を王妃に迎えたいと企んでいましたが、ある時、「希望の丘」と呼ばれるぬいぐるみが大量に置かれた祭壇の前で、レイプに失敗し、以降、咲子に嫌われていました。一度は「うるさい! 出てけ」と咲子に国外追放を命じましたが、咲子の方から結婚を申し出ることになります。それは咲子と正の国へ一緒に来た兄が、咲子のもとを去ってしまったからです。この兄妹は近親相姦の関係にあり、強い精神的な結びつきがありました。他に行く場所もないと考えた咲子は、正との結婚がどれだけ辛いものでも、耐えて生きていくしかないと決意します。正がよそ者である咲子と結婚したことで、国の形体は決定的な変容をしたと考えることができます。これを明らかにするためには、咲子の兄について検討しなくてはなりません。

 咲子の兄は、赤の他人が襲ってくるのではないかという恐怖に駆られており、対抗するためにナイフを常備しています。そのため他人を傷つけてしまうのではと不安を抱いている。これを克服するには、隣の女の養子に志願しなくてはなりませんでした。それは同時に隣の女の息子の、陽(すでに死んでいるらしい)という名前をつけられることでもありました。この劇の登場人物は6人ですが、現実的な固有名は3つしか出てきません。正、浅沼咲子、そして陽です。正と咲子は結婚し、新しい国をつくる基盤として重要です。ではなぜ陽が重要なのか。それは、浅沼咲子の兄が偽物の陽として生きることを選ぶからに他なりません。おもしろいことに、本作で最もポジティブな存在はこの偽物の陽なのです。妹から離れ、それでも妹に愛情を持つこの兄は、偽物の陽として、地中から咲子のいる地面を支えると宣言します。一方で、正は去る母に未練を感じながらなくなく咲子との結婚に承諾しますし、咲子の方も兄を失ったために妥協して正との結婚を選んでいます。正と咲子の新しい国は、こういう緊張関係を孕むことになり、率直にポジティブなものではありません。問題は、その咲子のいる地面を、兄が地中から支えるという寓意の意味するところは何かです。

 ぼくの考えは、正の国の実質的な権力が、正と咲子の結婚を通じて、正の母から隣の女に移ったのだというものです。偽物の陽として隣の女の養子になった咲子の兄は、むろん義母である隣の女に食わせてもらっているのでしょう。ならば隣の女から咲子の兄へ、咲子の兄から妹の咲子へ、つまり正の国へ、資本が移動していてもおかしくはありません。つまり寓話層での「兄が地中から妹を支える」とは、現実的に考えれば「偽物の陽から正の国への贈与」になりはしないでしょうか。ここで実質的に力を持っているのは、偽物の陽の義母である隣の女なのです。

「自慢の息子」東京公演の写真「自慢の息子」東京公演の写真
【写真は、「自慢の息子」東京公演から。撮影=青木司 提供=サンプル 禁無断提供】


 この劇が示した興味深い観測を明らかにすることができます。それは、実母から義母へ実質的な権力が移行したことにともない、正の国が中心軸を国外に移してしまっているという点です。正の国はひきこもりの独りよがりに過ぎませんでしたが、咲子との結婚を通じて緊張関係を国の内部へ持ち込みました。それは他人との共存という意味では希望でもあったかもしれません。しかしその途端、国の中心は国外に移動し、実質的な権力を手放さなければならなくなったのです。実母から義母へという権力の移動は、正の国をさらに弱体化させるでしょう。偽物の陽の咲子への愛情が、この国の生命線になっているからです。好意だけに頼る国が永続するはずはありません。

 この劇は、現実層と寓話層の間にとどまるという構築原理を持っていました。観客はそこで安住を許されていないのでした。これが何を意味するか。それは、現実層と寓話層の間で、ほとんど救いようがないと思われるような人間の醜態をあたたかく笑ってみせるだけではありません。むしろ、最悪の事態がさらに悪くなるという構造転換を、幻惑的に顕示することこそ狙われていると考えたい。垣間見えていた現実層も、それを覆う寓話層も、言うなれば、一度その境界を仕切り直しているようなものです。観客は間に宙づりにされる、その位置は変わらないのですが、現実層の底は一段と深くなり、寓話層の天井はもっと高くなる。相対的に宙づりにされている間は広くなりますが、その広さのなかに正の国は溶かし込まれるように消えかかるでしょう。

 正と咲子のネガティブな結婚は、偽物の陽というポジティブな存在に支えられている。それは実母から義母への権力の移行を意味しました。終幕、舞台の中央に立つのは偽物の陽です。今や偽物の陽が劇世界の中心人物になっているのです。表題の『自慢の息子』とは、正だけでなく、偽物の陽をも指しているに違いありません。愛情をもとに他国へ贈与する、二つの国の媒介者です。


