杉原邦生/KUNIO 「更地」

◎KUNIO10「更地」を見て感じたこと。
 林 伸弥

太田省吾さんを僕は知らない。
知らないけど、太田省吾という人が生きていた、という事実が堪らなく愛おしい。
いつもそうなんだけれど、作品を見て作品を好きになることより、作者を好きになってしまうことが多い。
駄作だろうとその人の生き様が作品から見えれば、それで良い、というかそれが良い。
エレファントカシマシの宮本浩次のようなあの感じ。あの人はトータルアルバムを作れない人で必ず駄曲がいくつか入っていて、でもその凸凹感含めて愛おしく。
ってそりゃあタダのファンか。
太田さんもかつては駄作を作ったのだろうか。
だったら嬉しいし、なおさら好きだ。

Kunio10の「更地」(作:太田省吾)を見てきた。
更地がある。夫婦が一組やってくる。夫婦はそこにかつて暮らしていた家を見立てていく。そして二人の思い出が語られる。
「それほどリアリズムじゃないんだから」という女の台詞にあるように、「更地」は順序立てて時間が流れて、二人の関係が変化していくような戯曲ではない。否、変化はするんだけど、それが単一の時間上で行われるのではなく、ぶつ切りで、二人の人生の記憶のパッチワークといった趣。
ゴリラの話をしたかと思ったらオシメの話になったり、二人が出会う前に付き合っていた人のことを、それぞれが話し出してみたり。
なんだか死者の会話みたいだと思ったら、そこはさすがの太田さん、そんな安易なものじゃなかったのでした。(太田さんのことを何も知らないのに「さすが」とかごめんなさい)
これは死者の会話ではなく、生者の会話でした。
でもただの生者じゃない。
狂ってしまった二人の生者なんじゃないか。そんな気がしたのです。

ピンクニックのシーン。
山の頂上に敷物を広げてバスケット。
夫は探す。子供たちのことを。
夫は見つける。更地にかぶせられた布の下から子供たちを。
子供たちは廃材で見立てられる。
布。津波。
廃材。子供。

最近、やたら多いよな。震災をテーマに扱う作家。
最近、やたら多いよな。震災に表現を求める作家。

別に構わないんだけど、いつもそこには違和感があったし身構えてしまう自分。
綺麗にまとめられてるあの感じ。
ニュースから流れてくる情報と、震災当日、自分が感じた恐怖をうまく舞台上に収めてみましたって感じで。収めてどーすんだよっていつも思ってた。というか収まるほどのもんしかないのね。
狂気を感じた。
狂気がただ、そのまま舞台上に載っていた。凡庸な作家なら夫婦のノスタルジーに溺れて終わりのところ、太田さんは現実(狂気)をあるがままに(無意識に)戯曲に取り込んでいた。(見立てのシーン、しっかりと戯曲のト書きに書いてある。)
もちろん太田さんは2007年に亡くなっているわけだし、「津波」を意識されたはずもないのだけれどタフな戯曲というのは勝手に時代と呼応するものなのです、ぽこぺん。(ちなみに初演は1992年阪神淡路大震災の前でさえあるという事実)
真に優れた作品はいつだって、初めて見たはずなのに、出会ったはずなのに、ずっと前から知っているような、そんな感覚がいつもある。これが普遍性ということなのかしら。

戯曲の話ばかりで申し訳ない。演出の話も少しだけ。
演出の戯曲の力の引き出し方が素晴らしかった。
こんなにも戯曲に感動したことはかつてあっただろうか。
「更地」に出会わせてくれたKUNIO10にここに感謝を。

