新国立劇場「温室」

◎ただ廻し続けること…その誘惑
 髙橋 英之

「温室」公演チラシ
「温室」公演チラシ

ロブ:  やあ、どうぞギブス君。どうかね、近頃は?
     (二人は握手する。)
      道中楽しかったかね?
ギブス: それはもう、おかげさまで。

 常軌を逸した秩序と奇妙なぬるさが、微妙なバランスをもって共存してきたこの作品のラストシーン。体をゆがませ、極端に足を引きずったロブ(半海一晃)が登場するやいなや、それまで廻り舞台に合わせて繰りひろげられた過剰すぎるなにかや、どうしようもない俗物性はすべてご破算となり、完全静止した舞台に、本物の狂気が張り詰める。半海一晃という役者については、不勉強でよく知らなかったのだが、このわずか数分しかないロブの登場シーンで、舞台を覗きこむ観客を凍りつかせ、そこまでに舞台に登場した全ての役者のエネルギーを一人でさらっていってしまう凄まじさをみせつけられた。

 どこかの国の「本省」と呼ばれる中央組織の幹部と思しきこの人物ロブは、支配する側の人間ともおもえぬ慇懃な対応で訪問者を迎える。その穏やかすぎる応対が、ついさっきまでの舞台の異様なる空気とかけ離れすぎている。ラストシーンの訪問者ギブス(高橋一生)は、この本省の管轄下にあるらしい療養所の専門職員なのだが、彼以外の専門職員は、直前のシーンで、責任者以下10数名が残らず一度に虐殺されているのだ。その惨劇の現場から駆けつけている訪問者に、「道中楽しかったかね?」と声をかける男と、その問いかけにいささかの冷静さをも失わず「おかげさまで」などという社交的言辞をさらりと口にする男。それは、不条理ではなく、実のところまったくの現実なのだ。このラストシーンの狂気を、ハロルド・ピンターはリアルなものとして描いたに違いなく、そして、いまこのタイミングでこの作品を東京で観ることになってしまった観客にとっても、このラストシーンの狂気は、もはや不条理というカテゴリーに片付けることはできないだろう。少なくとも自分には、このラストシーンはいまの現実の照射以外の何ものでもないと感じられた。

「温室」公演の写真1
「温室」公演の写真2
【写真はいずれも「温室」公演から。撮影=谷古宇正彦 提供=新国立劇場 禁無断転載】

 新国立劇場の小劇場に入ると、観客席が取り囲む真ん中に、黒い舞台が設置されており、よくみるとそれは廻り舞台になっていることがわかる。その上に配されている机も椅子もランプも書類ケースも全てが真っ赤に染め上げられていて、舞台の黒と異様なるコントラストを示している。更に、舞台の両サイドには、大きなミラーが据え付けられ、舞台が舞台を鏡の中で再現し、それをお互いに映し合っており、さらに天井には、その全ての様子を監視するかのごとき装置がつるされている。この設定は一体なんだろうか。演出家・深津篤史は、脚本家ハロルド・ピンターのト書を大胆に無視して、原作を読んだだけでは再構成できるはずもない大胆な構成の舞台を立ち上げた。

 舞台が動き出す。療養所の代表であるルート(段田安則)とその右腕らしき専門職員ギブスのセリフの応答が始まると、舞台が文字通り動き出している。赤い机と椅子をのせた廻り舞台が、ゆっくりと回転している。廻る舞台に立つ代表たるルートは、巨大なミラーに映される自分の姿を意識しながら、秩序を重んじる元・軍人として、ことさら自らの権威を確認するような発言をくりかえす。

ルート: ギブス君、かく言う私はこの秩序を維持しようと努めて来た。
      いわばこれは天から与えられた使命だ。
      しかるに君は、よりによってクリスマスの朝に、あんなことを言いに来る。