 さて、ここまで読み進めてきて、この偽物の陽という「自慢の息子」を肯定できると考えたでしょうか。あるいは、否定的に受け止めたでしょうか。観劇されていない方のために、もう少し説明を加えます。隣の女はロックミュージックを愛好しています。したがって、隣の女の養子になった偽物の陽は、日本の若者によくいそうなオシャレ系のファッション(カーゴパンツにピンクのTシャツ!)から、ハードロック系のファッション(ノースリーブのTシャツに色彩タイツとバンダナ!)に変貌を遂げるのです。この表象から、この「自慢の息子」が何の偽物であるかを想起させられずにはいません。ぼくは、偽物の陽から正の国への贈与を、アメリカから日本への贈与の寓意としてみました。正の国はぬいぐるみを国民と見立てた独裁国家ですが、正はひきこもりという特殊性を持った日本の男性です。偽物の陽のファッションに代表されるカルチャーの本場はアメリカでしょう。なるほどこうなれば偽物の陽という「自慢の息子」が、率直にポジティブであることにも疑問が呈されることになるでしょう。そこで照らされるのは、多くの日本人(観客)が独裁国家(正の国)に注ぐまなざしが、アメリカ(偽物の陽の立場に立った観客)から日本(正の国)へ注がれるまなざしと重なるという劇構造だと受け取ることができるからです。そう言い切ってしまえば今度は、変容したまなざしが今まで笑われていた正の国に憐憫を移すというような相対的な主体性を突きつけられてしまう。現実層と寓話層の間では、相対的に気色を変える移ろいやすい主体性が浮遊しているのです。ですから、象徴を顕現させるかに思われたこの劇は、象徴の顕現そのものよりも、その象徴によって捉え返される主体性の移動を突いています。最後の台詞はこうです。

男 ご覧下さい。こちらに展示されているものがこの地の始まりを表しているとされています。
正の母 ……(機械のように動きながら)あたし、今どこにいるの?
男 ……どこにでもいますよ。

 中心となる母が偏在すれば、それにあわせて主体も偏在するということです。そこに意味があるとすれば、そういう方法によってしか知らない事象を知ろうとする構えができないということでしょうか。

 ぼく自身は、主体の偏在を批評方法として利用するだけでなく、生活主体として選択してよいのかという懐疑を持っています。ここで書き表そうと努めた主体性の移動は、観劇者の心に批評的な効果を生じさせるでしょう。これによって、みなれた風景は一変し、今までみていたものが自分たちの姿だったのだと後から気づかされることにもなるでしょう。これをおもしろいと感じます。しかし移動する主体そのものには、ポストコロニアリズム(独立後も継続される植民地主義)を超える契機は含まれていないと思う。むろん簡単に超えられる道があるとも思いませんが、危惧するのは、ポストコロニアリズムという矛盾を批評的な感性という傘の下で暗に肯定してしまいはしないかということです。本作がポストコロニアリズムという政治性を含む以上、こういう状態になっているけれど、仕方がない、肯定しよう、としたいならば、なぜそうなのかと問いたくなりますし、正直なところそれではつまらないとも思います。そういう矛盾を観劇者自身(私)が抱えてしまう。つまり、この劇をおもしろいと感じながら、一方でこれでは変われないと虚しくなるのです。こういった屈折を作家が織り込んでいないとは思いません。ですからより正確にその虚しさについて言えば、こうなるのを理解せざるをえないという虚しさです。

 しかし、芸術家には、芸術を通してこの種の虚しさを超えることが許されているのではなかったでしょうか。この指摘は無い物ねだりにすぎないでしょう。そうだとしても、それをこそみたかったのだと書き残すことには意義があるだろうと思います。なぜなら、ぼくがここで求めているのは、批評を手放さずに可能性の世界をどう描くか、ということだからです。この問いは、現実と虚構を宙づりにしたまま何ができるか、という本作に特徴的な構築原理の変形でもあります。日本におけるポストコロニアリズムの起源となった1945年の敗戦以来、最悪とさえ言える悪夢のような現実が現に広がっている、沈みかけた日本で、21世紀初頭を、残り何十年も暮らさなければならない、こう言ってよければ「ぼくら」に、現実を諦めず、虚構に陶酔せず、一体、何ができるかという、微妙だが、しかし真摯な問いに、これは重なると思うのです。裏返せば、こういった問いが出てくるのは、「ぼくら」が久しく忘れていた、あるいはカッコ付きでしか許しえなかった切実な問いの許される「特別な時間」が、もうすぐそこまで来ている証でもあるかもしれません。作品が開示する世界の高台から、ぼくは何か少しでも晴れた眺望を感じ取りたかったのだと思います。

(2012年4月5日、名古屋の七ツ寺共同スタジオで観劇)