ただし一点だけ失敗してる。結構致命的だと思う。でも勇気ある失敗だと思う。僕なら絶対にやらない失敗だ。なぜなら成功させる方法がまだわからないから。

☆はたして「20歳」の俳優(女優)に「初老」の男(女)役を演じることが可能なの
だろうか。

残念ながら夫役を演じた大窪人衛さんと妻役を演じた武田暁さんお二人はどう見ても「夫婦」に見えなかった。
「それは貴方の主観でしょう、私には完璧な夫婦に見えたわよ、おほほ」と言われたらそれまでなんだが、本当に主観だけで済ましていいの?どうなのぽこぺん、という疑問があるので続きを書いていくので悪しからず。
どうも僕には、二人が「夫婦」に見えなかったのは役者の演技の問題とかじゃないような気がするわけです。二人共、信じられないぐらい魅力的だったわけで。
もちろん演劇では若者の俳優が初老の男を演じることはよくあるし、「20歳」の俳優が「5歳」の子供役をやることもある。
しかし現代演劇においてどちらの場合でも演じる前に、必ず一手打たなければならないことがある。
その一手とは「これは若者が初老の男(女)を演じていますよー」「これは若者が子供を演じていますよー。わかっていますよー」という何らかの意思表明を指している。
幸か不幸か、演劇なんだから「子供」を「大人」の俳優が演じて当たり前、という季節は過ぎ去ってしまった。
いつだって前置きが必要なのである。簡単に演劇を信じられなくなっている。前置きがあって初めて「大人」の俳優は「子供」役を演じることが可能になる。
これは「20歳」の俳優が「初老」の男役を演じることにも当てはまる。
本作に置いて夫役を演じた大窪人衛さんはプロフィールを見るに22歳。演出家はそれに対して、確かに「わかってますよ」というアティチュードをとっていた。あえて「20歳」そこそこの俳優に「初老」の男を演じさせることで、「初老」の俳優が「初老」の男を演じるよりも、「更地」という作品を豊かにできるのではないかと狙っていた。主に若者的な感性の追撃によってである。(オリコントップ10に入りそうなラップミュージック、カラフルな衣装、ミラーボール等々)
しかしそれが機能しているようには思えなかった。「20歳」の俳優が演じた必然性がまったくなかったと思う。
というかそもそも「若者が演じてますよー。わかってますよー」といったところで、「20歳」の俳優が「初老」の男を演じることが可能なのだろうか。
あの舞台上にもし、「初老」の俳優を載せた場合、「20歳」の俳優は「初老」の俳優に太刀打ちできたのだろうか。
僕はできないのではないかと思った。
年を重ねるというのは偉大である。
年を重ねているだけで偉いとか僕は思ってしまう。
だって年を重ねれば重ねるほど記憶は積みかさなっていくから。
太田さんはその積み重ねを「愛しい」と、伝えてくれた。

女 あたし、ほしいの、たくさん、たくさん……本当にあったんだってこと。生まれてきて……いなくなるんですもの。
(「太田省吾劇テクスト集(全)」p506)

その「記憶」の積み重ねを「20」歳の俳優がそうそう演じられるのだろうか。
ミラーボールやラップでいくら誤魔化したところで、やっぱりそう見えてしまうのは、僕があまりにも斜に構えていたせいだろうか。
いずれにせよ「更地」は、とある夫婦の「記憶」に関する戯曲であり、「20歳」の俳優だろうが「初老」の俳優だろうが、夫の身体に「初老」の男の記憶を内包させなければならないのは事実である。

どうすればそれができるのか。できたのか。
その答えは自分で考えるしかなさそうだ。

引用:「太田省吾劇テクスト集(全)」(早月堂書房 2007年)

【著者略歴】
林伸弥(はやし・しんや)
 演出家/作家。2009年同志社大学文学部美術・芸術学専攻卒業。京都を拠点に日々演劇活動を行っている。夢は地上征服。最近は大阪・名古屋・東京などにも出没中。

【上演記録】
KUNIO10「更地」KYOTO EXPERIMENT 2012
元・立誠小学校 講堂(2012年9月27日-30日)

演出・美術=杉原邦生
作=太田省吾
出演=武田暁[魚灯] 大窪人衛[イキウメ]

*ポスト・パフォーマンス・トーク
 9月29日終演後 ゲスト 上野友之(劇団競泳水着)
 9月29日終演後 ゲスト 扇田昭彦(演劇批評家)

チケット
一般 = 前売 2,500円/当日 3,000円
ユース・学生・シニア = 前売 2,000円/当日 2,500円
小・中・高校生 = 前売 1,000円/当日 1,000円
※ユースは25歳以下、シニアは65歳以上。
※全席自由、日時指定。

【参考】
KUNIO10『更地』ツイッターまとめ >>

「杉原邦生/KUNIO 「更地」」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: 薙野信喜

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