 ルートが指摘する「あんなこと」とは、患者6457号が不慮の死を遂げ、6459号が想定外の子供を産んでしまったということなのだが、代表者ルートには、あってはならないこととして認識される。秩序が乱され、その対応をせねばならない事件だと。情婦の胸をまさぐる俗物性と、自分の面談した患者の番号も曜日も思い出せないような間抜けさをみせ、緊張感というよりは生ぬるさを感じさせる雰囲気の中で、声だけは威厳を保ちながら、ルートは号令する、「犯人を見つけろ」と、「父親を探し出せ」と。参謀たるギブスは、すぐさま、その犯人を見出す。というよりも、正確には、作りだす。一号室と呼ばれる秘密の部屋で、まだ移籍してきて日も浅い専門職員にロボトミー的な電気ショックをくわえて、犯人に仕立て上げてしまおうという狂気の沙汰を画策するのだ。それは、まるで彼自身の犯罪を隠蔽する行為のようでもあり、療養所というシステム全体の秩序を守るための防御行為か免疫反応のようにも見える。ギブスのその隠蔽工作の間にも、舞台は廻り続ける。登場人物たちをのせて。大きなミラーにその姿を舞台ごと再現して、映し出し。見つめるまなざしでもって、見つめられてしまうように。さまざまな角度からの視線を背景に。システムは、廻り続ける。その存続のために。まるで、それが欲望そのものであるかのように。

 ハロルド・ピンターがこの作品を書いた1958年当時、奇妙なエネルギーで守られるシステムとは全体主義であったのかもしれない。初演された1980年においてすら、外部から見れば既に破たんしているとしか思えないのに廻し続けるシステムとは、社会主義の幻想をまとった全体主義国家であったかもしれない。しかし、新国立劇場の小劇場で、演出家・深津篤史が廻し続けた舞台は、明らかな支配者が存在する全体主義のシステムではなかった。舞台を廻し続けたいという誘惑にかられている張本人は、療養所の代表たるルートでもなく、その片腕たるギブスでもなく、その声なき大多数である患者とその寄生者である一般職員たちであったのだ。彼ら彼女らは、この強制収容所と見紛う療養所で、実のところ、ぬるく、楽しく過ごしていたのである。クリスマス・パーティーの景品は、オーブンに入る鴨であり、ポルトガルの葉巻であり、サーカスの入場券だ。療養所という不自由な壁に囲まれながらも、まったりと生きる彼ら彼女らには、代表など関係ないのだ。重要なことは、とにかくシステムが廻り続けること。それが、彼ら彼女らの欲望であり、それが生きることそのものであるのだから。

 死者が出て、望まれざる出産があった療養所は、なんとかして人身御供をでっちあげることで、システムを温存しようと試みる。犯人にでっちあげられる専門職員へのロボトミー的な操作の途中も、システムの中の住人である患者や、一般職員が、声なき大多数として静かに見守っている。全ては、システムを支配する者たちだけではなく、システム内で支配される者たちとの共犯関係により秩序が維持されているのだ。ところが、突然、事件はシステムそのものの存在にかかわるような重大な亀裂であると認識される。それは、死んでしまった男6457号の母親なる人物が、療養所に侵入するのをゆるしてしまい、その迎撃のために専門職員がウソをついてしまったからだ。これは、自己完結的なシステムが、外部からの注目を浴びるきっかけを作ってしまっている。この亀裂、そして危機に、システムはしなやかに対応することができるのか。いまの代表は、この危機を乗り切ることができるのか。出された答えは否であった。軍人あがりのルートは、この微妙なるシステムの危機を十分に理解しておらず、万全の繊細なる対応が要求される局面で、有効策を繰り出せない。そして、ついに、クリスマス・パーティーの凡庸なる演説をもって、失格者の烙印をシステムの住人たちから押されてしまう。そして、惨劇が起きる。

 あらたにシステムが選んだ代表は、数学者にも模されるような冷徹なる能吏ギブス。システムは、しなやかに、自らの存続のために最適解を選択した。舞台は、廻り続ける。真っ赤な机と椅子をのせたままで。ミラーで自らを監視しながら。しかし、ギブスが、その顛末の報告をしに向かう本省のラストシーンでは、舞台は止まっていた。それは、廻り続けることが希求され、その結論として回転を続けるシステムというものが、その実、ニセモノの狂騒に過ぎないことが密かに説明されるのだが、半海篤史の演じるロブが全ての狂気をその止まった舞台で拡大してみせた後、舞台は再び廻り出す。それが、幸せな帰結であるか、不幸せな帰結であるかは分からない。ただ、システムは廻るのである。廻り続けることが、システムの欲望なのだから。