【注】
(i) チェルフィッチュとマジックリアリズムについて補足をします。モツ鍋の反復(「ホットペッパー」)、極度の身体冷化(「クーラー」)、踏んだ死にかけの蝉(「お別れの挨拶」)、長丁場のセックス(『3月の五日間』)、日記に書きつける円(『フリータイム』)、疑似竜宮城への迷走(『ゾウガメのソニックライフ』)と、劇を駆動させる戯曲の構築原理はしばしば魔術的です。台詞やシーンの繰り返しや身ぶりの重視という点でも魔術を想起させます。また基礎にある身体のあり方は現代口語のリアリズムですから、ぼくがここでマジックリアリズムと言うのも的外れではないだろうと思います。そもそも「自分本位の(selfish)」をさらに幼稚化させた名前を持つこの劇団が、魔術(遊び、無意識)に近づくのは当然と言えば当然だったでしょう。

(ⅱ)2012年4月現在、ぼくはままごとの作品を『わが星』しか観劇したことがありませんし、戯曲も『わが星』しか読んだことがありません。すみません。

【筆者略歴】
 西川泰功(にしかわ・やすのり)
 1986年山口県生まれ。2009年より静岡県在住。ライター。静岡アート郷土史プロジェクト 芸術批評誌「DARA DA MONDE(だらだもんで)」(http://ddm.sndcafe.net/)編集代表(オルタナティブスペース・スノドカフェ発行)。ライフワークとして創作に従事し、「西河真功」名義で書いた小説『懐妊祝い』で第23回早稲田文学新人賞最終候補。ブログ「妊婦/忍者」(http://nin2pujya.exblog.jp/)をたまに更新します。

【上演記録】
サンプル 「自慢の息子」(第55回岸田國士戯曲賞受賞作)
全国ツアー (2012年4月4日-5月13日、上演時間は約100分)
作・演出:松井周

【出演】
古舘寛治(サンプル・青年団)
古屋隆太(サンプル・青年団)
奥田洋平(サンプル・青年団)
野津あおい(サンプル)
兵藤公美(青年団)
羽場睦子

【スタッフ】
舞台監督:熊谷祐子
舞台美術:杉山至+鴉屋
照明:木藤歩
音響:中村嘉宏
衣裳:小松陽佳留(une chrysantheme)
ドラマターグ:野村政之
映像・WEB:マッキー
英語字幕:小畑克典・門田美和
宣伝写真:momoko matsumoto(BEAM×10inc.)
フライヤーデザイン:京(kyo.designworks)
票券:中山静子(quinada)
制作:三好佐智子(quinada)・坂田厚子(quinada)・冨永直子

【名古屋公演】
七ツ寺共同スタジオ(2012年4月4日-5日)
◆ポストパフォーマンストーク 4月4日:松井周
【三重公演】
三重県文化会館小ホール(4月7日-8日)
◆ポストパフォーマンストーク 4月7日:岩井秀人(ハイバイ)
【京都公演】
アトリエ劇研(4月10日-11日)
◆ポストパフォーマンストーク 4月10日:ごまのはえ(ニットキャップシアター)
【北九州】
北九州芸術劇場(4月14日-15日)
◆ポストパフォーマンストーク 4月14日:岩井秀人(ハイバイ)
【東京公演】
こまばアゴラ劇場(4月20日-5月6日)
◆ポストパフォーマンストーク
20日(金):サンプルメンバートーク
22日(日):田川啓介(水素74%)
24日(火):長塚圭史(阿佐ヶ谷スパイダース)
25日(水):本谷有希子(劇団本谷有希子)
◆英語字幕付き上演
4月28日(土) 14:00、18:00
【札幌】
コンカリーニョ(5月13日)
ポストパフォーマンストーク 5月13日:松井周

チケット料金:
前売り 3,000円 ※全席自由(整理番号付)
当日 3,300円
学生 2,500円(WEB予約・各劇場のみ取扱い/要学生証提示)
高校生以下 2,000円(三重県文化会館のみ取扱い/要学生証提示)
コンカリーニョ会員価格 2,700円(北海道公演のみ)
半券割引き
特別企画 『歓待』『東京人間喜劇』の半券提示で200円引き (東京公演のみ)

提携:七ツ寺共同スタジオ 三重県文化会館 レディオキューブFM三重 アトリエ劇研 北九州芸術劇場 (有)アゴラ企画・こまばアゴラ劇場  NPO法人コンカリーニョ
主催:サンプル quinada
助成:公益財団法人セゾン文化財団
協力:小熊ヒデジ 青年団 レトル にしすがも創造舎 シバイエンジン

「サンプル「自慢の息子」」への14件のフィードバック

  1. ピンバック: 西河真功
  2. ピンバック: 薙野信喜
  3. ピンバック: 劇団サンプル
  4. ピンバック: YAMAZAKI Kenta
  5. ピンバック: 野村政之
  6. ピンバック: masayukisakane
  7. ピンバック: azusa hirosawa
  8. ピンバック: YOOSHII
  9. ピンバック: azusa hirosawa
  10. ピンバック: Mate Ochi
  11. ピンバック: 松枝佳紀
  12. ピンバック:
  13. ピンバック: 焼鳥山古墳
  14. ピンバック: えびす組劇場見聞録

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