 新国立劇場が2011年-12年シーズンのテーマ「JAPAN MEETS・・・現代劇の系譜をひもとく」で取り上げたこの『温室』の作者ハロルド・ピンターは、ノーベル文学賞受賞者であり、日本の劇作家・演出家にも多大の影響を与えたとされている。実際、自分が池袋コミュニティ・カレッジで開催された青年団「演劇入門」で、約1年弱の指導を受けた、演出家・田野邦彦氏は、いま読まねばならない劇作家としてハロルド・ピンターをあげ、それがきっかけで自分自身この作家の脚本を読むようになったのだった。田野氏の存在がなければ、名前すら知らなかったかもしれないハロルド・ピンターは、まぎれもなく日本が出会ってしまった現代劇の代表的な劇作家の一人であったのであり、新国立劇場のテーマにまっすぐに切り結ぶ選択であったといえよう。ただ、視点をすこしずらしてみると、この「Japan Meets …」には、もう少しひねりの入った意味があるのかもしれない。

6457号が死に、
6459号が子供を産んだ

 これらの事件により亀裂を生んでしまったシステムは、結局のところ、まるで何ごともなかったかのように、廻り続ける。代表をすげ替え、幹部たちを粛清までして、秩序を守るために。ただ、それは、何者かの支配者の意図や命令によるものではない、むしろ、統治される側の患者たちや一般職員たちが、それを望んだのだ。システムを廻し続けることを。作者ハロルド・ピンターの意図としては、そのシステムとは全体主義的なものであったのかもしれない。しかし、いまこの作品が東京で上演されるとき、そのシステムとは、もはや支配者のいるシステムではない。演出家の深津篤史が、廻り舞台に登場人物をのせて、舞台の二方向にミラーを配して、さらに天井から監視装置のようなものをつりさげてみせたとき、そこに立ちあがるシステムとは、監視され管理される者が自らを監視し管理する再帰的な後期近代のシステムであるといえるだろう。そして、その批判が、いま東京でこの作品を観る観客たちに届くことが企図されていると思えてならない。

 無論、この設定が、あまりにいまの時代にシンクロしやすく、2011年-12年というシーズンの最後を飾ってしまったとき、そこに、「ただ廻り続けること」の欲望と狂気というようなイメージで、次のようなアナロジーを読み込んでしまう観客がいたとしても、それは責められないだろう。

6457号が死に、
6459号が子供を産んだ

津波が海岸を襲い
原子力発電が事故を起こした

 いや、ここまでの妄想を投影するのは、やりすぎだろう。
 ハロルド・ピンターはそのような状況など知るはずもないのだから。しかし、宮田慶子がいうところ、「Japan Meets…」というテーマの背景には、当然、このくらいまでをも射程にいれた罠がしくまれていたに違いないのだ。そうだとすると、これからの、新国立劇場の演目から、ますます目が離せなくなってきた。

【筆者略歴】
 髙橋英之(たかはし・ひでゆき)
 京都府出身。ビジネスパーソン。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/ta/takahashi-hideyuki/

【上演記録】
新国立劇場「温室」(JAPAN MEETS・・・現代劇の系譜をひもとくⅥ)
新国立劇場 小劇場(2012年6月26日-7月16日)

作 :ハロルド・ピンター
翻訳:喜志哲雄
演出:深津篤史

■スタッフ
美術:池田ともゆき
照明:小笠原純
音響:上田好生
衣裳:半田悦子
演出助手:川畑秀樹
舞台監督:加藤高
芸術監督:宮田慶子
主催:新国立劇場

■キャスト
高橋一生、小島聖、山中崇、橋本淳、原金太郎、半海一晃、段田安則、

■チケット料金
A席:5250円、B席:3150円、Z席:1500円

★「温室」シアター・トーク★
【日   時】 2012年6月28日(木) 昼公演終演後
【会   場】 新国立劇場 小劇場
【出   演】 深津篤史、高橋一生、段田安則、宮田慶子(予定)
【司   会】 中井美穂
【料   金】 無料(本公演チケットをご購入の方に限ります)

「新国立劇場「温室」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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